第2-1話「狭間の荒野」~歩けるだけで、涙が出た
光が溶け、次に目を開けたとき、僕は広大な荒野の上に仰向けで横たわっていた。
生前、病室で天井を見つめることしかできなかった自分の記憶が、ふとよぎる。
寝返りひとつ打つにも、人の手を借りていた日々。
身体はあるのに、思うように動かせず、ただ時間だけが過ぎていった。
━━今も、完全ではない。
手足は確かにある。
だが、重さや位置感覚はまだ少しずれていて、意識を向けても、完全には掌握できない。
それでも、指先に力を込めると『そこにある』と、確かに感じられた。
荒野には、砂のように淡く光る大地がどこまでも広がっている。
色は白でも黄でもなく、まるで光の粒が集まって形になったかのような、不思議な質感だ。
地面に手をつくと、柔らかく、しかし確かな感触が掌に返ってくる。
風が頬を撫でた。
ひんやりとした冷たさと、チリチリとした微細な刺激が同時に押し寄せる。
その当たり前の感覚が、胸の奥に遅れて落ちてきた。
━━感じている。
空は青とも白ともつかない、透明な光に満ちている。
雲のような形をした光の塊がゆっくりと漂い、太陽は見えないのに、世界全体が柔らかく照らされていた。
光は温かすぎず、冷たすぎず、まるで呼吸しているかのように穏やかに揺れている。
時間の感覚は曖昧だ。
それでも、空気の重さも、光の質感も、あまりにも現実的で、虚構ではないことを告げていた。
(……動ける)
意識を集中させると、指先がわずかに動いた。
その小さな動きだけで、胸の奥から熱が込み上げる。
思わず息を呑み、震える指先を見つめた。
「……立てるかも……」
声はかすれていたが、自分の耳に届いた。
生前、こんな小さな声すら出すことが叶わなかった。
そのことを思うと、胸がじんわりと痛むように熱くなる。
両膝を曲げ、ゆっくりと上体を起こす。
体は驚くほど軽く、支えられている感覚がある。
足を地面に下ろすと、砂が指の間に入り込み、柔らかさとひんやりした重みが同時に伝わった。
立ち上がる。
少しふらつく。
だが、倒れはしない。
意志だけで体を支えられているという事実が、胸を高鳴らせる。
腕を振ると、風に乗った光の粒が掌をかすめた。
砂よりも柔らかく、空気そのものが触れてくるような、不思議な感触。
思わず掌を広げ、光を掬い上げるようにして動かしてみる。
粒は指の間を滑り、すぐに消えた。
「……歩ける……」
一歩、踏み出す。
砂がわずかに沈み、足の裏に確かな反発が返ってくる。
二歩、三歩と進むたび、体と感覚が少しずつ噛み合っていく。
風が髪を揺らし、耳元で微かな音を立てる。
呼吸をすると、肺に空気が満ちる感覚があり、それだけで生きている実感が胸を満たした。
視界が滲み、涙が溢れそうになる。
理由はすぐに分かった━━嬉しいのだ。
ただ、それだけだった。
足元の大地も、風も、光も。
すべてが『自分の意思で感じられる』ことの喜び。
病室で何度も夢見た光景。
自分の足で立ち、歩き、世界を感じるという、当たり前の願い。
それが今ここにある。
頬を伝う温かさに、遅れて気づく。
涙は止めようとしても勝手に溢れ、拭おうとしてまた笑ってしまう。
胸の奥がいっぱいになり、しばらくその場に立ち尽くした。
やがて━━声とも言葉ともつかない“何か”が、静かに胸に落ちてきた。
━━ここでは、生前できなかったことを試せる。
━━力も、成長も、すべては魂に委ねられている。
説明ではなく、意味だけが伝わってくる感覚。
受け取った瞬間、恐怖はなかった。
荒野は果てしなく広がり、どこへ行くのかも、何が待っているのかも、まだ分からない。
それでも━━怖くはなかった。
生前、何百冊もの異世界小説を読み、頭の中で魔法や戦術を組み立て、想像だけで世界を旅してきた。
ならば、この場所は━━待ち望んでいた世界だ。
空を見上げる。
淡く光る粒が空気を揺らし、世界は静かに息づいている。
光は柔らかく、触れられるように漂う。
一歩、また一歩。
足の裏の感触を確かめながら、僕は歩き出した。
胸の奥に、小さく、しかし確かな決意を抱きつつ。
歩きながら、視界の端に目をやる。
砂の大地は単調ではなく、微かに光の粒が連なり、まるで道標のように浮かんでいる。
風の音は耳に届き、砂の感触は一定のリズムを作る。
自分の体と世界のリズムが、初めて重なった瞬間だった。
息を整えながら、意識を巡らせる。
手足の先まで伝わる感覚、砂の細かさ、風の温度、光の質感━━すべてが生きていることを証明している。
僕はただ歩く。
それだけで、世界と一体になれる。
━━ここから始まる。
荒野の向こうに、何があるのかは分からない。
けれど、胸の奥には、確かな希望と好奇心が芽生えていた。
生前、できなかったすべてを、ここで試せる。
歩きながら、その可能性を確かめていくのだ。
僕は一歩ごとに、身体と魂のつながりを取り戻しながら、荒野の彼方へ歩みを進めた。




