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第7-1「冒険者として、歩き出す日」~おはよう、狭間の世界で

最初に気づいたのは、音だった。

どこか遠くで、木が軋むような、規則的で穏やかな気配。 それは風の音にも似ていて、呼吸の延長のようでもあった。


次に、感覚が戻ってくる。

背中に敷かれた布団の柔らかさ。 肩口を覆う布のぬくもり。

そして――胸が、自然に上下しているという事実。


(……あ)


目を開ける前に、カナタは気づいた。

苦しくない。

重くない。

息を吸うことを、意識しなくてもいい。


ゆっくりと瞼を開くと、視界に入ったのは、柔らかな灯具の光だった。

夜通し灯されていたそれは、少しだけ光量を落とし、部屋全体を淡く包んでいる。


(……朝、なんだ)


この世界に太陽はない。

それでも、夜が終わり、朝が来たことは外の淡い明るさと、空気で分かる。

張りつめていた静けさがほどけ、世界がもう一度、動き出す気配。


カナタは、そっと指を動かした。

ちゃんと動く。

ぎこちなさはあるが、思った通りに。

足も、腕も、首も。

どこにも、あの病室の重さは残っていなかった。


(……すごい)


それだけで、胸の奥がじんわりと温かくなる。

昨日は「一日」だった。 今日は――「続き」だ。


「……起きていますか、カナタさん」


静かな声が、すぐそばから聞こえた。


顔を向けると、ソラがすでに起きていた。

身支度を整え、いつもの落ち着いた様子で、こちらを見ている。


「おはようございます、カナタさん」


静かな声。

穏やかで、落ち着いていて、しかし確かな温度を持つその声は――カナタの耳に柔らかく届いた。


目線を向けると、そこには微笑むソラの姿。

布団の端に腰かけ、まるで自然にそこにいるだけのように、朝の光を受けている。


胸の奥が、一気に熱を帯びる。

思わず肩が少し上がるのを感じ、顔が赤くなる。

初めて、「おはよう」と言われる朝。

言われた瞬間、胸の奥に小さな火花が散るような喜びが走った。


(……こんなに嬉しいものなのか……)


同時に、恥ずかしさも湧いてくる。

自然に返すべきなのに、体が少し緊張していることに気づく。

でも、言葉を口に出さずにはいられない。


「……おはようございます……」


小さな声になったが、確かに返した。

その瞬間、ソラの微笑みがさらに柔らかくなる。

カナタの返事はぎこちなかったかもしれないが、心の中では、喜びが踊っていた。


ソラは無言で、カナタの肩の力や呼吸のリズム、そして魂の輪郭までを視線と無言の感覚で確認する。

昨日の疲労も、体の不調も、すべて消え去っていることを、穏やかな表情のまま受け止めてくれている。


「よく眠れましたか?」


声は柔らかく、それでいて確実にカナタの心に届く。


自然にうなずき、口を開く。


「はい……。気づいたら、朝でした……」


まだ少し恥ずかしさが残る声。

だが、体も心も、昨夜よりずっと落ち着いている。


ソラは一歩近づき、穏やかな眼差しでその様子を確認した。

視線だけで、体の緊張が解け、魂も落ち着いていることを、そっと知る。


「朝食の時間です。食堂へ行きましょう」


カナタは素直に頷き、布団から立ち上がる。

手足に昨日の疲れは残っていない。

動きは滑らかで、息も安定している。

初めての朝を、自分の足で歩くことができる喜びが、全身に広がった。


食堂の扉を開けると、温かい匂いがふわりと迎えてくれる。

パンの香ばしさ、煮込み料理の柔らかい香り、湯気と混ざったスープの温かさ。


女主人は手元の作業を一瞬止め、笑みを浮かべてこちらを見た。


「おはよう。よく眠れたかい?」


自然にかけられるその声に、カナタの胸の奥が小さく跳ねた。

ぎこちないけれど、声を出さずにはいられない。


「……おはようございます……」


口に出した瞬間、顔が少し熱くなる。

小さな声になったけれど、確かに届いたはずだと自分を励ます。

体の緊張はまだ少し残っているけれど、心は昨日よりずっと軽い。

女主人の笑顔は柔らかく、まるで「よく言えたね」とだけ伝えているようだった。

カナタはその微笑みに、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。


(……言えた……こんな簡単なことなのに、嬉しい……)


ぎこちなさと喜びが混ざった感覚。


昨日まで、こんな自然な挨拶を交わすことさえ想像できなかった。

今はただ、声を出せるだけで、朝の空気が優しく包んでくれるようだった。

カナタはそっと椅子に腰を下ろし、目の前に並ぶ朝食を見つめる。


席に着き、カナタはパンを一口、ゆっくりと噛みしめる。


(……食べられる……生きている、って、こういうことか……)


口に運ぶたび、体の中に力が満ちていく。

自分の意思で食べ、呼吸し、心地よい空間に包まれている――そのすべてが、昨日までの制限だらけの生活からの解放だった。


隣でソラは、相変わらず穏やかな眼差しで見守る。

言葉は必要ない。

存在だけで、カナタの安心を保証してくれる。

その存在に、朝の喜びがさらに温かく膨らんでいく。


朝食を終え、カナタはふと改めて口を開く。

朝とは違う、少しだけ自信のある声で。


「……おはようございます」


再び、朝の挨拶を自分から返す。

ソラも微笑んで頷く。


「おはようございます、カナタさん」


その声を聞いた瞬間、胸の奥がふっと熱くなり、喜びと安心が混ざった柔らかな幸福に包まれた。

初めて、互いに「おはよう」と言い合える朝。

小さなやり取りだけど、カナタにとっては昨日まで知らなかった温かさで満ちた時間だった。


(……今日も、生きていける……)


生きている実感、誰かと声を交わせる喜び、そして存在を肯定される安心感。


カナタにとっては、これまで知らなかった「朝の幸せ」を味わう、初めての瞬間だった。

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