第17話 わずらい(前編)
※過呼吸・トラウマ描写あり。
苦手な方はご注意ください。
フラフラと亡霊のように歩く廊下が、やけに暗く遠かった。
足音だけが響いて、心が沈んでいく。
下を向いているからかもしれない。
あるいは、日が沈んだからかもしれない。
無意識に床ばかり見ていた気がする。
ふと、足元に影が伸びた。
顔を上げると——クラウス様が立っていた。
薄明りの廊下、影が落ちるその表情は——読めない。
「……クラウス様……なんでしょうか?」
自分でも意外なほど、力無い声になってしまった。
体中の倦怠感で肩が落ちる。
クラウス様は眉根を寄せた。
「なぜ、帰りたくない?」
——今まで保っていた糸が切れるような、世界が更に暗くなった感覚に襲われた。
この人は、わたくしを帰らせたいのか——。
彼に——貴方にだけは、言われたくなかった。
「クラウス様は、わたくしがギルデンに帰る方がよいと、本気でお思いですか?」
「帰る家があるなら、その方が良いという話だ。ここではいい様に使われるだけだろ?」
家族であれば、何だって許されるわけではないのに——。
なぜ、わたくしの幸せを勝手に決められるのか——。
「わたくしはここに居ると申し上げておりますのに……それでも帰れとしか仰らないのでしょう?
そんなに、わたくしが目障りですの?」
「そういうつもりでは……」
自分の腕を抱く手が爪を食い込ませて、じりじりと胸を圧迫していた。
「クラウス様はわたくしを疑って、言葉を聞いて下さらないじゃないですか……
そんな風に仰るのであれば、わたくしはクラウス様のことは、嫌いですわ」
「だからそうでは——」
「はっきりとそう言って下さった方が、いっそ精々しますわ。
ギルデンに戻って“アレ”と暮らせばいいと思っておいでなら、そう仰って下さいまし」
遠回しに避けられるのであれば、いっそ憎まれて突き放された方がいい。
——なぜそうして下さらないのですか……。
胸が、息が苦しい——。
言葉を振り絞りながら、悔しくて涙がぽろぽろと大粒に落ちていくのが分かる。
胸が痛くて重い——。
こんな姿を見せたいわけじゃない、こんなことを言いたいわけじゃないのに、勝手にこぼれ落ちていくのが止められない。
どうせ元々無かったもの——。
今まで通りに伯爵家に戻って、収束されるだけなのだから、諦めがつく——。
なのに、クラウス様は優しいから、中途半端に諦めがつかないのが苦しい——。
胸が痛くて、怖い——どうしてこんなに——。
息が浅く早い——目眩がする——体が軋む——。
——ああ、またこの呼吸だ——。
気付いたら止まらない——命令しても体が言うことを聞かない。
自分が自分じゃない、どこか自分から離れた存在みたいで嫌気がさす。
体がガタガタと震え——苦しくて——足がしびれ——床に膝をつく——。
止まらない早い呼吸が——。
この息が悪い——この息を早く——治さなきゃ——。
震えて強張り、ねじれる手で口を塞ぐ——息を止め、無理矢理呼吸の回数を減らす。
体に命令しても、中々止まらない——。
このキャリバン島に来てから、過呼吸は起こらなかったのに——。
こんなんじゃまた——大袈裟と呆れられて——怒られて——。
——嗤われる——。
——こんな姿見られたくなかったのに。
弱々しい自分を他人事のように見て、悔しくて歯を噛みギリギリと鳴る。
断片的に蘇る、耳の奥で、姉の嘲笑の声と、靴の裏と——鈍く繰り返される頭の衝撃が——。
——体が覚えている——吐き気が込み上がって、視界が歪む——。
恐怖と苦痛に、言葉ではない喘ぎと嗚咽の音の上から、低い声が落ちた。
「アリカ嬢」
絞り出すような掠れた声が、騒がしい頭の中で、水を打ったように鮮明に響いた。
「触れるぞ」
伸ばされた大きな手が、涙と汗でぐちゃぐちゃになった頬に触れて顔を上げさせ、目蓋を指で拭われる。
赤い目が、妙に印象に残った——。
口を押えた腕をはがされ、温かい手が指を握る。
「ゆっくり呼吸しろ」
——言われた通り、息を深く吸う。
痙攣した肺が、途切れ途切れに空気を取り込み、胸が痛くなる。
それでも少しずつ、ゆっくり息を吐き、吸った——。
拭われた目蓋から、またポロポロと涙が落ちた。
「動かすぞ」
体が宙に浮いた。
気が付けばクラウス様の腕に抱き上げられている。
魔術だと冷静に理解しながらも、呼吸に必死で声が出ない——。
頭の中だけが混乱して、体を強張らせることしかできなかった。
腕が背中と脚を支え、もたれかかる衣服越しに体温を感じる。
胸板から見上げる顔が近い。
なぜ、ここまで近いのか。
なぜ、クラウス様の腕に納まっているのか、理解するのに数秒かかった。
そして、妙に冷静になった頭は、クラウス様もまた、人間であることを思い出していた——。
呼吸が落ち着いた頃には、周りの景色が変わっていた。
この廊下は知らない。
いつもは近付かないように言われているから——。




