第6-8話「魂が街を覚える」ーただいまと、おかえりの夜
しばらくして、廊下の向こうから足音が戻ってきた。
一定で、慌てた様子のない、落ち着いた歩調。
扉が静かに開き、ソラが部屋へ入る。
最初に向けられた視線は、部屋の中ではなく――
真っ先に、カナタへ。
布団のそばに座る姿。
呼吸の間隔。
肩の力の抜け具合。
そして、その奥。
魂の輪郭。
(……問題ありませんね)
外見上の無事だけでなく、魂の流れにも乱れはない。
過剰な熱も、残留する揺らぎも、感じ取れなかった。
それを確認した瞬間、ソラの胸の奥で、ようやく小さく息が抜ける。
(よかった……)
表情には出さない。
だが、ほんの一瞬だけ、目元が柔らいだ。
「ただいま戻りました」
その声に、カナタは顔を上げる。
「……おかえりなさい」
言葉にした瞬間、胸の奥がふっと熱を帯びた。
誰かに向かって「おかえり」と言うこと。
そして、それに対して「ただいま」が返ってくること。
それは、カナタにとって――初めてのことだった。
これまでの人生で、帰りを待つ場所も、戻ってくる相手も、当たり前のように交わす言葉も、持ったことがなかった。
なのに今は、ごく自然に、その言葉を交わしている。
理由も説明もいらない。
ここに居ていい、戻ってきていい。
その事実を、たった一言で肯定された気がして。
(……なんだ、これ……)
胸の奥が、じんわりと温かい。
嬉しい、という感情に、少し遅れて気づく。
ソラは特別なことをしたつもりなどないだろう。
けれどカナタにとっては、それだけで十分だった。
(……おかえりなさい)
もう一度、心の中でそう呟きながら、その小さな幸せを、そっと抱きしめる。
ソラの手には、入浴後に用意してきた新しい部屋着がある。
それを抱え直し、カナタへ向き直った。
「これを使ってください。体を冷やさないように」
声はいつも通り、穏やかで、静かだ。
「……ありがとうございます」
カナタは素直に受け取り、袖を通す。
布が肩に触れ、腕を包み込む。
柔らかな感触が肌に広がった瞬間、張りつめていた緊張が、ふっとほどけるのが分かった。
その様子を、ソラはさりげなく見ていた。
無理をしていない。
呼吸も、表情も、自然だ。
「……ちゃんと、部屋に居てくれたのですね」
ぽつりと、確かめるような言葉。
「はい……言われた通りに……」
それを聞いて、ソラは小さく頷く。
「ありがとうございます。それが、今のあなたにとって一番大切なことでしたから」
褒めるというより、事実をそのまま言葉にしただけの口調。
だがカナタの胸には、その一言が思った以上に響いた。
(……ちゃんと、できてたんだ)
誰かに役に立ったわけでも、大きなことを成し遂げたわけでもない。
それでも――
「言われたことを守れた」という事実が、確かな肯定として残る。
やがて灯りを少し落とし、二人は並んで布団に入る。
距離は近い。
だが、そこに変な緊張はなかった。
触れそうで触れない距離。
意識しすぎることもなく、それでいて、互いの存在を確かに感じられる間隔。
それよりも――
カナタの意識は、別のところへ向いていた。
魂の奥が、重い。
体の疲れとは違う。
筋肉のだるさでも、眠気でもない。
今日一日で浴びた、あまりにも多くの出来事。
喜び、驚き、不安、希望。
それらすべてが、まだ整理されないまま、魂の底に沈んでいる。
けれど――
ソラが隣にいるという事実が、意識せずとも安心を与えてくれる。
呼吸の音。
布がわずかに擦れる気配。
言葉を交わさなくても、「大丈夫だ」と思えてしまう、不思議な感覚。
(……一人じゃないんだな)
それは依存ではなく、ただ孤独ではないという確認。
ソラは何も言わない。
踏み込みすぎることも、放っておくこともない。
必要な距離を保ったまま、ただそこに在り続けている。
(……明日も、ちゃんと生きていける)
そう思ったところで、意識が途切れた。
眠ろうとした覚えすらない。
気づいたときには、深い眠りの底へ落ちていた。
夢も見なかった。
あるいは、覚えていないほど深かったのかもしれない。
こうして、長く濃密な一日は終わった。
魂と体の両方を酷使した初日。
生きていることを、ここまで強く実感した日はない。
静まり返った夜の中、部屋を包む見えない境界は、何も語らず、何も主張せず、ただそこに在り続けていた。




