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『下賤の女と侮るなかれ ~皇帝に見初められし少女の逆転劇~』

作者: 天野 恵

「お前がこの村の代表として、皇宮へ上がるのだ」


村長のその一言で、玲珑れいろうの運命は決まった。


――貢女。

それは、貧しい地方の村から皇宮へと差し出される少女たちのこと。


貴族の娘たちとは違い、政治的な価値もなければ、誰かに庇護されることもない。


ただ「美しい」という理由だけで召し上げられ、宮廷の底で朽ち果てる運命。


村の広場には、集まった村人たちのざわめきが満ちていた。


玲珑は、じっと足元を見つめながら拳を握りしめる。


「……俺たちの村から貢女が出るなんてなあ」

「これで皇宮からの税が軽くなるなら、ありがたい話だ」

「まあ、どうせすぐに飽きられて、下働きか、最悪……」


「言うな! 縁起でもない!」


老人が慌てて口を塞ぐ。


「だがよ、貢女ってのは……」


「つまり、生贄みたいなもんだろ?」


その言葉に、周囲の村人たちは気まずそうに黙り込んだ。


生贄――。


玲珑は、ゆっくりと顔を上げる。


村人たちの表情には、彼女への同情もあれば、安堵もあった。


自分ではなく、彼女が選ばれたという安堵。


それがわかるからこそ、玲珑は苦々しい気持ちを押し殺すしかなかった。


(どうせ、どんな道を選んでも、女は生きるだけで苦労する)


玲珑は、幼いころに母を亡くし、父の再婚相手に虐げられて育った。


継母は、玲珑を奴隷のように扱った。


朝は誰よりも早く起きて井戸水を汲み、家の掃除をし、継母と義妹の食事を作る。


だが、自分の食事は残飯だけ。


「こんなもの……」


以前、継母から投げつけられた茶碗の中身を見て、玲珑は奥歯を噛みしめた。


冷めた粥の表面には、白いカビが浮いていた。


「食えるだけありがたいと思いなさいよ。お前なんて、私が引き取ってやらなければ、とうに野垂れ死んでたんだから」


そう言って嘲笑する継母の顔を、玲珑はじっと見つめた。


昔は悔しくて、泣いたこともあった。


でも、もう泣かない。


(私は、ここで死なない)


玲珑は、腐った粥を一口だけ流し込み、耐えた。


夜になれば寒空の下に追い出され、薄い布を巻いて震えながら眠る日々。


「お前のような汚らわしい子供がいると、運気が下がる」と言われ続けた。



――それでも、玲珑は生き延びた。



「……行きます」


震える声を押し殺し、玲珑は前を向いた。


どうせ逃げられないのなら、皇宮で生き残るしかない。


たとえ、どれだけ非情な世界であろうとも。


ーーーーーーーーーーーーーーー


「顔を上げよ」


低く威厳のある声が響いた。


玲珑れいろうは、ゆっくりと顔を上げる。


目の前に座しているのは、この国の絶対的支配者――皇帝・洛煜らくいく


彼は若くして帝位に就き、その冷酷無慈悲な性格から「氷帝」と恐れられていた。


戦場では敵を容赦なく討ち、政では粛清を繰り返し、側近でさえも彼の真意を測りかねる。


その氷のような皇帝が、貢女の選別に立ち会うなど、ありえないことだった。


――貢女の選別は、ほとんど儀礼的なもの。


低い身分の娘が皇帝の目に留まることなど、まずない。


だからこそ、玲珑もまた、ただ形式的に頭を下げ、静かに息を潜めていた。


だが――


「ほう……」


洛煜の視線が、玲珑の方に止まった。


周囲の空気が、一瞬にして凍りつく。


宦官たちが息を呑み、貴族の娘たちがこわばる。


「陛下……?」


側近の一人が、戸惑いの声を漏らした。


洛煜は、まるで獲物を見つけた猛禽のように、玲珑を見つめていた。


「その目……面白い」


鋭い金色の瞳が、玲珑を射抜く。


玲珑は、ふと気づく。


――貢女たちの多くは、皇帝の前では怯え、顔を上げることすらできない。


しかし、自分は違った。


恐れよりも、反発があった。


(この男が、氷帝……?)


玲珑は、静かに皇帝を見つめ返した。


「貴様の名は?」


洛煜の声が響く。


「……玲珑、でございます」


玲珑は、礼を保ちつつも、目をそらさなかった。


――まるで、対等であるかのように。


「ほう……」


洛煜の唇が、微かに弧を描いた。


側近や貴族の娘たちは、震え上がる。


皇帝が微笑むことは、めったにない。


それは、人が玩具を見つけた時の笑みと、よく似ていた。


「余の元に仕えよ」


宮廷に波乱を巻き起こす一言が、静かに告げられた。


周囲がざわめき、驚愕の表情が広がる。


「陛下、それは――!」


「異例にございます!」


誰かが慌てて口を挟むが、洛煜は一切聞く耳を持たなかった。


「逆らう気か?」


ただ、その一言で、すべてを黙らせる。


玲珑は、内心で苦笑した。


(逃げ場なんて、最初からなかった)


こうなれば、ただ生き延びるだけだ。


玲珑は、深く一礼し、静かに答えた。


「……御意に従います」


その瞬間、玲珑の運命は、大きく狂い始めた――。


ーーーーーーーーーーーーーーー


玲珑れいろうが皇帝に見初められたことにより、宮廷では彼女への嫉妬と陰謀が渦巻いた。


――それは当然のことだった。


皇帝の寵愛を受ける妃たちや、高貴な貴族の娘たちにとって、玲珑は異質な存在だった。


彼女には身分も、後ろ盾もない。


ただの貢女にすぎないはずの女が、なぜ皇帝の目に留まり、側に侍ることを許されるのか。


それが気に食わない者たちは、さっそく動き始めた。


陰で交わされる悪意


「……身分もないくせに!」


玲珑が宮中に迎え入れられた翌日、後宮の廊下を歩いていると、どこからか囁き声が聞こえた。


「たかが貢女のくせに、何を勘違いしているのかしら」

「陛下が飽きれば、すぐに追い出されるわよ」


玲珑は足を止め、声の主を見た。


そこには、絹織の豪奢な衣をまとった側妃・蕭貴妃しょうきひと、その侍女たちが立っていた。


蕭貴妃は、宰相の娘であり、洛煜らくいくの寵愛を受けていると噂される妃の一人だった。


「何かご用でしょうか」


玲珑は、静かに問いかけた。


「……っ!」


まさか、貢女ごときに堂々と見つめ返されるとは思わなかったのか、蕭貴妃は一瞬たじろぐ。


だが、すぐに不敵な笑みを浮かべた。


「ふふ……何でもないわ。ただ、あなたのような身分の低い者が、ここで長くいられるとは思わないことね」


「そうですか。それは、ご心配ありがとうございます」


玲珑は淡々と答え、一礼すると、そのまま歩き去った。


「……っ!」


後ろで侍女たちがひそひそと囁くのが聞こえたが、玲珑は振り返らなかった。


毒を盛る陰謀


ある夜、玲珑のもとに食事が運ばれてきた。


美しく盛り付けられた料理の数々。


だが、玲珑は箸を取る前に、ふと異変に気づいた。


(……香りが、微かに違う)


玲珑は何気ないふりをしながら、傍に控えていた侍女に微笑んだ。


「この料理、とても美味しそうですね」


「はい、台所で特別にお作りしたものです」


侍女はそう答えたが、どこかぎこちない。


玲珑はさりげなく茶をすすぎながら、侍女の表情を観察した。


「では、一緒に召し上がりませんか?」


「え……?」


侍女の顔が強張った。


玲珑は微笑みながら、料理の皿を手に取り、彼女の前に差し出す。


「せっかくのご厚意ですし、私だけではもったいないでしょう?」


「そ、それは……」


「まさか、食べられない理由でも?」


玲珑が静かに問いかけると、侍女の額に汗が滲んだ。


次の瞬間、彼女はがたがたと震え始め、突然、床にひれ伏した。


「ど、どうかお許しくださいませ! 私は命じられただけで……!」


「命じられた?」


「蕭貴妃様が……!」


玲珑は、そっと料理の皿を元の場所に戻し、微笑んだ。


「そうですか。わかりました」


侍女は必死に許しを乞うが、玲珑は何も言わず、ただ静かに扉の外にいた護衛に目配せをした。


「連れて行け」


その一言で、侍女は引きずられていった。


翌日、蕭貴妃は「皇帝に毒を盛ろうとした罪」で処刑された。


玲珑は、何もしていない。

ただ、静かに「事実」を伝えただけだった。


玲珑に対する陰謀は続いた。


使用人たちは陰で嘲笑し、女官たちは彼女を奴隷のように扱おうとした。


だが、そのたびに玲珑は冷静に対処し、機転によって彼女を陥れようとした者たちは次々と自滅していった。


玲珑を虐げようとした女官 は 実は謀反に関与していた証拠を握られ、流刑


「貴族の娘こそ正妃にふさわしい」と皇帝に進言した宰相 は洛煜の逆鱗に触れ、左遷


された。


そして、ある日。


「余の女に指一本触れてみよ。命はないと思え」


洛煜は、冷たくそう言い放った。


彼の言葉に、後宮全体が震え上がる。


玲珑を疎ましく思う者たちは、その日を境に、彼女へ手を出すことをためらうようになった。


玲珑は、ふと洛煜を見つめた。


(どうして、ここまで……?)


洛煜の金色の瞳が、玲珑を捕らえる。


「貴様は、まだわかっていないようだな」


「……?」


「余が、お前を手放すことはない」


その言葉に、玲珑の心が微かに揺れた。


――そして、氷帝の独占欲が、静かに芽生え始める。


ーーーーーーーーーーーーーーー


玲珑れいろうは、皇宮の一角で立ち尽くしていた。


目の前で、ぼろぼろの衣服をまとった中年の女が、彼女の足元に縋りつこうとしていた。


――継母。


幼い頃、自分を虐げ、奴隷のように扱い、最後には家から追い出した女。


その女が、今はみすぼらしい姿で、地面に額をこすりつけていた。


「玲珑……玲珑……! どうか、助けておくれ……!」


しゃがれた声で泣き叫ぶ継母の姿は、過去の彼女からは想像もつかないほど無様だった。


「……助けて、ですか?」


玲珑は、静かに問い返した。


「そ、そうだよ……! 玲珑、お前は今、皇帝陛下の寵愛を受けているのでしょう? 私を、私を助けておくれ……!」


「助ける……ふふ」


玲珑はゆっくりと微笑んだ。


かつて、自分を見下し、侮蔑し、捨てた女が、今度は自分に助けを求めている。


「……覚えていますか?」


玲珑は、静かに問いかけた。


「冬の夜、私は雪の中に放り出されました。あのとき、あなたはこう言いましたね?」


玲珑は、扇を開きながら、冷ややかな声で続けた。


『お前のような出来損ないがいると、家が貧しくなる』


継母の顔が真っ青になる。


「あ……あれは……あれは、その……っ!」


「何か、言い訳でも?」


「違うのよ玲珑! あのときは、生活が苦しかったの! 仕方なかったのよ! わかるでしょう!? わかってくれるわよね!?」


玲珑は、わずかに目を細めた。


「ええ、わかりますよ」


継母の顔がぱっと明るくなる。


「玲珑……!」


「あなたが、ただ自分の都合しか考えていなかったということが」


「っ……!」


玲珑は、ゆっくりと歩を進め、継母を見下ろす。


「私は、雪の中で凍えながら、何度も考えました」


「……」


「どうして、自分はこんな目に遭わなければならないのか」


「……」


「どうして、何も悪いことをしていないのに、捨てられるのか」


継母は震えながら、口を開こうとするが、玲珑はそれを遮るように言葉を続ける。


「そして、私は学びました」


玲珑は、優雅に扇を閉じる。


「人を見下せば、やがて自分が見下される日が来る」


「ち、違うの! そんなつもりじゃ……!」


「違わなくて結構です」


玲珑は、静かに振り返り、控えていた宦官に目を向けた。


「この者を連れて行きなさい」


「はっ」


宦官たちが継母の両腕をつかむ。


「ちょっと……!? 何をするの!? 玲珑!?」


玲珑は、冷ややかに言い放つ。


「あなたと一族もろとも、流刑です」


「いや……! いやぁぁぁ!!」


継母の叫び声が響き渡る。


玲珑は振り向くことなく、その場を立ち去った。


――もう、過去は終わったのだから。


ーーーーーーーーーーーーーーー


宮廷の大殿に、玉座よりもさらに一段高く設けられた座がある。


それは、皇后――皇帝とともにこの国を治める唯一の妃が座るべき場所。


その座に、玲珑れいろうは静かに腰を下ろしていた。


彼女を陥れようとした妃たちは、すでにすべて失脚し、皇帝・洛煜らくいくの側には、玲珑ただ一人が残った。

そして今――


「皇后、玲珑」


ついに、正式にその名が宣言された。



玉座の隣


即位の儀が終わり、宮殿の一室。


窓の外には、満月が輝いていた。


「……まさか、ここまで来るとは思いませんでした」


玲珑は、静かに言葉をこぼした。


「貢女として皇宮に上がったとき、私はただ生き延びることだけを考えていました」


「ふむ」


洛煜は、隣で彼女の言葉を黙って聞いていた。


「それが今は、皇后だなんて……」


玲珑は、そっと自分の手を握る。

まるで夢の中にいるようだった。


すると、ふいに大きな手が彼女の指を包み込んだ。


「……っ」


洛煜の手だった。


「現実だ」


低く、落ち着いた声。


玲珑は、思わず洛煜を見つめた。


「お前は余の皇后となった。それは揺るがない」


「……」


「玲珑」


皇帝は、彼女の名を静かに呼んだ。


「お前を選んだこと、余は一度も後悔していない」


真っ直ぐな視線が、玲珑を射抜く。


その言葉が、玲珑の胸に深く響いた。


「陛下……」


玲珑は、そっと彼の手を握り返した。


彼の掌は、ひどく温かい。


――かつて、誰からも見捨てられた少女は。


今や、この国の最も高貴な存在となった。


そして、その隣には、彼女を愛し、ただ一人として選び抜いた男がいる。


玲珑は微笑み、洛煜の胸にそっと額を預けた。


――終幕。



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