プロローグ 本当の始まり?
初めまして。新しく小説を始めさせて頂きます。この手の物に限らず、なろう系投稿は初めてで素人ですので、不束か者ですがよろしくお願いします。感想や意見などありましたら気軽にお願いします。
※2020/08/04付けで改稿。
※2020/08/05付けで改稿。
プロローグを一、ニ話でわかれていたのをまとめ、一部わかりやすく改稿しました。
―――――すべてはなにもないところからはじまった。
始まりの瞬間は特異点的に謎にあふれていて、そして何もない。完全なる漆黒であり虚空である。
そしてただ時が流れる。否、時が流れるという概念自体が存在せず、そもそも何も無いのだから時は過ぎていないのかもしれない。そして刹那か、はたまた無限にも思える時が流れたのか分からない。
―――――わからない、だがわかる。
謎にあふれていて理解できない。だが、そこに事象が発生する。いや、そもそも今まで何も起こっていなかったのかもしれない。これこそが特異点かもしれない。分からない。でも事象が発生したということは分かる。
―――――そしてなにかがおこる。すべてはそこにじしょうとけっかがあるからおこるのだ。
事象が発生した、ということは分かった。だが今から発生するのか、はたまた今現在発生しているのか、もしくは発生し終わり、結果を連れてきたのか。分からない。
―――――どのじてんでどうあつかわれるかなどわからない。でもあつかわれるのではなくあつかえばいいではないか。
時は流れる。否、実際は時など流れていないのかもしれない。だが、これは分かる。存在の誕生が待ち詫びられていると。
―――――かていも、けっかも。どちらもだいじであり、ふくせいできるようなたんじゅんなものではないと。
そして事象は結果を連れてきた。時は流れ、今がどの時点でどのような状態にあるかなど分かりはしない。分かるとするならば、何かが起きているということだ。
―――――ときとはなにか。きろくをしたときのきろくじゅんなのか。
事象が結果だとは限らない。その過程というものが存在するはずである。だがその過程を誰が記録をするのかは分からない。大抵の場合は結果という事実のみが残ってしまうだろう。だが事実という面で見るならば過程もまた事実である。そしてまた結果が事実だとは限らないときもある。全てを把握などは出来ないのだろう。
―――――つごうのいいことをじじつとしているだけなのかもしれない。
嘘がいつの間にか本当の事実だと改ざんされる時もあるだろう。ただしその嘘を作り出す存在とそれを事実だと信じる存在がいなければ起こり得ないだろう。
―――――ときのながれがないというのはどのようなかんかくなのだろうか。
そして始まりの時が流れ始める。虚無と虚無をかけ合わせ、虚無ができるのではなく、何かが誕生する。それは単純に無限かもしれない。無限というのはそれだけで特異点的存在だと考えていいかもしれない。否、比較対象がいないうえではこれが普通なのかもしれない。
―――――むげんというがいねんがなにをあたえるのだろうか。むげんはそもそもそんざいするのだろうか。
そしてその存在が息芽吹く。いや、息芽吹くのかどうかは分からない。だが存在としては誕生した。すべての記録はここから始まるのかもしれない。無限ということに関しても。
―――――そもそもなにかをはかるうえでのものさしはべんりかもしれない。だが、ちがうなにかがあるときにはじゃまにしかならないだろう。
時はここから流れ出したのだろうか。全ての始まり、特異点はここだったのかもしれない。特異点が二度も発生するということ自体がよく分からない。だが、分からないからこそ分かろうとする。
―――――じかんというがいねんはだれがうみだしたのか。ただたんにじかんなどではなくきろくかもしれないのに。
記録という面では何かを存在が記録するのではなく存在以外のものに記録するというのは有用かもしれない。存在に頼らないのだから。それでも存在は存在を記録し続けているのかもしれない。
―――――そしてうまれる。すべてのはじまりはうまれることだ。
そして記録は開始され、その存在は目覚める。ただ始まりの存在としてすぐに何かを起こすわけではない。それに行動するための知能と知識が必ずしも最初からあるとは限らないだろう。
―――――かみとはなにか。そのひとがしんじるからかみか、ぜったいてきそんざいだからかみなのか。
時は流れる。その原始の存在が完全となり起きるまで。
―――――ここはどこ。
何もないところ。
―――――わたしはいったい。
分からない。
どれほどの時が流れたのかは全く持って分からない。分からないからこそ知ろうと思う事もあるだろうが、それを知る手段がない以上何かができるわけではない。原始の存在が活動を開始する。そしてその数瞬、原始の存在にいくつかの情報が刻み込まれる。
個として確立するための自我形成に関するプロセスやメカニズムは謎に包まれている。世界的な知能指数の向上と技術レベルの向上などによって詳しいメカニズムが分かるかもしれない。が、この現状分かるわけもなく。
そして自我や意識の確立が行われたところで周囲に同じような高度な知的生命体が存在するとは限らないため、会話という手段なども必要としない、いわば演算・思考のみが存在するような状態になってしまうかもしれない。
まぁ形成がそれで完全に終了してしまうわけでもないので、まだ成長の余地はある。だから感情がわからなくとも何らかの知的生命体との接触によって芽生える可能性もあるというわけだ。少なくとも今は何も無いわけだが。
この世界における自我というものがどういうのかは原始の存在の自我と同じである訳ではないので分からない。それに自我がこの世界に芽生えた存在がいるとは思えない。未来永劫生まれないかもしれない。
自我。それは何か。自立した自身を認識するための物で、自身の事を考え、行動する。そんなものかもしれない。だが、意識はどうだろう。そう考えたときに意識もまた自身を認識するための物である。
ではどちらがどちらなのか。意識は自身を認識するためのものだろう。では、自我は一体なんだろうか。自身を周りと区別し、そこから得られる情報をもとに考え、行動するために必要なものということだろうか。
◇◇◇
何もない整然とした別空間の中。整然、といってもそれは当然何もないのだから。永遠に続く虚無空間。漆黒の空間。
そして時は流れ、何れの日か。
自我の初期段階かどうかはわからない。が、自我はいつの間にか芽生える。自我と言ってもこう考えるとお粗末なものかもしれない。だが思考・演算能力は高く、適応できるだろう。つまり成長するのだ。
そう考えて未来に託そう。何れの日にか全てにおいて最高な存在になるかもしれない。原始の存在だからという理由もあるだろう。すべてを記録している。そんな理由もあるだろう。だから託すのだ―――――
※無限、という表現は使いますが、実際には無限ではありません。言ってしまえば無限なら世界が崩壊します。