第7話 眠れぬ者
深夜の城。
人間の屋敷なら、誰もが寝静まっているであろう時間。
書庫にあった魔術書に記された知らない術式に心踊らせ、夢中で読み耽っている内に、夜も更けていましたわ。
誰に咎められることもなく、顔色を窺うこともなく、好きに時間を使い、魔術を研究できるというのは、なんと幸福なのでしょう。
手に持った巻の続きを求めて、書庫へと足を運んでいましたの。
カツン、コツンと高いヒールの音が石の床に響く。
絨毯が敷かれた廊下に差し掛かると、その音は吸い込まれて消えていった。
耳が痛くなるほどの静寂。
月明かりだけが、書庫の中にぼんやりと差し込んでいる。
本棚は塔のようにそびえ、壁を埋め尽くし、青白い冷たい空気が神聖さを際立たせておりました。
誰もいないはずと思っていた。
けれど、一人、いらっしゃった。
窓辺に腰かけ、月光を背に白い髪が淡く光る。
まるで月影のような人。
猫背にうつむいて本を読む。
その姿が、静謐で、美しかった。
「ごきげんよう、クラウス様」
わたくしの声に、赤い瞳がこちらを一瞥する。
けれどすぐに、本へと視線は戻された。
「早朝にもお見かけしましたのに、こんな夜更けまで起きてらしたとは……。閣下は、どんな本をお読みになるのですか?」
「……今は、河川の改修に関する本だ」
机には開かれた本と地図、綴じられていない紙束がいくつも広げられていた。
読めない字ではあるけれど、魔術式に用いる文字に似ている……。
魔族の文字でしょうか?
——それがまた、興味をそそりますわ。
「ずいぶんと実用的ですのね?どこか改修工事でも?」
「西側に氾濫する川がある。その改修の方針を私が把握しておかねば、アランに任せれば何をしでかすか分からん」
確かにアランは愉快な男だけど、そんな何をしでかすかも分からない男なのかしら?
と少し不思議に思った。
長年供にしているから、そう判断するのかしら?
「まあ。この城にも被害が及ぶので?」
「いや、町がある」
「魔族の町があるのですか?」
「最近になってな」
クラウス様がこのキャリバン島に幽閉されたのは、十三年前——。
その間に、魔族たちをまとめ上げてこられたのでしょう。
民のために島のインフラ整備をなさっているのね。
「閣下はすでに、この島の領主なのですね!」
「民と折り合いをつけたのはアランだ」
「わたくしも島の民に会ってみとうございます!」
「……魔族しかいないぞ」
それはそうですわ、ここは“キャリバン島”。
他に人間のいない、魔族しかいない閉ざされた島ですもの。
「ええ、ですから会いたいのですわ」
「……襲われる心配はないのか?」
あら?
もしかして、心配してくださっているのかしら?
魔族とは、血縁で魔力を持って生まれる種族の総称にすぎない。
角を持つ者、翼を持つ者、獣に似た姿の者、人間と比べ物にならぬほど長命の者、魔力の使い方が異なるといった、人間と違う点はある。
研究はまだまだですけれども、でも、知性の点では人間と大差ないと聞き及んでいる。
まだアランしか魔族に会ったことがないのですけど、彼を見る限り——むしろ人間以上に理性的とすら思っていたから。
心配される可能性は思い至りませんでしたわ。
「アランと違って、人間を見れば襲うような気性の荒い方ばかりなのですか?」
「……そんな者ばかりではないが……」
「万が一の時は、自衛くらいできましてよ!」
魔族の町——。
正直、胸が高鳴りワクワクしていた。
ギルデンでは王都に暮らしていたから、魔族に会うことはまずない。
地方の山間部なら出くわしたという魔術師の話なら耳にしたこともあるけれど、それだって伝説めいた又聞きばかり。
どんな生活形態をしているのか不明な点も多い。
単独でしか報告されず、町を成すほどの魔族の集落があるなどという話もなかったのだから、想像もつかない。
「……そうか。行きたいのなら、アランに案内を頼むといい」
「ありがとうございますわ!」
これはつまり、わたくしの行動を監視させるために、アランをつける意図もあるでしょう。
島の民、魔族の町という重要な「内部情報」を提示するのですから、慎重で冷静な判断ですわ。
それでも島の「内部情報」に触れることを許されたのは、信用されているということでもあると考えると嬉しかった。
「……不便は無いか?」
「不便、でございますか?」
浮かれているわたくしに、クラウス様は少し気まずそうに尋ねられた。
「ここにはアランしか使用人がいない。貴族の娘としては、不自由もあるだろう……?」
「ん~、特に困ることはありませんわ。部屋も清潔ですし、食事も出てきますし、お風呂も自分で沸かしておりますし、着替えも一人でできる物しか持っておりませんし」
「伯爵令嬢なのに、か?」
その言葉に——本を持っていた手に、思わず力がこもった。
……ええ、確かに。
わたくしは伯爵家の娘ですわ。
けれども、家名が、生まれが、何の役に立つのでしょう。
「変わり者だという自覚はありますけれど……わたくしは魔女ですし。大抵のことは自分でできますの」
少し、語気が強くなってしまった。
——なのに。
「……そう言えば魔女だったな」
思いがけず、少し安心したような、穏やかな声色をしていた。
拒絶でも、侮蔑でもなく。
ただ、わたくしが魔女であることを忘れていただけのような、事実を受け止めただけのような。
そうですわ——ローゼンクランツ王国は、ギルデン以上に魔術を忌避している。
クラウス様は、その国の大公爵。
彼の国の先王の弟——。
他国のことは詳しいわけではないけれど、魔術師が処刑され、魔術書が焚書される国。
周囲に魔術を使える人間なんていないであろう宮廷で育ったなら……想像に難くありませんわ。
わたくしが、貴族社会で孤独だったように——。
「魔女が近くにいなかったのでしたら、無理もありませんわ。
わたくしも、魔術師の集会に入るまでは、魔女がいることを知りませんでしたし。
……魔術を使って生活することを身につけるなんて、そうありませんから」
「魔術師の集会があるのか?」
クラウス様が顔を上げた。
珍しく、本ではなくこちらを見て、食い気味に尋ねられた。
——やっぱり、この方、本当に魔術が好きなのだと……自分に似ているような気がして微笑ましかった。
「ええ。ローゼンクランツにもあるかまでは存じませんが。
ギルデンでは、魔術を学び、語り合い、研究する者たちが、秘かに集まりますの。
公にするわけには参りませんけれど、手紙や集会で情報共有し、交流を持っておりますわ。
わたくしは幸運にも、そのひとつに拾われたから、魔術を基礎から学べましたの」
「それは、良いことだな」
ふと、表情が和らぎ、安堵したように、目蓋を伏せ口元の緊張が緩められた。
きっとクラウス様は、魔術師たちが追われ、魔術が消されていくことを——心から憂いておられるのでしょう……。
「クラウス様は、本当に魔術がお好きですね?」
「……そうだな」
苦笑まじりの、率直な肯定。
無理もありませんわ。
この方は、魔術師であるがゆえに全てを失い、それでも魔術を捨てず、この魔術書の城を築かれた。
キャリバン島に流されても学び続け、“魔王”と魔術師たちの尊敬の意を込めて呼ばれるまでになられたのですから。
——それは、ただの「好き」という以上の感傷もあるのでしょう。
「勉強熱心にしても、クラウス様。こんな時間まで。いつお眠りになられているのですか?」
「……」
ふと、問いかけた質問に、緩んだ間が途端に空気が張りつめた。
何か……いけないことを訊いてしまった気がした。
「民のことを考え、魔術に励まれるその姿は尊敬しておりますが……お身体を壊されては元も子もありませんわ。クマが目立っておいでですし……」
口から出た言い訳がましい言葉も、なんだか余計だった気がしてくる。
返答を待つ短い時間にも、不安が胸を冷やしていきました。
「分かっている。気にするな」
「わたくし、心配なのです。睡眠薬でしたら、お作りできますが……?」
「要らぬ。どうせ、悪夢しか見ない」
感情を押し殺し、擦れた声。
空気が止まり、氷の壁になったように感じた。
これ以上、踏み込んではいけない。
そう明確な拒絶に、わたくしも言葉を失った。
クラウス様は、視線を逸らし、どこか、すまなそうに肩を落とされた。
「……今日はもう下がれ」
「……はい。おやすみなさいませ」
頭を下げて、書庫の扉に向かう。
ちらりと振り返った先には——
再び本に視線を落としたクラウス様の横顔には、静かに悲しみが滲んで見えた。
わたくしにも、どんなに眠ろうとしても眠れなかった時期があった。
その時のことを思うと、記憶すら無いほど苦しかった感覚だけが残っている。
クラウス様は、どんな想いで毎日を過ごされているのかしら。
眠ることすら、恐れるほどの悪夢を抱えて——。
書庫を出てしまったけれど、手に持っている本は、ここに来る時と同じ。
でも戻る勇気は出なかった。
……もう一度、最初から読み直すとしましょう。
今夜は、眠れそうにありませんから。
そうと決めて、後ろ髪を引かれながら、部屋に帰ることにした。