第6-6話「魂が街を覚える」ー最初の夕食と小さな事故
※作者より
今回の描写について、少しだけ補足させてください。
作中の出来事は、生活に慣れていく過程で起きた“失敗”として描いていますが、
表現の仕方についてはかなり悩みました。
直接的になりすぎず、けれど何が起きたかは伝わるように――
そのバランスを取るのが難しく、何度も書き直しています。
もし不快に感じられた方がいましたら、どうか一言いただけると助かります。
この話の回は、派手な展開よりも
「生き直す過程」や「日常に順応していく感覚」を大切に描いていくつもりです。
更新は不定期になりますが、
少しでも楽しんでいただけるよう、これからも書き続けていきます。
引き続き、応援していただけたら嬉しいです。
宿の階段を降り、カナタは1階の食堂兼飲み場の扉をそっと開けた。
木の香りがふわりと鼻をくすぐり、温かな光が柔らかく店内を照らしている。
そこに漂うのは、香ばしい料理の匂いと、温かい木材のほのかな香り。
病室では感じることのできなかった「生の空間」が、視覚と嗅覚、体全体に広がった。
「……すごい、これが……普通の食堂……」
カナタは小さく息を漏らす。
長い病院生活では、料理の匂いや熱気を体感することすらほとんどなく、食事は淡白で、時に味気ないものだった。
目の前のテーブルに並ぶのは、どれも温かく、丁寧に盛り付けられた定食。
色とりどりの皿、湯気の立つスープ、焼き立てのパン――五感を刺激するその光景に、思わず胸が高鳴る。
ソラは自然な足取りでカウンターに向かい、穏やかにカナタの座る席を示す。
「こちらに座ってください。初めての食事は、まず味覚と体の反応を確認するためでもあります」
カウンターの向こうから、明るく親しみやすい女性の声が響いた。
「いらっしゃいませ!今日は何にするんだい?」
小柄で手際よく、笑顔で店内をぱっと明るくする。
病院の無機質な空間とは対照的に、ここでは誰もが温かく迎えてくれる。
「えっと……それでは、定食を2つお願いします」
ソラが静かに注文する。
「はい!わかりました、すぐ持ってきますね!」
数分後。
運ばれてきた定食は目にも鮮やかで、温かい湯気が立ち上る。
スープは淡い黄金色で、野菜と出汁の香りが柔らかく立ち上り、口に含む前から食欲を刺激する。
野菜は色鮮やかで、ほのかな甘さがあり、少量の肉は焼き加減が絶妙で香ばしい。
パンは表面が軽くこんがりと焼かれ、中はふわっと柔らかく、手に取ると温かさが伝わる。
香ばしさと小麦の甘い香りが鼻孔をくすぐり、視覚、嗅覚、触覚が一体となって食欲を刺激する。
ソラも同じ定食を受け取り、カナタの隣に座る。
「では、一緒にいただきます」
その一言で、カナタの緊張がわずかに和らぐ。
初めての“普通の食事”を誰かと分かち合える喜びが、胸の奥にじんわりと広がる。
スープを口に含むと、野菜の甘味と出汁の香ばしさが舌の上で混ざり合い、体の奥にじんわりと温かさが染み渡る。
「……うまい……」
思わず声が漏れる。
目を閉じると、病室で抑え込まれていた感覚が一気に蘇り、体全体に満ちていく。
ソラも同じくスープを口に含み、微笑む。
「美味しいですね。こうして一緒に味わえるのも、学びの一部です」
カナタはパンをちぎり、野菜や肉を口に運ぶ。
熱さ、香ばしさ、歯ごたえ、野菜の甘味がすべて複雑に絡み合い、初めて感じる「食べる楽しさ」が体の中心から湧き上がる。
咀嚼するたびに血の巡りを感じ、舌と体が生きていることを知らせる。
「……これが、生の味か……」
その言葉の直後だった。
気づけば、頬を一筋、温かいものが伝っていた。
「……あ……」
驚いて指で拭おうとして、ようやく自分が泣いているのだと分かる。
ただ、胸の奥がいっぱいで、抑えきれなかった。
カナタは視線を落とし、もう一度パンをちぎる。
震える指先のまま、それを口へ運んだ。
「……おいしい……」
噛みしめるように呟く。
熱さも、香りも、甘みも、はっきりと分かる。
涙が滲んでも、味は消えなかった。
また一口。
野菜を。
さらに一口、肉を。
「……おいしい……おいしい……」
その隣で、ソラがそっとカナタの様子に目を向ける。
急かすことも、止めることもせず、穏やかな声で言った。
「とても美味しいですね」
「焦らなくて大丈夫です。ゆっくり、今の感覚を味わいましょう」
その声は優しく、静かで、すぐ傍にあると分かる距離だった。
寄り添うようなその一言に、カナタの胸の奥が、さらにじんわりと緩む。
カウンターの向こうから、食堂の女主人がくすりと笑う。
「そんなに美味しいかい?」
声をかけられ、カナタはびくっと肩を震わせる。
涙を浮かべたまま、こくこくと何度も頷いた。
「……はい……すごく……」
すると女主人は、ぱっと表情を明るくして、胸を張る。
「そりゃあ嬉しいねぇ。そんな顔で食べてもらえりゃ、作りがいがあるってもんよ」
その言葉に、ソラも小さく微笑む。
「料理を作る人の気持ちも、こうして伝わるものですね」
カナタはもう一度、スープを口に運ぶ。
涙が一滴、器に落ちる。
それでも、温かさは変わらなかった。
小さく漏れた声に、胸の奥がじんわりと温かくなる。
食事を終え、カナタは満足そうに息をつく。ソラも隣で微笑みながら、静かに会話を交わす。
夕食後、部屋でソラの表情が少し曇る。
「カナタさん、共同浴場の利用は一人では危険です。今日は私が同行できませんが、ひとりで入らせるわけにはいきません」
カナタは戸惑う。
「え……どうすれば……?」
ソラは微笑みながら店主に声をかけ、熱々の湯を湯桶に汲んでもらう手配をする。
しばらくして、ソラは湯の入った桶を抱えて部屋に戻った。
湯気の立つ桶を前に、ソラは静かに言った。
「では、体を拭きましょう。全身、拭きますよ。服を脱いでください」
「えっ……い、いえ! 自分でできますから!」
思わず強く首を振る。
その反応を見て、ソラは責めるでもなく、穏やかに続けた。
「最初は、難しいでしょう。無理にとは言いませんが……」
淡々とした口調と、迷いのない所作。
押し付けがましさはないのに、その場の流れに逆らいづらい。
カナタは一瞬迷い、視線を落としてから、小さく息を吐いた。
「……じゃあ……上半身だけ、お願いします」
その言葉に、ソラは軽くうなずく。
「分かりました。上半身だけにしましょう」
布を湯に浸し、軽く絞る。
ソラの動きは丁寧で、一定の距離を保っていた。
「失礼します。熱かったり、痛かったりしたら言ってくださいね」
そう断ってから、肩、腕、背中へと順に布を当てていく。
力は入れすぎず、ただ汚れと疲れを落とすための動き。
温かさが肌に広がり、カナタは思わず息を吐いた。
「……あ……」
「熱すぎませんか?」
「いえ……大丈夫です。すごく・・・気持ちいいです」
布が通るたび、張りついていた緊張が少しずつほどけていく。
病室では味わえなかった、当たり前の感覚だった。
やがて上半身を拭き終え、ソラは布を桶に戻す。
「これで上半身は終わりです」
そして一歩、距離を取ってから言った。
「あとは、やってみてください」
カナタが顔を上げると、ソラはすでに扉の方を示している。
「私は廊下のドアの前にいます。困ったら、すぐに呼んでください」
それだけ告げて、ソラは静かに部屋を出た。
扉が閉まる音を聞きながら、カナタは湯桶を見下ろす。
残されたのは、自分の体と、自分で向き合う時間。
(――大丈夫だ)
ソラが一時退室し、カナタは下半身の順応に向き合う。
上半身の感覚は慣れたものの、下半身は未知の領域だ。
布を肌に当てるたび、これまで妄想でしか味わえなかった刺激が体を駆け巡る。
自然と股間が反応し、重く熱を帯び、身体の中心が小さく震くのを感じる。
「……あっ……」
思わず小さな声が漏れる。
羞恥と好奇心、体の自然な反応が胸の内で交錯する。
布でそっと拭きながら、呼吸を整え、込み上げる感覚を必死に受け止めた。
上半身で慣れた感覚が、わずかな支えになる。
それでも、下半身の敏感さは思った以上で、自分の手で制御することに、奇妙な集中を強いられた。
(……まずい……)
次の瞬間、力が抜ける。
熱が一気に引いていき、代わりに、どうしようもない実感だけが残った。
(……やってしまった!!)
湯桶と布を手に取り、思わず顔が赤くなる。
体の中心が強く反応しているのを自覚し、濡れた布が手元で微かに重く感じられる。
視線を落とすと、布にははっきりと“さっきまでなかった跡”が残っていた。
湯気に紛れているはずなのに、それがやけに目についてしまう。
ソラに湯桶を見られるわけにはいかない——胸の奥が熱く、鼓動が速まる。
(……自分で、湯桶を返しに行くしかない)
そう思った時の行動は速かった。
「そ、その……湯桶、僕が返してきます……!」
扉越しに声をかけると、廊下で待っていたソラが少し驚いたように応じる。
「え? 私が戻しますよ」
「い、いえ! 大丈夫ですから。自分で……ちゃんと」
間が空く。
扉の向こうで、ソラが一拍置いてから尋ねた。
「……下半身のほうも、問題なく拭けましたか?」
その言葉に、カナタの思考が一瞬止まる。
胸の奥に、また熱が広がった。
「だ、大丈夫です……! ちゃんと、拭けました」
声が少し上ずるのを必死に抑える。
返事を聞いて、ソラはそれ以上踏み込まなかった。
「そうですか。では、気をつけて行ってきてください」
扉を開けると、カナタは自然な動作を装いながら、湯桶を体の陰に寄せる。
できるだけ視線を合わせないようにし、足早に廊下へ出た。
背後から、ソラの穏やかな気配を感じる。
見送るだけで、何も言わない――その距離感が、今はありがたかった。
羞恥と焦りが入り混じった、小さな冒険。
――これもまた、狭間で生きていくための、最初の試練のひとつだった。




