取りに帰りには戻らない
お寒い中、お読み頂き有難う御座います。
ジャンル分けに迷いますね…。
一緒に中庭を駆け回り、共に眺めたのは四角く切り取られた、曇り空。
距離が空いても走れば追いつけた雪の中。
芝生に転げ回った後の笑顔。
悪戯の後の叱責に責任を押し付け合い、喧嘩して。
いつしか婚約者となっていて。
でも、兄妹のように固い信頼で結ばれていた私たちの世界は、狭かった。
「流氷に乗りたいなあ」
「乗ってはだめよ」
「どうして?」
「それは……」
「きみと、探検してみたい! 一緒なら大丈夫!」
真っ赤な頬を寄せ合い、笑う日々。
王都の学舎に学徒として共に通うようになっても、柔らかな縁は固く続くと信じていた。
「すまない、友達と放課後を過ごすことに……また今度」
綻びは、ほんの些細なこと。
レースをほんの少し引っ張ったような、わずかな歪みを感じたのは少女が十二歳の春。
「急に補習になって……また今度」
試験前だから、共に勉強しましょう。
その誘いも断って遊びに行った挙句の果ての十三歳は夏の終わり。
「今は、遊びたいんだ。自由にさせてくれよ。
な、君も友達と遊びたいんだろう?」
寒風の中雪のちらつく婚約式の終わりに、その言葉。後ろには、意味ありげな笑みを浮かべる他の女生徒。
「お姉様……。あの人……、何も分かっていないわ」
「私も分からないわ。何が分からないか分からないの……」
呆れ、怒りを見せる妹に縋って流したのは、一体何の涙だったのか。
少女には分からない。
暗く濁った空の下に領地で見た、沖に流れ着き岸壁で砕ける氷のように、ミシリミシリと割れて広がっていく。
一体何の感情なのか。
あの流氷にふたりで何時か乗ってみたいと、一緒に駄々をこねたのは幾つだったか。
少女は覚えていた。しかし、婚約者は覚えていなかった。
「流氷を見てみたいって、友達が言うんだ。
一緒に泊めてくれないか」
「寒いでしょうけど、我慢してあげますから」
「大丈夫、とんでもなく田舎臭いけど暖かい外套が有るんだ。ミズニーに貸してやってくれ」
「ええー? そんなのヤダー、ドドったらあ。王都で素敵なの探そうよー」
勉強熱心とは言えない婚約者に呼び出されたかと思ったら、ドディの渾名を呼ぶ余所の女生徒と寄り添うさまを見せつけられる始末。
その行為は、彼曰く小さい取るに足らないこと、だろうか。
思い出を踏みにじられて応じる義理もない。
少女は黙って踵を返す。後ろで何か騒ぎを起こしているらしいが、知ったことではなかった。
そして、婚約者と女子生徒。彼らが誰もが目を疑う不貞に達するのは、それから僅かな時間だった。
それだけなら、家同士で話が付いたかも知れない。
彼女が次に婚約者と会ったのは、牢屋だった。
なんでも、連れ込み宿で女を殺したらしい。
殺された女は行きずりなのか、娼婦なのか、はたまた古くからの知己なのか、それすらも分からないようだ。
学校を退学させられて、親からも縁を切られたらしい。書類が受理されるまでしばらく掛かるらしいが、平民として牢屋にいた。
関係者からありとあらゆる縁を切られた平民として、呆然としていた。
でも未だ辛うじて結ばれていたその婚約者としての縁で、少女とドディは向き合っている。
間に鉄格子を挟んではいたが、皮肉にも近年稀に見る近さだと少女は思った。
被害者へ罪を償う気も詫びる気も無かったのだろう。
殺した女の正体について何も言わずに、ドディはただガタガタと震えていた。
地下に拵えられた牢屋は堅牢な石造りで、風は防ぐものの、とても寒い。
北国には必須の暖炉も毛布も壁掛けも、何もなかった。
辛い暮らしなどしたことがなかっただろうから、さぞかし弱っているだろう、と少女は他人事のように彼を見た。
「すまん、本当にすまん。ちょっと浮かれてただけなんだ。本当に愛しているのは」
「お静かに想像なさって」
鉄格子に張り付く勢いでこちらに寄ってきそうな婚約者を、牢番が食い止めるために槍を振るう。
ギラリと濡れたように光る槍の穂先が、彼の喉に食い込んだ。
どうやら、落ち着きのない彼は落ち着いたようだ。
「ひっ、ひ……」
「忘れ物をしたとします」
「あ、ああ……忘れ物? 忘れ物か」
ドディは、血の気が失せすぎて青黒い顔を必死に笑みの形に作って少女を見た。意味が分からない、早く助けろ……俺は可哀想だ!
そんな思いが透けて見える。
それでも媚びるように下手に出たのは、少女が『受け入れ先』にならないと処刑されると、先に聞いたらしい。
学校で他の女子生徒を絡ませていたような、軽薄な笑みだった。
少女は、構わずに話を進める。
「直ぐ近くなら、取りにやらせるか、自ら戻るでしょう。ですが、もう戻るには長くの時間と距離が掛かるとしたら、どうなさいます?」
「……も、戻る……」
「ああ、離れた距離を戻る金銭も掛かりますね」
「……」
「現地で代わりを探すのではないですか? 代替品を調達なさるの、お得意ですものね」
「その、彼女達は……そういうのじゃなくて」
言い訳に苦笑したのか。呆れ果てたのか。
音も立てずに、彼女の唇が震えていた。
「代替品が使い捨てか永久使用かは、私にとってどうでもいいことですわ」
彼女が発したのは、凍るように冷たくパリパリと音がしそうな乾いた声だった。
「あの、本当に大した関係じゃないんだ。本当に大事だから、君だけが」
「あなたにとって、御婦人は誰しも替えの利く遊び相手。
大した事ない忘れ物ですものね」
お陰で、こおんなに距離が空いてるのに気が付かない、と腕で示して見せた彼女はクスクスと笑う。
「た……単なるすれ違いだろう?」
「まあ、すれ違い。
戻ればいいと?
まあ、置き忘れた荷物がそんなに惜しくなりましたの?
代替品に夢中になっておられたのに」
「だから誤解で」
「そもそも、忘れ物が大人しくその場に有るとお思いで? 家族が動かしたり、捨てているかも。そもそも、元々その場に無いかもしれません」
最早その場に何もないというのに。
ホロホロと崩れ落ちそうな声で、少女は笑った。
ドディは必死に少女に問う。しかしこの状況から抜け出すには、見当違いな事ばかりだった。
「ウチの両親が悪かったのか?
婚約続行を望まないとの直談判を退けられなかったら? でも、婚約は小さい頃から君が好きな俺が」
「『放置して大切でない荷物』の所有者は、移り変わるものでは無いかしら?」
だって、誰でも持っていけるのだから。
そう丁寧に説明されて、ようやく気づいたドディの顔から滝のような汗が流れ出ていた。
「私だけでなく、あの洒落た外套がお好きな女生徒。彼女もお忘れ物になったわよね。
だって、貴方が殺したいほど愛した方は別の方だったものね。それとも、ご本人?
はたまた、ふたりめなのかしら」
婚約破棄が決まった時、女生徒は血相を変えていた。
私は悪くない。他人の婚約を壊すだなんて悪事、していない。私の評判に関わるもの。
ちょっとした誤解でももう沢山!
もう話しかけないで。
そう喚いた女生徒を引きずり倒したのは……。
「置き去りのお相手は『心ある』御婦人。
自分の足で駆けて行けるうら若き乙女が、置き去りにした貴方を追いかけてくれる? 果たして、再び親しげに距離を詰めてくれるかしら? 命あればだけれど」
ドディの記憶の中で……ごおおん、と遠くで流氷が割れる音が響く。
大きな木が倒れるよりも早く、寄せる波は恐ろしく獰猛だった。
「むかあし、むかし。
我がトオユキの地は異国に占領されたばかり。流刑の地が有りました」
流刑、と刑罰の名を聞き、ドディは震えた。単なる物見遊山ではない、罪人として少女の領地に送られた者は生きて帰れないと散々聞かされた。
「イヤだ、イヤだ……!
……謝る……から!」
「送られていたのは女ばかりを獲物にした嘘つきの流刑人。
彼らは沢山の御婦人と関係を持ち、結婚詐欺を繰り返しました」
「詐欺だなんて! 詐欺じゃない! 騙してない!」
「お金持ちの婚約者が支払うと嘘を吐き、高価なものを買い漁りました」
「君と働いて返すつもりだった、本当に!」
己で作った借金を返す労働力として少女をアテにしていた。
そう高らかに暴露しつつ、ドディは叫ぶ。保身の為に。
本当に『期間限定のちょっとした遊び』だった。そのつもりだったのだ、と何の慰めにもならぬ叫びだった。
ちょっとした遊びなんて、未来で何の役にも立たない。そう気付くことは恐らく永劫ない。
「開拓民達は、流刑人達を柵で囲いました。
だって、僅かにしか実らない貴重な食料を奪われたくなかった」
「なあ、頼む……! 許してくれ」
「辛い思いをして生きる流刑人達は、逃げ出したいの」
どうしたと思う? と掠れきった声とともに少女は微笑んだ。
「流氷は遠く遠くへ流れてゆきます。そうだ、アレに乗って行きたい場所へ行けば良いと流刑人は考えるのよ」
凍った海の先は、何処までも広く、自由になれる。
「教えてあげるわね。
我がトオユキでは、願い通り流氷に乗せて海の神様に裁いていただくの」
古い時の鐘が鳴り響く。学校が終わる時刻だった。そして、貴族院の手続き業務も終わる。
この瞬間から、ドディは平民となった。
「ま、待ってくれ」
少女は階段を上がる己の足が鉛のように重く感じた。後ろでは悲鳴と、かすかな金属音。
崩れ落ちそうになると、柔らかい手が受け止める。
妹だった。
「お姉様。あんな忘れ物は忘れてしまえばいいの」
少女を案じて一緒に来た妹は、こっそりと話を聞いていたらしい。優しく背中を撫でてくれる。
「じきに、流氷の上よ」
「そうね」
少女は頷き、頬を拭う。其処に涙は無かった。
「でも、何も忘れたくはなかったの」
貴方に名前すら忘れ去られていても