笑顔を見たくて
「お母さん!」
直志の声が聞こえる。手を握られているのも分かっている。
「ごめんね」
口にしたつもりが、声は出ていなかった。
かろうじて意識を繋ぎ留めているのは、ここにいる三人の家族。
雄志。お兄ちゃんらしく責任感が強いけど、とてもナイーブなのは分かってる。そんな雄くんの声を殺した泣き声も、ちゃんと耳に届いている。直志が自分の感情に正直な分、自分を抑えているのよね。
ふたりとも、大人になるまで一緒にいられなくてごめんね。
「由美子、大丈夫か?」
あなた。大丈夫じゃないけど、覚悟はできてる。
治療はできる限りのことをした。でも、しかたないこともあるものね。
もう。みんな、泣かないで。私はとっても幸せだったのよ。みんなのおかげで、とても幸せな人生だったのよ。どうもありがとう。安心して。いつまでも見守っているから。
さようなら・・・・・・。
「お母さん!」
「由美子!」
「母さん ・・・・・・ 」
まだ死んでないわよ。それからあなた、干した布団を取り込むときは、バンバン叩いちゃだめよ。
◇◇◇◇◇◇
二階から階段を下りてくる直志の騒々しい音が家中に響く。
「ねえねえ、俺のユニフォームどこ?」
「あるだろ? 洗濯したぞ、昨日。お盆なのに練習か?」
「大会が近いからね。えっと、どこだ?」
秀平は朝食の後片付けをしながら考えた。水色のユニフォームを洗濯機に放り込んだ記憶が確かにある。
「ん? 待てよ」
洗濯機に放り込んだ記憶はあったが、干した記憶も取り込んだ記憶もない。
「まさか!」
洗剤の泡を落とすのももどかしく、濡れたままの手で洗濯機がある脱衣所まで走った。
洗濯機を開けると、洗われて干されなかった衣類が詰まっている。連日続く猛暑のせいか、蒸れて悪臭の混じった熱気が広がる。そこから皺くちゃになった直志のユニフォームを取り出した。
「うわっ、くっせえ!」
「ごめん ・・・・・・ 」
父親の謝罪に直志は戸惑ったようだ。
「・・・・・・ いいよ」
妻の葬儀が終わり、集まっていた親類などが帰ってしまうと、男三人の生活が始まった。どんなに悲しんでいても、朝がきて仕事や学校という活動が始まる。腹は減るし、家には埃も積もっていく。一日の終わりには風呂に入り、汚れた衣類を洗濯に出す。そういった生活のひとつひとつは自動的に整うわけではない。今まで頭の隅にもなかった当たり前のことに、みんなが打ちのめされていた。
直志は湿っぽいユニフォームに消臭スプレーを吹きかけ、通学に使っている自転車の前かごに洗濯ばさみで留めた。
「この天気なら学校着くまでに乾くっしょ」
そう言って無理に笑顔を作ると、直志はあっという間に行ってしまった。
残された秀平は洗濯機を見て溜息を吐いた。
「どうすんだよ、これ」
百貨店勤務の秀平も、盆休みなどに縁はない。今日もこれから仕事に行かなくてはいけない。始業時間は大半の会社員より遅いものの、この洗濯物を洗いなおして干す時間はない。秀平は洗濯機の前でがっくりと膝をついた。
洗濯を失敗したことがショックなのではない。この、どうにもうまくいかない日常。埋めようもない大きな穴の縁を、絶えず足を踏み外しそうになりながら歩いているような感覚がするのだ。
「由美子 ・・・・・・ どうすりゃいいんだよ ・・・・・・」
自分の不甲斐なさを感じ、秀平は涙声で呟いた。
◇◇◇◇◇◇
二週間前に感じていた高揚感は、いったい何だったのだろう。
タイムカードを押しながら、吉川光子は自問する。半期の決算が終わり、五年振りの異動があった。異動先の上司になる佐藤チーフマネージャーと再び一緒に仕事ができる。
十五年前、新入社員として四か月の研修を終えた後、光子は販売促進部に配属された。その部署では半月後に物産展を控えており、そのチームに突然放り込まれた状態だった。当時、佐藤はそこで主任をしていた。
新入社員の光子は右も左も分からず、できることと言えば、せいぜい雑用だと思っていた。言われたことだけやればいい、と。しかし、佐藤はそうさせてはくれなかった。新入社員であるからこその視点がある、と客観的に意見を述べる『監督』なるポストが与えられてしまった。
売り場の導線やポップの見せ方など、先輩社員に意見を言うのは躊躇われたが、そこは佐藤の裏表がなくハッキリきっぱりした態度のお陰で、誰もが気持ちよく仕事をすることができた。ひとりひとりの得意や要望を尊重し、誰も置き去りにしない手腕に尊敬の念を覚えた。
物産展を終えた時には、数字という目に見える成果とともに満足感、そして何より自信を得た。その後、一年足らずで佐藤は別の店舗へ異動していった。短くも、その期間は光子のキャリアに大きな影響を与えた。
今、光子はあの頃の佐藤と同じ主任である。部下を動かす立場として、自分なりに佐藤イズムを継承しているつもりだ。十五年ぶりに佐藤と同じ部署で仕事ができる。自分の成長を見てもらえる。その期待に胸は踊っていたのだ。
実際に目にした佐藤は、あの頃の輝きをまったく失っていた。『疲れたオジサン』そうとしか思えなかった。目や言葉に力はなく、いつもどこか自信無げに見える。更衣室で耳にした話では、一年前に妻を亡くし、そこから何かが崩れ落ちたように佐藤は変わってしまったようだ。
十五年前、確か佐藤にはまだ幼い息子がいて、妻は第二子を妊娠中だったはずだ。ちょっとした雑談の時、家族のことを話す佐藤はとても幸せそうだった。
売り場に続く通路の途中で、佐藤の後姿が見えた。まだ開店前だというのに皺の寄ったシャツ。髪にも寝癖がついたまま。突然、佐藤は腕に抱えていた大量の紙を落とした。光子は駆け寄り、佐藤と一緒に紙を拾い始める。
「あ、吉川くん。悪いね」
申し訳なさそうな佐藤の顎には剃り残した髭。そして、もみ上げからは頑固そうな白髪が真横に一本突き出している。ネクタイには、いつ付いたのか分からないような古いシミ。
「こういうものは私が持っていきますから」
佐藤が落とした紅葉柄の商品ポップを抱え、光子が言った。
「ああ、悪いね。ありがとう」
その笑顔は弱々しく、昔のような溌溂さは消えてしまっていた。
光子は唇を噛んだ。十五年前と同じとはいかなくとも、もうちょっとしゃんとしてほしい。このままでは、社内での評価も下がってしまうだろう。
「あの!」
立ち上がろうとした佐藤は中腰のまま、大きな声を上げた光子を見た。
「さしでがましいようですが、そろそろ散髪に行かれたほうが ・・・・・・」
「え?」
佐藤は自分の頭に手をやった。指に纏わりつく髪の量で、散髪時期は分かるものだ。
「ああ、すっかり忘れてた ・・・・・・」
呟いた佐藤は顔を赤らめた。
あんなことを異性の部下に指摘されて、ショックだろうし恥ずかしいに違いない。言うべきではなかった。光子は自分の厚かましさを呪った。
「申し訳ありません」
「吉川くん!」
立ち去ろうとしていた光子を佐藤が呼び止めた。
「は、はい?」
「どうもありがとう。他にも気付いたことがあったら、教えてくれないか?」
真剣な顔の佐藤に、光子は戸惑いながら頷いた。
◇◇◇◇◇◇
うだるような暑さはいつまで続くのか。
「うへ~」
アルバイトが終わり、店を出た途端に襲い掛かってきた熱気にうんざりする。国道沿いにできたばかりの、カキ氷を売りにしたカフェで働いていた。涼しそうだし、夏休みを快適に過ごせて給料も貰える。そんなつかさの思惑は、その店で出している大学芋なみに甘いものだった。
とにかく、仕事中も暑くてたまらないのだ。味自慢のこの店では、市販のシロップなど使わない。狭い厨房の三口ガスコンロはフル稼働。ひとつにはイチゴ、ひとつには小豆の入った鍋がぐつぐつと煮えている。もうひとつの鍋には沸騰した熱湯がたっぷり入っており、その前で汗びっしょりのオーナーが穴あきレードルを持ち、白玉が茹で上がるタイミングを見計らっている。さらに、その隣のフライヤーでは、さつまいもを揚げているのだ。
かき氷機は昔ながらの大きな手動のもので、注文が入れば重いハンドルを全速力で回さなければいけない。もたもたしていると、氷がどんどん溶けていってしまうからだ。
「夏にかき氷屋なんかやめろ!」
つかさは心の中で叫んだ。
店の厨房が暑いといっても、午後の直射日光も尋常ではない。さらに、熱に焼かれたアスファルトからの熱気で、トースターで焼かれる食パンみたいな気持ちになる。
「食パンの気持ちってなに?」
自分で自分に突っ込んでみた。暑さのせいで思考までヤバくなっている。
つかさは公園に入った。ここを横切ったほうが近道なのだ。木陰を選んで歩いていくと、先のほうで手を振っている革ジャン姿の女性が目に入った。
「つかさー!」
「か、和美さん?」
バイク事故で亡くなった幽霊だ。成仏したはずなのに。
「どうして? あ、お盆か!」
「そう。久し振りだねぇ。あれ、なんかげっそりしてない? 何かあったの?」
和美が心配そうに尋ねてきた。幽霊よりも悪い顔色をしていたようで少しショック。
つかさは和美とベンチに座り、バイト先の過酷な現状について文句を並べた。
「それで、客席は涼しいと思うじゃない? でも、お客さんはだいたいかき氷を食べてるから身体が冷えてくるんだろうね。決まって言われるの。『冷房を弱くしてくれ』って。こっちは鼻の頭に玉の汗浮かべてるっていうのに」
和美はけたけたと笑い声をあげた。
屈託のない笑い声につかさの気持ちが和む。彼女が生きている間に出会っていれば、良い友人になれただろうと改めて思う。
「そういえば、お母さんは? 元気にしてる?」
悲しみに沈んでいた和美の母親のことが気になっていたのだ。
「元気、元気。陶芸教室に通い始めたみたいで、今日も朝から出掛けたの」
「そうなんだ」
「結構上手くてね。いいのができたら、先生のワークショップに出品してもらえるんだって。電話で話してるの聞いちゃった」
和美は誇らしげに微笑んだ。
「でもね、どうやら若い頃にやってたらしいのね。私は全然知らなかったんだけど。きっと、子育てとかで余裕がなかったんだろうね」
親にもかつて青春時代があった。頭では分かっていることだけど、その実態など知らないし想像もつかない。どんなことに打ち込んでいたのか、どんな夢を持っていたのか、どんな恋愛をしてきたのか。家族でも知らないことは多い。そのひとなりの歴史を誰もが持っているのだ。
和美と別れて家路を辿るつかさは、僅かだが心の中の雲が晴れた気分だった。悲しみが完全に癒えることはなくても、打ち込めるものがあるのは、きっと良いことだと思う。
◇◇◇◇◇◇
公園を出て信号を渡り、角を三つ曲がって自宅が見えてきた。暑くてたまらず、早くエアコンの効いた家に入りたい。頭の中はそれしかなかった。だから、幼馴染の雄くんのお母さんを見掛けた時も、なんの躊躇いもなく挨拶をした。
「こんにちは」
軽く会釈をしつつ足は止めずに歩き続けた。さながら、オアシスを求める砂漠の遭難者のごとく。
「こ、こんにちは ・・・・・・」
戸惑ったような雄くんママの声で、つかさはハッと我に返った。
雄くんのお母さんは亡くなったんだった。一昨年、確かガンで。
つかさは恐る恐る振り向いた。雄くんママは、驚きに大きく目を見開いていた。
「私のこと見えてるのね? つかさちゃん!」
「い、いや。あ、あの ・・・・・・」
どうしたらいいのか、うろたえてしまったつかさだが、そのしどろもどろさが動かぬ証拠だ。
「まあ、おばさん嬉しいわ。それにしても、つかさちゃん素敵な女性になったわねぇ。大学生よね? 学校はどう? 彼氏はいるの?」
矢継ぎ早の質問に、つかさはすっかりたじろいでしまった。相変わらずのテンションの高さだ。この人が幽霊だなんて信じられない。
すっかり圧倒されてしまっているつかさの家の玄関が開いた。
「あら由美ちゃん、久し振り! お盆で?」
じょうろを手にしたつかさの母親が尋ねた。
◇◇◇◇◇◇
外は暑い、ということで長谷川家のダイニングに場所を移し、思い出話に花を咲かせた。
幽霊とは関わるなと言っておいて、自分はこうしてママ友の幽霊と楽しそうに話し込んでいる。つかさと雄志は小学校に上がる頃にはもう一緒に遊ばなくなったが、母親同士の交流は続いた。近所に同い年の子供がいる母親ならば、関りを持つのも必然。ましてや気が合うとなれば、もはやママ友というより戦友に等しい絆が生まれる。
「そうなの、雄くん帰ってきてるんだ」
雄志は北関東にある大学で寮生活を送っているらしい。
「もう、真っ黒に日焼けして」
すぐ横のソファでは、つかさの父親が寝そべってテレビを見ている。父からしたら、母がひとりで楽しそうに喋っているだけなのだ。父はチラチラと母がいるダイニングの方に目をやる。
「誰かと電話で話してるのか?」
「ああ、佐藤さんとこの奥さんが来てるのよ。お盆だから」
父は自分の妻と娘が『見える』ということを知っている。ふたりがそういう話( 例えば「今朝、玄関の前に男の幽霊いたでしょ?」「ああ、見た。見た」)をしていると、たいそう恐怖を感じるのである。
「ああ、ご無沙汰しております。いやぁ、毎日暑くてたまりませんねぇ」
父は視線を泳がせながら挨拶をした。由美子も会釈をしたが、こらえきれずに吹き出した。
「いやあねえ! 幽霊だもん、暑いとか寒いとか関係ないよねえ! アハハハ!」
つかさの母も一緒に笑い出した。
「じゃ、じゃあ、ごゆっくり ・・・・・・」
そそくさと父は退散した。
冷たい麦茶で生き返ったつかさは、おかわりを注ごうと席を立った。その様子を目で追いながら、由美子は溜息を吐いた。
「いいわねぇ、女の子は。なんていうか、穏やかで」
「そぉんなことないわよぉ。つかさが穏やかなんて、笑っちゃうわよ」
母は本当に笑っている。由美子はもう一度溜息を吐いた。
「実は、直志がね ・・・・・・」
由美子の話によると、次男の直志と父親の仲が険悪だとのことだ。ほとんど口をきかず、目も合わせない。喧嘩というよりは、直志のほうが怒っていて、父親は腫れものを扱うように接しているようなのだ。
「反抗期じゃないの?」
つかさの母の言葉に由美子は首を傾げた。つかさもまた腑に落ちない思いだった。あそこのパパは、どちらかといえば体育会系のがっしりしたタイプで、常に明るく公正な印象がある。反抗期の息子など、どっしりと構えて受け止めるような度量はあるんじゃないかと思えた。
「男手ひとつじゃ難しいのかなぁ」
「 ・・・・・・」
心配そうな由美子に、つかさも母親も、掛ける言葉が見つからなかった。
◇◇◇◇◇◇
次の日もアルバイトに行くため、つかさは家を出た。ちょうど鈴木家の前を通りかかった時だ。玄関から雄志が出てきた。
「おお、つかさじゃん。久し振り」
数年ぶりに見る雄志は、父親譲りのがっしりした体格で、スポーツマンらしく日焼けしていた。ちらりと覗く白い歯が眩しい。
雄志は昼ご飯の買出しに行くという。お盆で帰省したというのに、父親は仕事、弟は朝からアルバイトで忙しく、自分は放っておかれていると笑いながら愚痴をこぼした。
「みんな大変だねぇ」
つかさの父親は早朝から釣りに行き、弟は何かのフェスに行くと言って出掛けていった。お盆休みだからといって、家族で旅行に行くなどということもない。小さかった頃は、長野にある母親の実家へ帰省したものだが、もうここ数年行っていない。
「つかさなんて、行ったら大変よ。みんなから『結婚はまだか、子供はまだか』って質問攻めにあうから。みんな考えが古いのよ」
高校生になった年の夏休み、母にそう言われた。
母の実家は何代も続く農家で、お盆には大勢の先祖が集まるのだ。その先祖たちがとにかく厄介らしい。
「私も高校生の頃から毎年うるさく言われたのよ。まったく、いつの時代の話って思うわよ」
「いつの時代の人なの?」
「うーん、明治初期とか」
そんなわけもあり、長谷川家がお盆に帰省するのは、つかさが結婚をして子供を産んだ後になりそうだ。
「帰ってきたのをいいことに、色々家事を任されてるよ」
苦笑いをした後、「それじゃ」と言って雄志は歩き出した。すると、慌てた様子で由美子が家から出てきた。
「つかさちゃん! 雄志を止めて! ヤカンを火に掛けっぱなしなの!」
それは大変だ。火事になってしまう。
「ねえ、ねえ!」
「え?」
雄志を呼び止めたものの、どうやって火が点けっぱなしだと伝えればいいのか。
まさか「あなたのお母さんの幽霊が教えてくれた」などとは言えない。
「な、なんか焦げ臭くない?」
「ん?」
有志は鼻をクンクンさせて首を傾げた。もちろん、そんな臭いはしないのだ。それでも雄志は家に向かって急いで駆け出した。
「やべえ! ヤカンの火、消してなかった!」
もどかしそうに鍵を開け、家の中に飛び込む雄志を見送る。
「ありがとう、つかさちゃん」
由美子はホッとした顔でお礼を口にした。
バイトの時間が迫っていたつかさは、そそくさとその場を後にした。
雄志がサンダルを脱いだ時、ヤカンの笛がけたたましく鳴り始めた。小走りでキッチンまで行き、ガスコンロの火を止めた。
ホッとした雄志は、改めて辺りの臭いを嗅いだ。
「焦げ臭いかなぁ?」
つかさの言葉を思い出し、眉根を寄せて首を傾げた。
◇◇◇◇◇◇
太陽は夕刻になっても沈まず、セミはこれ以上ないほどのテンションで鳴きまくる。
「お~い、帰ったぞ」
釣りに行った父が帰ってきた。両手に特大のスイカをふたつ持って。
「お父さん、釣りに行ったんじゃなかったの?」
「帰りにな、無人販売所で売ってたんだよ。このサイズで二個千円って買いだろう」
父曰く、今日行った湖に魚は生息していなかった。そんなはずはないと思いながらも、受け流す。
「こんなに大きいの、冷蔵庫に入んないわよ」
テーブルに置かれたふたつの巨大な釣果を見ながら、母が口を尖らせた。と、パンと手を叩き、つかさの方へ顔を向けた。
「ねえ、ひとつ佐藤さん家へ持って行ってよ。ついでに、様子も見てきて」
「ええ? 私が?」
幼稚園の時以来、ほとんど交流はない。今朝、雄志と話はしたものの、家まで押しかけて行くのは気が引ける。母は頷いた。
「私が行くと、あの子たち委縮するから。小っちゃい頃は『つかさママー、つかさママー』 って纏わりついてきたのに。中学校に入る頃になると途端に敬語で話して、よそよそしくなるの。おかしいわよねー」
母はそう言って笑いながら、そういうことだから早く持っていけ、とつかさを促した。
「おおーっ、すっげーでっけースイカ!」
玄関に出てきた雄志の後ろに由美子もいる。
「もうすぐ直志も帰ってくるからさ、上がれば」
雄志が言うと、由美子も頷いた。
「そうそう、上がって上がって」
「おじゃましまーす」
スイカを雄志に渡し、靴を脱いだ。
母親からの任務を忠実に遂行しようという気持ちより、幼い頃によく訪れたこのが懐かしかったのだ。『遠くの親戚よりも近くの他人』の言葉通り、緊急事態の時にはここへ預けられたのだ。弟が産まれる時は、この家にお泊りもした。雄志や直志にしても、長谷川家で過ごした時間は多かったはずだ。
男所帯で散らかっているかと思いきや、感心するほど片付いていた。むしろ、つかさの部屋の方が汚いくらいだ。
和室の居間に仏壇があり、つかさは線香を供えた。
「ありがとね、つかさちゃん」
すぐ横に立っている由美子が言った。
「ローソクの火は消しちゃって。火事になると困るから」
「あ、はいはい」
このちゃきちゃきとした感じ、懐かしく思いながらローソクの火を消した。
キッチンに行くと、雄志がまな板と包丁を用意していた。
「このままだと冷蔵庫に入らないからさ。カフェでバイトしてるって言ってたよね。よろしく」
スイカを切ってくれというのだ。実際、フルーツのカットはバナナぐらいで、後はオーナーがカットしておいたものをトッピングするだけだった。
雄志に両端をおさえてもらい、四苦八苦しながら何とか半分に切った。その時、玄関のドアが開いた。
「ただいまぁ!」
弟の直志が帰ってきたのだ。
「あ! ケンシロウ! 何してんの?」
つかさの顔を見るなり、直志は大きな声で訊いた。天真爛漫な弟という、小っちゃい頃のイメージそのままだ。嫌なことを元気いっぱいに言う。
「なに? ケンシロウ?」
怪訝な顔の雄志に、直志はつかさを指さした。
「前にさぁ、俺の友達に『お前はもう死んでいる』って言ったんでしょ? すれ違いざまに」
和美と初めて会った時のことだ。幽霊とは関わりになりたくなくて言った。死んだことに気付いていない幽霊も多いと聞いたからだ。ちょうどその時、すれ違った数人の男子高校生に聞こえてしまった。彼らが直志の友達だったとは。
「なんのことだか全然分かんない」
こういう時は、しらを切るのがいちばんだ。直志は不満そうにあれこれ言ってきたが、つかさはそれ以上取り合わなかった。
「スイカは中心がいちばん甘いから、放射状にこうやって切って」
半分にしたスイカをどう切ろうかと、色んな方向に包丁をあてていたつかさに、由美子が助言をした。
「俺のはでっかく切って!」
直志が大きな皿を持ってきた。
「こいつ、いっくらでも食べるからなぁ。これくらい、すぐなくなるよ」
雄志が笑った。
スイカが喜ばれていることに、つかさは安心した。
「おじさんは? もうすぐ帰ってくる?」
そう訊いた途端、直志はあからさまに嫌な顔をした。
「いいよ! あんなヤツに取っておかなくて!」
激しい口調に一瞬、場の空気が凍った。
雄志が溜息を吐いて説明した。
「父さんね、再婚を考えてるんだ」
「え?」
つかさはこっそりと隣の由美子を見た。口を開けて、放心しているように見える。それはショックだろう。つかさはどんな反応を見せていいのか分からなかった。妻である由美子の幽霊が隣に立っているのだから。
「あの裏切者」
直志が食いしばった歯の奥から唸った。
「そんな風に言うなよ」
雄志が窘めた。
「光子さんとの付き合いは、ここ一年ぐらいって言ってたじゃないか。不倫とかじゃないだろ」
「俺は嫌だよ! あの人を『お母さん』なんて呼ばないからな!」
そう吐き捨てると、頑固そうに口をへの字に曲げた。
「無理してまで呼ぶ必要はないよ。それに、結婚は早くてもお前が高校卒業してからだって言ってたじゃないか」
悉く反論される直志は歯ぎしりした。
つかさが思い出したのは、直志は幼児期、強烈なお母さん子だったことだ。小さい頃、雄志と公園で遊ぶ時には、もちろん母親も一緒だ。ということは、必然的に弟たちもついてくる。直志はずっと、母親の由美子から離れなかった。
例えば、転んで砂だらけで泣いている雄志の世話をしている時も、「ママー、ママー!」と母親の背中にしがみついていた。兄に構う母親の関心を、どうにか自分に向けたいのだろう。兄の雄志をライバル視していることを、つかさは子供ながらに感じ取っていた。
直志はバンっとダイニングテーブルを叩いた。
「どっちにしたって、それでお母さんのこと忘れて自分だけ幸せになろうなんて許せないよ! そんなのお母さんがかわいそ── 」
バシッ!
つかさが直志の頭を平手ではたいた。
「なんで?」
つかさはピリピリと痺れる掌を見つめた。雄志はあんぐりと口を開け、つかさの突然の行動に固まっている。横を見ると、さっきまでそこにいた由美子がいない。
「あっ!」
憑りつかれている。真夏にも関わらず、つかさはブルっとひとつ身震いをした。
今までは憑りつかれても、直接に手足を操られることなんかなかった。
「すごっ! 家族を思うオカンパワー、すごっ!」
つかさは口をパクパクさせながら呟いた。
「な、何すんだよ! いってぇな!」
両手で頭をおさえた直志が真っ赤になって叫んだ。
「私じゃない!」
つかさの反論は声にならない。代わりに、思ってもいない言葉が口から飛び出した。
「アンタたちはいいわよね。これから先、『彼女ができた』だの、『結婚する』だの言って、みんなから祝ってもらえるんだから。でも、お父さんはどうなの? お父さんだってまだ若いのよ。残りの人生をひとりぼっちで泣いて暮らせば、アンタたちは満足なの?」
一気にまくし立て(られ )たつかさは、酸素を求めて息を喘がせた。横には、腕を組んだ由美子が仁王立ちしている。雄志は不思議なものを見るような顔でつかさを見つめている。直志は顔を俯かせ、きつく握りしめた拳を小さく震わせていた。長めの前髪のせいで表情は見えない。泣いてるかも、とつかさが顔を覗きこもうとした時、直志は勢いよく踵を返し、階段に向かって走り出した。
「おい! スイカは?」
雄志が弟に呼びかけた。直志は階段の中ほどで立ち止まり、引き返してきた。いちばん大きなスイカが乗った皿をガシッと掴み、黙ったまま階段を駆け上がって行ってしまった。顔を上げることもなく。
「大丈夫だ」
「大丈夫よ」
つかさに向かって、由美子と雄志が同時に言った。
◇◇◇◇◇◇
「どうだった?」
つかさが戻ると、夕飯の支度中の母親はナスを切る手を止めずに訊いた。つかさは事の次第を説明した。
「そうなの ・・・・・・」
母親も神妙な顔で頷いた。
もし、由美子の姿は見えず、その存在を感じることもなければ、再婚に対して素直に「よかったね」と言えたかもしれない。亡くなったお母さんのことは気の毒だけど、いつまでも悲しんでいてはだめだ、と。しかし、お盆限定とはいえ、生前のままの溌溂とした由美子が傍に存在している以上、どうしても手放しで喜ぶことができない。
由美子の言葉は本心だろうか? つかさは気になった。あんな風に割り切れるものだろうか。
「今日の麻婆茄子、やけに辛くないか?」
父親がグラスに注いだビールを飲んで言う。
「つかさにね、鷹の爪の種を取るように頼んだの。この子ったらお喋りに夢中で、種がいっぱい残ってるのよ」
「お母さんだって、豆板醤入れる時、小さじと大さじ間違えたじゃない」
ふたりで笑いながら責任を押し付け合い、激辛の麻婆茄子をヒーヒー言いながら食べる。
「まぁ、米がすすむよな」
父親も笑った。
「俺、もう辛さなんて感じないや」
昼間、『激辛フードフェス』に行ってきた弟が、麻婆茄子を頬張りながら得意げに言う。
「食後にスイカもあるからね」
「まじで?」
食べ盛りの弟は目を輝かせ、両親は嬉しそうにまた笑った。
◇◇◇◇◇◇
朝、バイトに行くため家を出る。玄関を出ると、母親と由美子が話し込んでいた。お盆の朝、付近に人通りはほとんどない。
「あ、つかさちゃん。昨日はありがとね。なんかごめんなさいねぇ、重い話になっちゃって」
夫の再婚話を聞いたばかりで、まだ動揺しているだろうに、家族のゴタゴタにつかさを巻き込んだことを謝罪している。
「大丈夫です。私はちょっとびっくりしただけで ・・・・・・」
つかさの微妙な表情に気付いたのだろう、由美子は苦笑いをした。
「そりゃあね、私も驚いたし、そんなに簡単には割り切れないわよ。息子たちにはあんなこと言っちゃったけどね」
「アハハッ」と笑った後、フッと息を吐いた。
「実はね、再婚のこと聞いた時、最初に思ったのは『あの人、やるじゃない』だったの」
「はぁ?」
つかさは目を剥いた。自分の夫が別の女性と結婚するのに、そんな感情を持てるものだろうか。
「一昨年のお盆はね ── 」
由美子は右手を頬にあて、頷きながら話を続けた。
「あのひと泣いてたのよ、洗濯機の前で。去年は、急にしょぼくれて見えちゃってね。昔のパリッとした面影なんて全然なくて。このひと、このままの勢いでどんどん老けちゃうのかなって、心配してたの」
「ま、ダンナの老いを目の当たりにすると、ちょっとショックよね」
しみじみとつかさの母親が言った。
「お互い様でしょ」と言いかけたつかさは口を噤んだ。由美子はもう歳を取らない。
「で、今年は直志と険悪になってるでしょ、こっちは成仏してるってのに、心配でね」
由美子は苦笑いをしてみせた。
「だって、結婚する時、笑いの絶えない家庭を作るって約束したのよ。そのためにずっと頑張ってきたし。私が死んじゃったせいで、みんなが不幸になるなんて嫌だもん」
相変わらず底抜けに明るい声できっぱりと言い切った由美子だが、どこか寂しさが滲んでいたのは、つかさの気のせいじゃないはずだ。
再び井戸端会議を始めたふたりを残し、つかさはバイトへ向かった。
「つかさ!」
突然呼び止められ、びっくりして振り向くと、大きなバッグを肩に掛けた雄志がいた。
「昨日はスイカありがとな」
「どういたしまして」
昨夜の気まずさを打ち消すため、つかさはわざと明るい声で答えた。
「そういえばさ、今朝どっかから叫び声が聞こえなかった?」
雄志が声を潜めて訊いた。
「ああ、あれうちの弟。昨日の昼間に激辛料理いっぱい食べて、夕飯の麻婆茄子が辛口だったのね。それで、今朝トイレで ・・・・・・」
「うわっ、かわいそうに」
ふたりは顔をしかめた後、クスクスと笑いあった。
「もう寮に戻っちゃうのね」
気付けば由美子が傍に来ていた。名残惜しそうな顔で雄志の肩に触れる。もちろん息子の方は気付かない。
「昨夜は直志のことで申し訳なかったね。アイツ部屋に籠ってるけど、今朝もたらふくスイカ食ってたから、すぐに立ち直ると思うよ」
つかさが頷くと、由美子も頷いて雄志から離れた。そして家の中へ入っていく。直志の様子を見にいくのだろう。
つかさはバイトがあるので、ふたりは歩きながら話すことにした。
「あ、あのさ・・・・・・ 」
雄志は言いづらそうに口を開いた。
「なに?」
つかさが促すと、雄志は思いつめたような顔を向けてきた。つかさは心臓の鼓動が早くなったのを感じた。ただの幼馴染なのだが、久し振りに会った雄志は日に焼けて、筋肉に包まれた腕は太く、とても逞しく見える。きっと大学でもモテるだろう。
どうしよう、愛の告白なんかされたら。
「霊感あるって本当?」
「は?」
「いや、昨夜さ、まるで母さんが喋ってるみたいに感じてさ」
猛暑のせいではない、変な汗がつかさの額に噴きだした。
「そ、そう?」
「思い出したんだけどさ、幼稚園の時、ちょっと騒ぎになったじゃん? ほら、階段にお化けがいるとか、つかさが言い出して」
もちろん覚えている。
朝、登園して二階にある教室に行く途中、階段の踊り場に陰気な目をしたお爺さんがしゃがんでいたのだ。なにをするわけでもなく、次々と通り過ぎる園児を眺めているだけだった。でも、そのお爺さんが怖くて、つかさはどうしても階段を上がることができなかった。
早く教室に連れて行こうと、最初は優しかった先生もしまいには怒りだした。教室に行こうとしない理由を訊かれ、正直に答えるともっと怒られた。
「だ、誰もいないじゃない! 変なこと言わないで!」
先生の声は奇妙に震えていた。
やがて他の先生や、何事かと集まってきた園児たちで階段はいっぱいになった。
「なに、なに? つかさちゃん、どうしたの?」
「つかさちゃんが、うそついてぇ、せんせいにおこられてる」
すぐに母親が呼ばれてやってきた。その日は、そのまま母親に連れられて家に帰った。
「ママにも見えたよ」
帰り道、手を繋ぎながら母親が言った。
「でもね、他のひとたちには見えないのよ」
次の日、お爺さんはいなくなっていたが、お友達からは『うそつき』と呼ばれた。
そう。そういうことは、他人に言ってはいけないのだ。
「そんなことあった? 全然おぼえてない」
すっとぼけるに限る。
「ほんとに ・・・・・・?」
納得いかないという雄志の気持ちは分かっているが、それにも知らんぷりを決め込んだ。
大通りの信号で止まった。歩行者信号が青になって通りを渡ったら、駅に向かう雄志は右へ、バイトに向かうつかさは左に行くことになる。
「もうちょっといればいいのに。まだ夏休みでしょ?」
話題を変えてみた。それに、由美子の寂しそうな顔を思い出したから。きっと今、受け容れざるを得ない現実と向き合うため、必死であがいている直志に寄り添っているのだろう。
歩行者信号が青に変わり、ふたりは歩を進めた。
「そうなんだけど、あっちでバイトもしてるし。それに、帰省してる彼女も寮に戻ってくるからさ」
「ああ、そう」
横断歩道を渡り終えると、雄志は手を上げた。
「俺はこっちだから。じゃあな」
「雄くん!」
つかさは慌てて呼び止めた。どうしても、伝えておきたいことがある。
「お母さんね、きっと見守ってくれてると思うよ」
雄志は一瞬、驚いたような顔をしたが、すぐににっこりと笑った。
「そうだね。俺もそんな気がするよ。じゃあね!」
雄志は爽やかな笑顔を残して歩き去った。
雄志の背中を見送ったつかさは、フッと短く息を吐いた。
「なんだ、彼女いたんじゃん!」
つかさは踵を返し、バイト先に向かって歩き始めた。
あの灼熱の職場を思うとうんざりする。
ふと、バイトが終わったら、店の大学芋を買って帰ろうかと考えた。そんな楽しみがあってもいい。きっと、両親も弟も喜ぶだろう。
アルバイトに向かうつかさの足取りが、ほんの少しだけ軽くなった。
( 了 )