第9-2話「守れなかった約束」~捕われた理由
━━意識が、浮かび上がる。
最初に、音があった。
遠くで、水が滴るような音。
規則的ではなく、間隔もまちまちで、どこか落ち着かない。
次に、冷たさ。
地面ではない。
背中に触れているのは、硬さを持たない“何か”。
(……ここ、どこだ)
目を開こうとして、すぐにやめる。
まぶたが、重い。
それ以上に、頭の奥が、じんと痺れていた。
━━思い出そうとすると、痛む。
最後に見たもの。
森。
昼食の話。
影が、動いて━━
(……影?)
そこで、記憶が途切れる。
無理に思い出そうとした瞬間、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
「……っ」
小さく、息が漏れる。
声は、思ったよりも弱々しかった。
(声……出る)
それだけで、少し安心する。
生きている。
少なくとも、今のところは。
ゆっくりと、目を開けた。
視界に広がったのは、暗闇だった。
完全な闇ではない。
ぼんやりと、輪郭だけが見える程度の、薄暗さ。
天井。
……いや、天井らしきもの。
距離感が、掴めない。
高いのか、近いのか。
そもそも、天井なのかすら分からない。
(……洞窟?)
そう思ったが、違和感があった。
岩肌の凹凸が、ない。
滑らかすぎる。
壁に手を伸ばそうとして、止まる。
(……体、重い)
動かせないわけではない。
ただ、普段よりも、力が入らない。
水の中にいるような、妙な抵抗感がある。
ゆっくりと、腕を持ち上げる。
指先が、何かに触れた。
(……柵?)
金属ではない。
木でも、石でもない。
透明で、けれど確かに“ある”。
指を滑らせると、軽い反発が返ってくる。
指先が、わずかに沈んだ。
硬いはずなのに、完全には拒まれない。
まるで、生き物の皮膚に触れているような感触だった。
「……檻?」
口に出した瞬間、その言葉が、妙にしっくり来た。
囲われている。
閉じ込められている。
(……攫われた、よな)
状況を整理しようとする。
冷静になろうと、深呼吸する。
吸う。
吐く。
━━息はできる。
空気は、普通だ。
(……ソラは?)
その名前が浮かんだ瞬間、胸がざわついた。
(……一緒、だったはず)
最後の記憶。
腕を掴まれた。
「離しません」って、確かに聞こえた。
(……でも)
ここには、自分しかいない。
「……ソラ」
呼んでみる。
声は、壁に吸い込まれるように消えた。
反響すら、ない。
(……返事、ないよな)
分かっていた。
それでも、呼ばずにはいられなかった。
静かすぎる。
音が、ない。
自分の呼吸音だけが、やけに大きく聞こえる。
(……怖いな)
そう思った瞬間、初めて、はっきりとした恐怖が胸を満たした。
これまでにも、怖い場面はあった。
行政天使。
魂測定。
森。
でも、それらは全部、“誰かがそばにいる”恐怖だった。
今は違う。
完全に、一人だ。
(……落ち着け)
自分に言い聞かせる。
パニックになっても、意味はない。
周囲を、改めて観察する。
檻の外は、ぼんやりとした暗闇。
光源は、見当たらない。
けれど、不思議と“見える”。
暗闇が、均一すぎる。
(……変だ)
目が慣れてきたのか、それとも━━
(……最初から、見えるようにされてる?)
そう考えた瞬間、背筋が冷えた。
「……誰か、いるのか?」
問いかける。
返事は、ない。
だが。
━━気配が、あった。
はっきりとした足音ではない。
空気が、わずかに揺れたような感覚。
檻の外。
暗闇の向こう。
(……来る)
そう直感した。
「……!」
思わず、後ずさる。
背中が、檻の内側に触れた。
━━影が、動いた。
暗闇の一部が、剥がれるように形を持つ。
人のような輪郭。
けれど、顔が、分からない。
目があるのかどうかすら、判別できない。
「……起きたか」
声が、直接、頭の内側に響いた。
耳ではない。
脳に、届く。
「……誰だ」
震えを抑えて、問い返す。
影は、檻の外に立ったまま、動かない。
「お前は、選ばれた」
「……何を、言って」
「魂だ」
その一言で、理解した。
(……目的は、僕)
街での視線。
森での違和感。
全部、ここに繋がっている。
「……僕の魂が、どうした」
精一杯、強がる。
影は、少しだけ首を傾けた。
「大きすぎる」
「……は?」
「人の器に対して、過剰だ」
淡々とした声。
評価するような口調。
「祝福と呼ぶ者もいる。災厄と呼ぶ者もいる」
影が、檻に近づく。
距離が、縮まる。
本能的に、体が強張る。
「だが、我らにとっては━━資源だ」
(……資源)
ぞっとする言葉だった。
「……利用するってことか」
「近い」
否定しない。
「だが、すぐには使わない」
影が、檻を“見る”。
「熟す必要がある」
「……何を、する気だ」
問いかけに、影は答えなかった。
代わりに。
「お前は、自覚していない」
「……?」
「近くの生命に、影響を与えている」
その言葉に、心臓が跳ねる。
(……キノコ)
ソラが言っていた。
品質が、良すぎると。
「意図せず、引き上げる」
「無自覚のまま、世界を歪める」
「……やめろ」
「恐れるな」
影の声は、奇妙なほど穏やかだった。
「壊すつもりはない」
「……じゃあ、何だよ」
影が、初めてはっきりと答える。
「待つ」
その一言が、何よりも怖かった。
「お前が、目覚めるのを」
(……目覚める?)
「その時、お前は選べる」
「……何を」
影は、少しだけ、笑ったような気配を漂わせた。
「生き方を」
一拍の沈黙。
その声色が、わずかに変わる。
「……もっとも」
影は、檻ではなく、虚空の一点を“見た”。
「……あの女は、まだ抑えているがな」
心臓が、嫌な音を立てて跳ねる。
「……ソラのことか!」
だが、問いかけに答えはない。
影は、すでに興味を失ったかのように、暗闇へと溶けていった。
「……待って!」
叫ぶ。
だが、もう遅い。
気配は、完全に消えていた。
檻の中に、再び静寂が戻る。
「……くそ」
膝から、力が抜ける。
分からないことだらけだ。
何をされるのか。
いつまで、ここにいるのか。
(……ソラ)
無意識に、名前を呼ぶ。
返事は、ない。
それでも。
(……来てくれる)
根拠のない確信が、胸の奥にあった。
怖い。
不安だ。
逃げ出したい。
それでも。
(……僕は、待つしかない)
檻の中で、膝を抱える。
暗闇の中、カナタは目を閉じた。
外では、何かが動いている。
世界が、静かに軋み始めていることを、まだ、彼は知らない。
━━そして、この檻が、
「守るための檻」ではないことも。




