第1話「物語を読む側の終わり」~白い天井の向こうで、選択が与えられた
白い天井は、ずっと変わらない。
消毒液の匂い。電子音。カーテン越しに差し込む、冬の光。
僕は、ずっとこの部屋の中にいた。
走ったことも、転んだことも、友達と本気で笑ったこともない。
外の世界は、窓の向こうにある遠い物語だった。
でも――小説だけは違った。
スマホの画面を指でなぞるたび、僕はどこへでも行けた。
剣と魔法の世界。森の奥深くに住む獣人。迷宮都市や王都、辺境の村。
ページをめくるたび、病室は消え、足は自由に動き、声も出せる。
想像することだけは、誰にも奪われない。
幼い頃から読み続けた物語は、僕の全てだった。
戦闘の構図、魔法の理屈、世界の法則。
頭の中では、何千回も冒険を繰り返してきた。
それが僕の、生きる理由だった。
16歳の冬。
医師たちの顔を見て、僕は悟った。
身体はもう限界だ。呼吸は浅く、指先は冷たい。
それでも怖くはなかった。
画面に映る異世界の景色を、最後まで見られるから。
「もし……生まれ変われるなら」
小さな声にならない声で、僕は願った。
「魔法が使える世界に行きたい」
「自分の足で歩ける世界に」
「誰かを守れる世界に」
「読む側じゃなく、物語の中に立てる世界に」
最後に浮かんだのは、後悔じゃない。
希望――というより、ただ楽しみな気持ちだった。
心電図の音が、静かに伸びる。
白い天井が、ゆっくりと闇に溶けていく――
━━白い空間に、僕はぽつんと浮かんでいた。
それは自身の体が無いことを意味した。
思念体とでも言うのであろうか。
意識だけがその空間に留まっているような感覚。
天井も壁も床もない。
ただ淡く光が漂うだけで、時間の感覚もなく、音もない。
体は軽く、病室で感じていた痛みや呼吸の苦しさは、すっかり消えていた。
「ここは……?」
声にならない声が頭の中を駆け抜ける。
しかし返事はない。
代わりに、ゆっくりと光が動き、僕の前に一人の存在が現れた。
人の形をしているが、どこか透明で、淡く光を帯びている。
同時に、この存在がどのようなものか理解する。
直感でと表現をした方が分かりやすいだろうか。
自然とこの存在は案内人であり、死後の世界へ正しく導く存在なのだと。
案内人――穏やかで不思議な存在だ。
「あなたは、先ほどこの世を去りました」
死を知らされる。
生前の記憶が一気に溢れ、最後の瞬間の感覚がよみがえる。
ベッドの冷たい感触、点滴の管の重さ、思うように動けなかった体。
病弱で、16年間ほとんど自由にできなかった人生。
でも、小説の中では、何度も自由に生きていた。
剣を振り、魔法を放ち、空を飛び、仲間と戦い、危険に挑んだ。
ページをめくるたび、体の制限は消え、物語の世界で自分を思い切り動かせた
それが、僕の生きる唯一の理由であり娯楽だった。
案内人は淡い声で続けた。
「あなたは、生前、善良に生きました。罪を犯すこともなく、他人を傷つけることもありません。ですから、地獄に行く必要はありません。天国に行くことも可能ですが……今回はあなた自身に選択の余地を与えます」
僕は思わず口を開いた。
「……天国、地獄……そして狭間、ですか?」
「ええ。天国は、魂が穏やかに休み、次の転生まで安息する場所です。地獄は、生前の罪や過ちを浄化する試練の場――いわば、魂の修行の場です」
僕は頭の中で、本で読んだ異世界転生ものの展開を思い浮かべた。
"安息の場所"とか"試練の場"とか、いかにも定番の設定だ。
でも、ここは本物の死後世界。
だからこそ、質問したくなる。
「狭間――って、具体的にはどんな場所ですか?」
案内人は微笑み、首をかしげた。
「狭間は、天国にも地獄にも行けない魂が集う場所です。生前に叶えられなかったことや、学びたかったことを、自らの力で試すことができます」
僕はさらに聞いた。
「魔法とかスキルみたいなものは、使えますか?」
どうしても確認したかった。もし願いが叶うならば、行使できるそんな場所に行ってみたかったからだ。
案内人は柔らかく光をまといながら答えた。
「魂には潜在的な力があります。思考や意志で魔法のようなことを起こすことも、物を作ることも、戦うことも可能です。力の出し方や強さは、生前の経験や想像力によって変わります。あなたのように、想像力の豊かな魂は、とても有利でしょう」
僕は息を呑んだ。
動けない体で何百冊も異世界ものを読み、魔法や剣の理屈を頭の中で試した経験――それが、今度は現実になるかもしれない。
「でも……リスクはありますよね?狭間で失敗したら本当の意味で消滅するとか」
「ええ。迷えば迷うほど、魂は彷徨います。魂が破壊されれば根本からの消滅"魂死"します。強くなるも、立ち止まるも、すべてあなた次第です。ここで学び、鍛え、次の生まれ変わり先を選びなさい。そのための力は、すでにあなたの魂の中にあります」
僕はしばらく黙って考えた。
生前できなかったことを、今度こそ自分の意思で叶えたい――
そう思った瞬間、迷いは消えた。
「……狭間に行きます。……その前に、特別な力……いわゆるギフトやスキルと言った類は頂けないのでしょうか?」
生前幾つもの小説で読んだ経験から、転生前に女神の類から特別な力を貰うのが鉄板。
最後に聞いてみても損はない、という考えから出た言葉だった。
案内人はうなずき、手をかざした。
だが、それ以上語ることなく……
淡い光が僕を包み込み、世界がゆっくり溶けていく。
不安も恐怖もない。
ただ、期待だけが胸を満たしていった。




