第6-7話「魂が街を覚える」ー知られずに踏み出した夜
※作者より
今回は(匂い)表現にかなり悩みながら書いたお話です。
もし合わないと感じる点がありましたら、そっと教えていただけると助かります。
不定期更新ではありますが、これからも楽しんでもらえるよう書いていきますので、引き続き応援していただけたら嬉しいです。
カナタは湯桶と布をぎゅっと抱え、胸の奥で呼吸を整えた。
腕に伝わる重みが、妙に主張してくる。
(……落ち着け。大丈夫だ)
自分に言い聞かせるように、ゆっくりと宿の階段へ向かう。
一段、また一段。
木の階段がきしむたび、鼓動がそれに合わせて強くなる。
湯が染み込んだ布は、腕にずしりと食い込んでいた。
その重さが、湯上がりの疲れだけでなく、今日という一日が現実として積み重なっている証のように感じられる。
だが同時に――
頭の奥で、別の不安が芽を出す。
(……匂い……)
さっきまで、湯気と湿り気に包まれていた空間。
あの小さな部屋に、何か“残って”はいないだろうか。
鼻をひくりと動かすが、ここは食堂へと続く通路。
木と香草、煮込みの匂いが混じり合っていて、自分の感覚が正しいのかどうか分からない。
(……戻ったら、ソラが……)
一瞬、心臓が強く跳ねる。
(いや、落ち着け。ソラは、そんなこと……)
理屈では分かっている。
ソラが何かに気づく理由など、どこにもない。
それでも、不安は勝手に胸の奥を引っかいてくる。
階段を下りきり、一階の食堂へ足を踏み入れる。
木と香草の匂いが混じった、温かな空気。
灯具の柔らかな光が、床や壁に揺れている。
昼の喧騒はすでに落ち着き、宿は“休む場所”としての顔に切り替わりつつあった。
その穏やかさが、今のカナタには逆に心細い。
(……目立つな。とにかく、普通に)
視線を下げすぎず、上げすぎず。
湯桶は体の前で、自然に抱える。
布が見えすぎないよう、さりげなく腕で覆う。
――自然に。
――当たり前のこととして。
カナタは、カウンターの向こうに立つ女主人に近づいた。
「お返しします……」
声が震えないよう、意識して抑えた。
女主人はにこやかに振り返り、
何の疑いもない仕草で湯桶と布を受け取る。
その瞬間。
(……見ないで……)
ほんの一瞬。
布に視線が落ちた――ような気がして、心臓が跳ねる。
「……?」
女主人の手が止まった気がした。
カナタの背中に、冷たいものが走る。
(気づいた……?いや、ただ重かっただけだ……)
一秒。
二秒。
永遠のように長く感じられた沈黙のあと、女主人はふっと微笑んだ。
「ありがとうね。ちゃんと戻してくれて助かるよ」
それだけだった。
視線は布からすでに離れ、次の仕事へと自然に向いている。
胸の奥に張りつめていたものが、一気にほどける。
「あ……いえ……」
情けないほど小さな声になったが、女主人は気にも留めていない様子だった。
(……よかった……)
ただ返す。
それだけのこと。
だが今のカナタにとっては、
無事に終えられただけで、胸がいっぱいになるほどの出来事だった。
――できた。
――誰にも知られずに、ちゃんと。
その感覚が、静かに、しかし確かに胸に残る。
階段を上りながら、カナタは無意識に自分の服の胸元を軽く引き寄せた。
(……部屋、大丈夫かな……)
鼻の奥に、わずかな違和感を探す。
緊張が作り出す幻かもしれないし、ただの思い込みかもしれない。
それでも――
ソラが待っていると思うだけで、胸の奥がそわそわと落ち着かなくなる。
(……もし、変に思われたら……)
扉の前で、ほんの一瞬だけ足が止まる。
(……いや。変なことはしてない……。ちゃんと、何もない)
そう言い聞かせて、扉を開けた。
部屋の中には、柔らかな灯りと、静かな空気が広がっていた。
ソラは、すでにそこにいた。
布団のそばに腰を下ろし、こちらに背を向けたまま、窓の外を眺めている。
その姿を見た瞬間、胸の奥がふっと緩む。
(……いるだけで、安心するな……)
「無事に返してきたようですね」
声はいつもと変わらない、穏やかなものだった。
「はい……」
カナタは、なるべく自然に答える。
同時に、さりげなく部屋の空気を感じ取ろうとする。
湯の名残。
木の匂い。
布団の清潔な香り。
(……大丈夫、だよな……)
ソラは特に何も言わない。
鼻をひくつかせる様子も、怪訝そうな沈黙もない。
ただ、いつも通りそこにいる。
それだけで、張り詰めていた不安が、少しずつ溶けていく。
「では、私も入浴に行ってきます」
カナタが顔を上げると、ソラはあくまで自然な仕草で、ふっと視線を逸らした。
その表情は穏やかで、何かを気にしているようには、とても見えない。
(……その前に、少しだけ)
言葉にしない思考が、静かに流れる。
袖の内で、指先がわずかに動いた。
それは魔法の詠唱とも、印を結ぶ動作とも違う。
もっと小さく、もっと繊細な――
魂の“呼吸”に触れるための、慣れた所作だった。
――ふわり。
音も、光もない。
ただ、空気がほんの一瞬、柔らかく撫でられたように揺らぐ。
部屋そのものが、「ここは安全だ」と囁かれたかのように、静かに落ち着く。
ソラの意識は、カナタの魂の輪郭へと慎重に触れていた。
深く踏み込まない。
操作もしない。
ただ、乱れやすい流れをそっと整え、余分な熱や残響が外へ漏れ出さないよう、薄く膜を張る。
――守るための補助。
本人に気づかせないことを、何より優先した配慮。
カナタの呼吸が、わずかに整う。
本人はそれを、湯上がりの疲れが落ち着いたせいだと思うだろう。
それでいい。
次の瞬間、部屋の輪郭は何事もなかったかのように、はっきりと戻った。
ソラは指を止め、何もしていなかったかのように袖を下ろす。
(……これで、今夜は大丈夫ですね)
胸の内で小さく安堵しながら、ソラはいつもの穏やかな声で続けた。
「私が戻るまで、部屋からは出ないでくださいね」
カナタは何も気づかず、ただ素直に頷く。
その様子を一瞥し━━
「一人で無理をしないこと。それだけ守ってもらえれば大丈夫です」
ソラは静かに立ち上がった。
「入浴ついでに、必要なものも揃えてきます」
そう告げて部屋を出る背中は、迷いがなく、自然だった。
扉が閉まる音がして、部屋には再び静けさが戻る。
カナタは布団に腰を下ろし、ゆっくりと息を吐いた。
(……本当に、すごい一日だった)
思い返せば、すべてが始まったのは、案内人に荒野へ送られた瞬間からだ。
初めて自分の意思で動かせた体。
土を踏みしめ、風を受け、走れるという喜び。
ソラと出会ったこと。
一人じゃないと知った安心感。
初めて見る街。
門番での検査。測定不能と言われたときの戸惑い。
人間とは違う、本物の異種族たち。
宿に入り、温かな食事を口にし、湯に浸かった。
どれも、これまでの人生では想像すらできなかったことばかりだ。
部屋の外では、街全体の灯りが少しずつ落ち着いていく。
この世界には太陽も月もない。
だが、夜は確かに訪れる。
灯具の光が弱まり、風が冷たさを帯び、遠くの水音や生き物の気配が濃くなる。
空が暗くなるのではなく、世界そのものが静かに沈んでいく感覚。
それが、この世界の夜だった。
長く、濃密な一日が終わろうとしている。




