第4-5話「狭間の基礎」~初めての“当たり前”
※作者より
今回のシーンは、正直かなり悩みながら書きました。
排泄というとどうしても生々しくなったり、不快に感じる方もいる題材なので、
「生理現象そのもの」ではなく、
カナタが“自分の体を取り戻した実感”を得る瞬間として描けるよう、表現には細心の注意を払っています。
もし読んでいて違和感や不快感を覚えられた方がいましたら、
ご一報いただけると幸いです。今後の参考にさせていただきます。
更新は不定期になりますが、
これからも少しずつ、カナタの歩みと成長を描いていけたらと思っています。
引き続き、楽しんで読んでいただけたら嬉しいです。
「……あ、あの……ソラ、ちょっと……」
言葉にしかけて、カナタは口をつぐんだ。
胸の奥で、小さな羞恥心がざわつく。
長時間歩いたせいだろう。
さっきから、膀胱のあたりがじんわりと自己主張を始めていた。
(――あ、これ……)
病室では、ただ横たわっているだけだった。
自分の意思で立ち上がることも、歩くことも、ましてや「したい」と感じることすらなかった。
だからこそ、この感覚は新鮮だった。
「どうしたんですか、カナタさん?」
ソラが歩みを止め、柔らかく首をかしげる。
その仕草が余計に恥ずかしさを煽った。
「……その……ちょっと……」
言葉にできない。
顔がじわじわと熱くなるのがわかる。
ソラは一瞬で察したのか、少しだけ距離を取って微笑んだ。
「自然なことですよ。狭間では、生前と同じような生理現象も起こります。無理に我慢する必要はありません」
その言葉に、背中を押された。
カナタは深呼吸し、意を決する。
「……我慢できると思ったんですけど……たぶん、限界です……」
そして次の瞬間、なぜか口から飛び出した言葉。
「ちょっと、お花摘みに行ってきまーす!」
自分でも驚くほど大きな声だった。
言った瞬間に顔が真っ赤になる。
「えっ、ちょっ――」
ソラの声を背に、カナタは砂の大地を全力で駆け出した。
荒野の岩陰にたどり着き、慌てて身を隠す。
心臓がバクバクと鳴っている。
「……ふう……」
ようやく用を足し終え、深く息を吐いた。
体から力が抜け、砂の上に軽く体重をかける。
(――できた)
それだけのことなのに、胸の奥がじんわりと満たされる。
そして、ふと気づく。
「……あれ?」
解放感のあとに、別の疑問が頭をよぎった。
生前、病室でほとんど動けなかった体。
自分の体がどうなっているのか、考える余裕すらなかった。
(――僕の……アレって……)
恐る恐る、確認する。
「……あ……」
そこには、確かな感触があった。
形も、存在感も、生前の記憶と同じ。
「……よかった……」
思わず、心から安堵の声が漏れた。
これがあるかないかで、今後の人生――
異世界ものの定番である恋も……あれも……これも……。
――楽しめるかどうかが、決まってしまう。
そんな馬鹿なことを真剣に考えてしまう自分に、少し笑いそうになった。
そのとき。
背後で、砂を踏む微かな音がした。
「……カナタさん?」
心臓が跳ね上がる。
振り返ると、そこにはソラが立っていた。
少し心配そうな表情で、こちらを見ている。
「だ、大丈夫ですか?」
「――っ!?」
「い、いやっ! あのっ! もう大丈夫で……!」
慌てて体を正し、必死に平静を装う。
顔が熱い。間違いなく、真っ赤だ。
(――見られた!?)
(――いや、たぶん……)
ソラは一瞬きょとんとした後、くすっと小さく笑った。
「大丈夫ですよ。見ていません。ただ……なかなか戻ってこないので、しっかり排泄出来たかと心配になって」
その言葉に、全身の力が抜けた。
「あ……ありがとう……心配してくれて……」
情けない声になってしまうが、ソラは気にした様子もない。
「初めてのことは、戸惑いますよね。でも、それも大切な経験です」
カナタは小さくうなずき、立ち上がった。
砂を踏みしめる感覚が、確かに足裏に伝わる。
――できた。
――ちゃんと、生きてる。
そんな実感が、胸に広がっていく。
「……これで安心した」
思わず、心の声が漏れる。
(これで……これからの生活も、楽しめそうだ)
病室で叶わなかったこと。
人との関わり、冒険、そして――恋。
ソラは微笑み、隣に並んだ。
「さて、街へそろそろ向かいましょう。」
「うん……行こう、ソラ」
二人は並んで歩き出す。
砂煙の向こう、まだ小さく見える街。
光と影が揺れ、人の気配が確かに存在している。
「まずは街で、生活の基盤を整えましょう」
カナタは、その街を見つめながら思う。
――ここからだ。
――ここから、僕の人生が始まる。
そう思えたこと自体が、奇跡のようだった。
生前の自分は、「生きている」と胸を張れる状態ではなかった。
排泄ひとつをとっても、そうだ。
体には常にチューブが繋がれ、
自分の意思とは無関係に、排泄は処理されていく。
恥ずかしい話だが、オムツを履かされていた時期も長かった。
看護師は優しかった。
けれどそれは、あくまで“業務としての優しさ”だった。
「大丈夫ですよ」
「すぐ終わりますからね」
その言葉の裏で、自分が“自立した人間ではない”という現実だけが、静かに、確実に積み重なっていった。
羞恥も、惨めさも、感じてはいけないものとして押し殺していた。
――感じる余裕すら、なかった。
だからこそ。
今、自分の意思で歩き、自分の体で感覚を確かめ、当たり前の生理現象を「一歩」として実感できたことが、どれほど大きな意味を持つのか。
排尿という、あまりにも些細で、しかし確かな一歩を踏み出した今。
カナタの中には、病室では決して芽生えなかった期待と高揚が、確かに宿っていた。
二人の足取りは、恐怖ではなく、未来への期待に満ちていた。




