第9-1話「守れなかった約束」~制御された追跡
森は、何事もなかったかのように静まり返っていた。
引き裂かれたはずの空気は、すでに自然へと溶け込み、
地面に残された影の歪みも、わずかな名残を残すのみ。
「…………」
ソラは、ゆっくりとその場に膝をついた。
まず、確認。
感情よりも先に、やるべきことがある。
……その前に。
ソラは、意識を深く沈めた。
森そのものではない。
影でもない。
“魂”を探す。
(……カナタ)
名を思い浮かべるだけで、胸の奥が反応する。
間違えようがない。
カナタの魂は、あまりにも強い。
周囲に溶けるタイプではなく、そこに“在る”と主張する存在。
本来なら━━
探すまでもないはずだった。
これほどの魂を、見失ったことなど、ない。
この距離。
この時間。
この森。
(……いるはず)
だが。
「…………?」
ない。
感じない。
輪郭が、掴めない。
気配はあるはずなのに、魂の“位置”だけが、すっぽりと抜け落ちている。
(……隠されている?)
否。
ただ覆っているだけではない。
もっと、精巧だ。
存在そのものを、外界の観測から切り離している。
(……魂の遮断)
そんなことが出来る存在は、限られている。
しかも━━
(……完全、ではない)
ごく、微か。
世界の奥で、わずかに“重み”が揺れた。
カナタの魂は、そこにある。
確かに、ある。
だが、触れられない。
呼びかけても、応えない。
まるで━━
"見つけるな"と、世界ごと書き換えられているようだった。
(……檻)
言葉が、自然と浮かぶ。
力で押さえ込んでいるのではない。
壊しているわけでもない。
“存在を、隔離している”。
「……厄介ですね」
それでも、諦める理由にはならない。
ならば、順序を変えるだけだ。
地面。
影が立ち上がった位置。
空間が裂けた方向。
草の倒れ方、土の擦れ。
(……高度な転移)
詠唱なし。
予備動作なし。
媒介は“影”。
即時転移の中でも、かなり完成度が高い。
距離も、短くはない。
「……手際が良すぎます」
呟いた声は、誰にも届かない。
転移痕は、完全ではない。
一瞬だけ、世界が耐えきれずに残した“歪み”がある。
ソラは、そっと手袋を外し、地面へ指先を伸ばした。
触れた瞬間。
━━ぞわり。
空気の裏側をなぞるような感覚。
冷たく、重く、そして……粘つく。
(……やはり)
影の魔術。
それも、自然発生のものではない。
意図的に“作られた”影だ。
「追跡は……」
一度、目を閉じる。
可能。
だが、通常の手段では不可能。
相手は、こちらが追ってくることを想定している。
痕跡は薄く、わざと“辿れそうな形”を残している節すらある。
(……誘っている)
それでも。
ソラは、立ち上がった。
「……行きます」
誰に向けた言葉でもない。
自分自身に、言い聞かせるように。
━━抑えていた力に、そっと手をかける。
魂の奥。
常に制御し、封じ、調律してきた“部分”。
それを、ほんの一段階だけ、解放する。
「…………」
空気が、微かに軋んだ。
森の音が、遠のく。
視界が、わずかに深度を増す。
見えるのは、物理的な景色だけではない。
魔力の流れ。
影の密度。
そして━━
“通った痕”。
「……見つけました」
それは、線だった。
影が、影のまま、空間を滑った痕跡。
指先でなぞると、ひどく不快な感触が伝わってくる。
(……触れられた)
カナタに。
あの影が。
胸の奥が、きしむ。
(……私のせい)
その感情を、押し込める。
今は、前を見る。
痕跡は、森の外━━街の方向へと、一度だけ伸びている。
だが、途中で、意図的に“折られて”いた。
(偽装……?)
いや。
違う。
「……合流した、のですね」
街の近くで、一度、安全圏へ戻し、 そこから、別の転移。
計画的。
時間も、場所も、選ばれている。
ソラは、迷わなかった。
街の方角へ向かう。
森を抜けた瞬間、石壁が視界に入った。
北門。
ソラは、歩みを止めない。
抑制。
調律。
封印。
そのすべてに、ほんのわずかな“隙”を作る。
(……一刻も、無駄にできません)
魂の奥で、制御輪が一段、外れた。
──踏み出す。
次の瞬間、地面が砕けた。
正確には、踏み抜いたのではない。
速度に、世界の方が遅れただけだ。
風が、遅れて音になる。
景色が、線に変わる。
北門が、迫る。
行政天使が、こちらを認識する。
だが――
演算が、間に合わない。
ソラの身体は、門を“通過した”。
壁の内と外。
その境界に、わずかな圧痕だけが残る。
羽根が揺れたのは、
ソラの背中が、すでに遠ざかった後だった。
その判断が、後に記録上「最適解」と分類されることを、彼らはまだ知らない。
(……止めない判断)
追うという選択肢が、
最初から存在しない速度。
街へ入る。
人の流れ。
石畳。
すべてが、踏み台になる。
跳ぶ。
走る。
加速する。
魂が、身体を上書きしていく。
筋繊維が悲鳴を上げる前に、次の一歩が、すでに前へ出ている。
(……待っていてください)
影の痕跡が、視界の奥で線になる。
ソラは、減速しない。
迷わない。
振り返らない。
ただ━━追う。
奪われた存在のもとへ。
一刻も早く。
世界が追いつく前に。
影が、ある。
街の中に、薄く、広く。
直接的な痕跡はない。
だが、“通過”した余韻が、あちこちに残っている。
視線は、常に一段奥。
(……あの影は)
個ではない。
組織。
もしくは━━
誰かが、この街の“抜け道”を知っている。
ギルド。
行政。
あるいは、そのどちらでもない場所。
(……カナタ)
名前を呼びそうになり、唇を噛む。
今は、感情に溺れない。
必ず、取り戻すために。
影の痕跡は、街の外縁へと収束していた。
古い倉庫。
使われていない管理路。
「……やはり」
最後の転移地点。
ここから先は━━
“向こう側”。
空間が、わずかに呼吸しているように見えた。
ソラは、立ち止まり、深く息を吸った。
抑制を、もう一段階。
「……少しだけ、許してください」
誰に向けた言葉か、自分でも分からない。
それは懇願ではない。
許可を求める“確認”に近かった。
魂が、静かに唸る。
暴れようとはしない。
制御は、今も彼女の手の内にある。
ただ━━
張り詰めた輪を、わずかに緩めただけ。
解放ではない。
開放でもない。
制御されたまま、流量だけを上げる。
それでも、力は━━足りる。
戻れなくなる一線が、意識の端で、確かに近づいている。
だが、今は越えない。
越えないと、決めている。
(待っていてください)
これは、暴走ではない。
助けるために選んだ、“許された範囲”での、全力だ。
必ず、追いつく。
影に奪われた存在を。
必ず、この手で。
ソラは、影の濃い場所へと、足を踏み出した。
━━追跡を、開始する。




