執著
愛書狂、人の死、執著は様々、わかっちゃいるけどやめられない?これも御仏の叡智か?せめていくらかでも楽に。
彝 ー眞究竟眞實義ー 掌篇之輯#4 第四輯
古くから馴染みである、創業明治四十一年の書肆に来て、新しく刷り上がったばかりのカタログを手に天平普蕭はふつと思い出す。
アレクサンドル・デュマが愛書狂(ビブリオマニアLe Bibliomane)に就いて書いたユーモラスな短篇、『稀覯本余話(Le Pastissier françois)』に出て来るエルゼヴィル版に関することだ。
デュマと言えば、『三銃士』や『モンテ・クリスト伯』が有名な小説家だが、この短篇は創作と言うよりは実体験に基づくものらしい。
1920年代、二十一歳でパリに出て来た無名の若者は着いたその日にポルト=サン=マルタン座に入り、芝居を観ようとするが、そこで隣席に坐る男が手に持つ小さな古い書籍に興味を惹かれる。声を掛け、その本が愛書狂の垂涎の的、アムステルダムの書籍商ルイ・エルゼヴィルが最初にその名を印した書を1592年に刊行して以来、彼とその後継者たちが刊行する書籍たち、所謂〝エルゼヴィル版〟の一つであることを知り、蘊蓄を聴く。
そういう展開なのだが、同じ書でも余白の大きさで値段が違うという件が最後の方に出て来る。大きいほど価値があると言う。
執著とは摩訶不可思議なものだ。
世俗の価値とは所詮こういうものなのだろうが、超越は決して簡単ではない。むしろ、不可能だろう。
愛書の件で言えば、一部の人にしかリアルではないから、まだ笑えるが、誰もが共通のこととなると、ことの重大さは桁違いになる。
佛陀はかつて言った。
「人は死に際し、心と肉体が苦しむ。身肉は病や患い、又は怪我に苦しみ、心はこの先どうなるのか、又は過去を顧みて苦しみ、生を虚しく思い、又は独り自分だけが死ぬかのように想い、心苦しむ。
私の弟子は肉体は苦しむが心は苦しまない」
大乗仏教主体の国では、この教えは佛教らしくない。大乗の菩薩行は壮大な思想へと発展した。その思想の中心は空であるが、釈迦牟尼如来自身はほとんど空という語を使っていない。
経の集成に晰らかだ。
この世は空であるとは、どちらかと言えば、大乗仏教の祖と言われる龍樹菩薩以降だ。そして、空から聯想するのは、古代ギリシャ哲学のτὸ μὴ ὂνだ。
龍樹(梵: नागार्जुन、Nāgārjuna 2世紀に生まれ。インドの仏教僧)が唱えた空觀と、パルメデニス(古希: Παρμενίδης 紀元前520年頃-紀元前450年頃)の〝あらぬ(ト・メー・エオンτὸ μὴ ὂν)〟は同じではないように見える。
〝あらぬ〟は考概ならぬもので、認識や思惟・思考の対象ではなく、意識できない。通俗的な慣用語の「論外」である。
龍樹は因果関係によって現象が現れているのであるから、それ自身で存在するという「独立した不変の実体」(=自性)はないことを明かしている。これによって、すべての存在は無自性であり、「空」であると論証している。このことから、龍樹の「空」は「無自性空」とも呼ばれる。
この空の思想は、真理を
概念を離れた真実の世界(第一義諦、paramārtha satya)
言語や概念によって認識された仮定の世界(世俗諦 、saṃvṛti-satya)
という二つの真理に分ける。
言葉では表現できないこの世のありのままの姿は、第一義諦であり、概念でとらえられた世界や、言葉で表現された釈迦の教えなどは、世俗諦であるとするため、この説は二諦説と呼ばれた。
仏陀の言は現実的だ。空には到達できない。〝あらぬ〟だ。
遂げられぬ。人は勝てない。執著の根源は生存であり、細胞レベルである。有機物の化学反応の累積である。我々はその表層に過ぎない。
生存を大海とすれば、顕在意識、人間存在は表面をなすがままに漂流する一枚の木の葉に過ぎない。
次輯は祈りについて。