第6-4話「魂が街を覚える」ー同室という選択肢
一階の喧騒を抜け、カウンター前へ進む。
背後では、酒の注がれる音、笑い声、椅子を引く音が入り混じり、雑多で生きた熱を帯びていた。
さっきまで街路で浴びていた情報とは違う、もっと濃縮された「生活」の匂い。
カナタは、無意識のうちに背筋を伸ばしていた。
ここは街の一部でありながら、半ば公的な場でもある。
泊まるという行為は、ただの休息ではない。
――この街の中に、自分の居場所を持つという宣言だ。
ソラは、そんなカナタの緊張など意に介さぬ様子で、迷いのない足取りのままカウンターに立った。
その姿は、あまりにも自然で、ここが初めての街とは思えない。
「宿泊を希望します。少し長めで」
落ち着いた声だった。
声量も、抑揚も、ちょうどいい。
周囲の喧騒に埋もれず、かといって目立ちすぎない。
カウンターの向こうで、店主が顔を上げる。
人族の男。四十代半ばほど。
肩幅が広く、鍛えられた体つきで、分厚い前腕には古傷がいくつも走っている。
剣や斧を握っていた時代があったのか、それともこの街で揉め事を収めてきたのか――
どちらにせよ、ただの宿屋の主人ではないことは一目で分かった。
その視線が、まずソラを見て、次にカナタへ移る。
値踏みするような目ではない。
だが、長年この街で人を見てきた者特有の、静かな観察があった。
「どれくらいだ?」
低く、短い問い。
余計な愛想はないが、拒絶もない。
「一週間ほどを考えています」
ソラが即座に答える。
その言葉に、店主は小さく唸り、手元の帳簿を引き寄せた。
分厚い紙の束。
革表紙には使い込まれた傷があり、何度もめくられた痕跡が刻まれている。
店主は指先で行をなぞりながら、黙々と確認を続けた。
その沈黙が、カナタにはやけに長く感じられた。
一週間。
それだけこの街に滞在するということは、街の中で過ごす時間も増えるということだ。
露店。酒場。通り。宿。
人の目に触れ続けるということでもある。
測定不能と判断された魂。
まだ“例外扱い”のままの自分。
(……大丈夫、だよな?)
口には出さないが、胸の奥で小さな不安が疼く。
短期滞在なら、通り過ぎるだけの存在でいられる。
だが一週間となれば、街に「住む側」になる。
店主は、やがて帳簿から顔を上げた。
「悪いな。長期用で空いてるのは、一部屋だけだ」
「一部屋……?」
思わず、カナタの口から言葉が漏れる。
「ツインだ。短期用の部屋は埋まってるし、長期滞在者用はそこしか残ってねぇ」
その瞬間、カナタの思考が、一拍遅れた。
ツイン。
一週間。
同じ部屋。
頭の中で、言葉が順番に並び直される。
意味を理解した途端、胸の奥がじわりと熱を帯びた。
「……」
言葉を失ったまま固まるカナタをよそに、ソラは一切の迷いもなく答えた。
「問題ありません。そこをお借りします」
即答だった。
相談も、確認も、間もない。
あまりにも自然で、
まるで他の選択肢など最初から存在しなかったかのような判断。
「……え?」
思わず、間の抜けた声が漏れる。
だがソラは振り返らない。
視線はすでに店主へ向けられ、話は次の段階へ進んでいた。
店主は二人の様子を一瞥し、肩をすくめる。
「ま、最近は人族でも種族混合でも珍しくねぇ。騒がなきゃ構わん」
ぶっきらぼうな言い方だったが、そこに含みはない。
ただの事実確認と注意喚起。
この街では、同室そのものが問題になることは少ないのだろう。
だが――
その一言が、カナタの中で、予想外の方向へ転がった。
(……騒が、なきゃ……?)
一瞬、思考が止まる。
次の瞬間、脳裏に浮かんだのは、まったく別の“騒ぎ”だった。
――夜。
――薄い壁。
――声。
――壁越しに聞こえる、息の乱れ。
――宿という場所で、抑えきれずに漏れる……。
(ち、違っ……! 何考えてるんだ僕は!?)
内心で全力のツッコミを入れる。
同時に、顔に血が集まるのが分かった。
分かっている。
店主の言葉は、明らかに「喧嘩やトラブルを起こさなければ」という意味だ。
騒音。揉め事。酔っ払い。
そういう現実的な話だ。
理屈では、完全に理解している。
それなのに。
(……同室……一週間……)
意識すればするほど、想像が変な方向へ滑っていく。
測定不能だの、例外扱いだの、
さっきまで頭を占めていた緊張感が、
まったく別種の動悸に上書きされていく。
「一週間分、前払いだ。途中で延ばすなら早めに言え」
現実の声に、ハッと我に返る。
ソラはすでに淡々と支払いを済ませ、何事もなかったかのように鍵を受け取っていた。
その仕草は落ち着き払い、余計な感情の揺れなど微塵も感じさせない。
静かに一礼し、手続きを終える。
その横顔を見て、先ほどの自分の妄想が、余計に恥ずかしくなった。
(……僕だけか。こんなの考えてるの)
胸の奥がむず痒い。
居心地が悪くて、どうしていいか分からない。
だが、店主はすでに次の客へと視線を移していた。
この件は、彼にとってはそれで終わりなのだ。
――騒がなきゃ構わん。
その言葉だけが、なぜか耳の奥に残り続ける。
カナタは、深く息を吸った。
そして、必死に気持ちを切り替える。
これは生き直しの始まりだ。
妄想して赤くなる場所じゃない――たぶん。
そう自分に言い聞かせながら、ソラの後に続いて、きしむ階段へと足を向けた。
上へ。
一週間の生活が始まる場所へ。
胸の奥に、期待と不安と、そしてどうしようもない照れを抱えたまま。




