おはよう、ウィル・オー・ウィスプ
お久しぶりです。
よろしくお願いします。
ぼくのそばには妖精がいる。
妖精と言うと、きれいな、透き通った翅があったり、黄金を束ねたような髪だったり、庭のチューリップのドレスを着ていたり、そういうものだと思うけれど。
ぼくの妖精は、小さな、ふわふわっとした光が浮いている見た目で、あっと言うようなうつくしさはなかった。
『そうがっかりするなよ。わたしの光は太陽の光がそのまま集まったものなんだ。暖かいし、きみとベッドに潜り込んで隠れる事だって出来る』
「でも花を咲かせることは出来ないじゃないか」
『…いいや、きっと、出来るとも』
「嘘つき」
ぼく達はこんな話ばかりしていた。妖精は人間の子どもを気に入って、そばに住み着くことがあるらしいとパパが教えてくれたけど、ぼくにはそれが、あまり嬉しいとは思えなかった。
『そこは葉っぱだろう。どうして青で塗るんだい』
「なんでって、青に見えるからさ」
『みんな緑で塗っているのに?』
「うるさい。ぼくは自分の絵をかいているんだ。文句を言わないでくれよ」
ぼくは緑のクレヨンで、青を半端に塗りつぶした。
こんなふうに、ぼくの妖精はしょっちゅうぼくのすることに口を出した。それはママがしてくれるように褒めてくれるわけじゃない。パパがするように、分からないことを教えてくれるわけでもない。どうしてそうするのか、みんな別のことをしている。口うるさく聞くばかり。
「ねえ、妖精ってなんで子どもが気に入るのかな」
『さあ、なんでだろうね』
「なんでって、きみはぼくのところにいるじゃないか。分からないの」
『分からないねえ』
「自分のすることが分からないなんて、そんなことあるもんか。やっぱり嘘つきだ」
ぼくにはうんざりするくらい、色々と聞いてくるくせに、妖精は妖精のことをちっとも話さない。
これじゃぼくばかり、不公平じゃないか。
「なあ、約束しよう」
『約束?』
「ぼくは何か、出来ることが増えたらきみに言うよ。だからきみも、出来ることを増やしてごらんよ」
『出来る事?』
「そう。べつになんだっていいんだ。ぼくなら……クレヨンを無くさないようになったとか、組の誰よりも絵がかける」
誰よりも、は言いすぎかなと思ったけど、ぼくは続けた。
「出来ないことを出来ることに変えるのが、おとなになる、ってことなんだ。きみもおとなの妖精になりなよ」
こうして、ぼく達は約束した。
10の誕生日だった。
「どうしよう、緊張してきた」
『気にするなよ。堂々としていればいいのさ。賞は間違いなくきみが取ったんだから』
「そうだけど、表彰されるなんて初めてなんだ。ちゃんと声が出なかったらどうしよう、躓いたら…」
『大丈夫だってば!どうしてそんなに気が弱いんだ。賞を取るまではあんなに自信満々だったのに』
「僕は気が弱いんじゃない」
むっとして言い返し、もう夜中なのを思い出して、慌てて声をひそめた。
「……だってみんなが見てるんだぞ。そんな中で失敗でもしたら、きっと笑い者になる」
『ならない。そんな事になったら誰だって緊張するさ。それを笑うような奴はいないよ。笑われるのが嫌なのはきみだけじゃあないんだから』
「そうかな。こうやってみんな悩むなら、みんな誰かに笑われた事があるって事じゃないか」
僕は顔まで布団を被った。隙間から、妖精がするりと潜り込んだ。
『そうだとしても、きみは堂々としていればいいんだ。そうしているのが一番立派さ』
頬を暖かいものが撫でる。僕はひとつ深呼吸をして、目を閉じた。
翌日の表彰式は、少し返事に詰まったほかは何ともなかった。友達のひとりが、やったな、と笑って肩を叩いたのが何より嬉しかった。
『人前で堂々とする、って言わないの』
「何の話?」
『出来る事を言い合う、って約束しただろう』
「……いや、まだいいや。もう一度同じ事があって、その時も立派に出来たらそうしよう」
『十分だと思うけどなあ』
その時僕は、帰りに見かけた向日葵を描いていた。少ししか見られなかったのが惜しくて、急いでいたから、それほど深く考えて答えた訳ではなかった。
『おかえり。今日はどうだった』
今日も妖精は窓枠からこっちへ寄って来た。僕はそれに答えずに、かばんを机に置いて床に座り込んだ。
『……なかったのかい?』
かすかだったけれど、僕が頷いたのが妖精には分かったらしい。
今回も、受賞者に僕の名前はなかった。子供の頃1回あったきり、僕の絵は誰にも見られていない。
分かってる、僕より上手な絵描きはたくさんいる。賞を受けた絵はみんな、僕には真似できないくらい上手かった。
けれど、僕が描いた絵が下手だとは、どうしても思えなかった。
「何がいけなかったんだ」
日暮れの光が、窓枠で切り取られて一層暗い影を作っている。その中に座り込んでいる僕が、ひどく惨めに思えて堪らなくて、視界が熱くぼやけた。
その瞬間、突然影が薄れた。
驚いて顔を上げると、普段は小指の先ほどの妖精が、僕の手で掴めるくらいの光になって、そこに浮いている。
『もっと明るく光るようになったんだ。長くはしていられないけど』
そう言い終わらないうちに、スポットライトを絞るように妖精がしぼんだ。蛍のように弱々しく瞬き、妖精は言った。
『何も絵だけがきみの出来る事じゃないはずだ。わたしはやっとこれでひとつだけど、きみは覚えてる限り、十は超えているだろう』
「それがなんなんだ」
考えるよりも先に声が出た。
「出来る事、出来る事って言ったって、そんなの子供の言う事だ。たかが知れてる。そんな下らない事ばかりあって、何だって言うんだよ!」
『でも、出来るのは確かだろ。きみはクレヨンだけじゃない、部屋いっぱいの絵の具や筆だってひとつも無くさないし、使い切るのがどれかまで覚えてきちんと買って来るじゃないか』
「そんなの当たり前だ。小さな子供じゃないんだぞ」
『もう人前で呼ばれてもびくつかなくなった』
「だから、それがなんだよ!」
僕は家に誰かいるかもしれない事も忘れて叫んだ。ああ、もし母さんが帰っていて、これを聞いたら驚くだろうな。心配するだろう。その上こんな、何も悪くない、むしろ僕を慰めてくれようとしている相手に怒鳴ったりして。
僕は駄目な奴だ。
『もったいないじゃないか。自分を駄目な奴だ、なんて思うのはいけない』
僕は一瞬息を止めた。
『出来ない事を出来るようにするのが、おとなになる事だ、ときみは言ったけど、私はそれだけではないと思う』
妖精は、すっかりいつもの光を取り戻して、すうっと僕の顔の前まで降りてきた。
『出来る事を数えて、覚えておく事も必要なんだ。出来ない事は、今のきみには少し難しいのかもしれない。それを今すぐにやろうとして、元気をなくしてしまうのはもったいないよ』
ゆっくり、瞬きをするように光を弱めて、同じようにゆっくりと、妖精は続けた。
『わたしはずっと前から今まで、きみを見てきた。きみはいい奴だ。人にも、わたしにも変わらず優しい。やると決めたら、納得するまで諦めないし。そういうところが、思ったように出来ない事がひとつある事で、全部意味がなくなるとは思わない』
すっかり暗くなった部屋の中で、光が暖かくて、僕の目には涙が溢れてきた。
「……それでも、僕は」
妖精はじっとして、何も言わない。
「絵が、描きたいんだ」
暗い部屋に泣いた声が落ちるのが、僕には情けなく思えて、涙が後から後から出てきた。
不意に、誰かが扉をノックした。大袈裟なくらい飛び上がった僕を通り過ぎて、妖精が言った。
『疲れたから寝る、とか言ってしまおう。実際辛そうだもの』
枕の辺りで止まって、妖精が振り返った、気がした。
その日はもう何も食べずに眠った。布団の中、手の側にある光がずっとそこにいた。
「もうちょっと……寄ってくれないか、そう、そこで」
『わたしはくたびれたよ。よくそんなに描けるな』
「好きだからね」
光を描く、というのは、思っていたよりもずっと難しかった。
光に何かが照らされているのは、どうにか描ける。けれど、はっきりしない光そのものを描くのは、僕にとってほとんど不可能と言ってよかった。
悔しかった。他の絵描きだったら、どうと言うこともなく出来るのだろうか。
それでも、僕は僕のやり方で、描きたい絵を完成させてみせる、そう決めた。
いつになるのか、予想も付かないけれど。でも、必ず。
『どうしてもわたしがやるのか?』
「仕方ないだろ。もう夜だし、部屋の光はしっくり来なかったんだ」
『じっとしているのは疲れる……』
「何言ってるんだよ。ああ、動かないで」
妖精は何も食べないし、風呂もトイレも必要ない。疲れると言っても、僕にはただの光がそこにいるだけでどう疲れるのか、さっぱり分からない。
『明日も仕事だろう。こんなに遅くまで起きていたら、体を壊すんじゃないか』
「平気だよ。昔から少し寝なくても大丈夫だったんだから」
『……それを自慢するのはどうなんだ』
「平気だって。あと少ししたら寝るよ」
『さっきもそう聞いたなあ』
妖精は結局最後まで付き合ってくれて、僕は満足して眠った。
その夜は不思議な夢を見た。突然部屋が熱くなったと思うと、目の前が真っ白で何も見えない。妖精が何か叫ぶ声が聞こえた、気がした。
車椅子で動くのは、意外と大変だ。
段差を無理に越える事は出来ないし、狭い場所には入れない。行ける場所が普通に歩ける人より減ってしまうのは確かだ。
何より、車椅子というのは結構重い。自分一人で動かすのは、慣れないとなかなか危ない。
出来ない事が、随分と増えてしまった。
今はまだ力もある。けれど、このまま僕が歳を取っていったら、誰かの手を借りないと動く事も出来なくなる、かもしれない。
「きみの言う事、ちゃんと聞いておけば良かったな」
やりたい事を諦めない為に、他は後回しにするのは僕の悪い癖だ。妖精はそこが良いと言ってくれたけど。
片方の車輪が、段差に擦れて嫌な音を立てた。冷や汗が背を滑るような気がして、誤魔化す為に肩を竦める。
それからはより慎重にホイールを回して、どうにか家に帰り着く。
何事も慎重にするようになった。人にお礼を言う機会がずっと増えた。嫌な目に遭う事も、どうしてか増えて、その分悩みすぎない事が得意になったのは、内心複雑だけれど。
「さて」
使う物がようやく揃った。手はちゃんと動く。
良かった。いつかはきみを描こうと思ってたんだ。
「これは何だと思う?」
「何って、星じゃないんですか?」
「いいや。太陽だとも、蛍だとも、自然ではなく人工の明かりを描いたとも、人によって様々な意見がある」
「……不思議な絵ですね」
「ああ。この画家は見た物を描くと知られていたんだが、これは抽象画のように見える」
「たまには違うものを描いてみよう、みたいな」
「そうかもしれないな。……これは復帰してから初めて描いた絵なんだが、そこで何か、意識が変わるような体験をしたのかもしれない」
「いや、意識が変わった訳じゃないと思います」
「……それはなぜ?」
「絵の雰囲気というか……他の作品と通じる感じがするというか、ほら、包み込むみたいな手の形、すごくこの光を大切にしてるみたいな。他の作品と同じ、暖かく感じるんです」
「なるほど、確かに。……君が見るとこれは眠る時かな、目覚めた時かな」
「眠る時、ですかね……あ、この絵、題がないんですか」
「亡くなる直前まで何度も描き直していたらしい。彼にとっては未完の作品なのかも」
「……どう名付けるつもりだったんでしょうね。ちょっと惜しいです」
「私もそう思うよ」