秘密の恋の終わり方
サンタクロース、トナカイ、七面鳥……。そのどれもがなくたって、クリスマスは私にとって特別な日だ。
「きれいだなあ」
十二月二十四日、夜のファミレス。コーヒー片手にぼんやりと窓の外を眺めながら、無意識のうちにひとりごとをつぶやいていた。この時期特有のイルミネーションが、きらきらと楽しげに揺れている。冬の空気は冷たくて、どの季節よりも光を輝かせるような気がして、だから私は冬が好きだ。
窓の外の微笑ましい風景を見ながら、どれくらいの時間が流れていたのだろう。街を歩く人がずいぶんと減っていることに気付き、何気なく時計を見ると、日付が変わろうとしていた。
これじゃあ、人気も少ない訳だ。
時間と人通りの関係に納得しつつ、はやる気持ちを抑えられずにいた。
もうすぐ、彼に会える。
多くはない店内のお客さんほとんどが恋人同士みたいな過酷な状況で、どうして私が一人コーヒーカップを握りしめながら外の景色を眺めているかって、それはここが今夜の彼の仕事場からすぐ近くにあるからだ。
『仕事が終わったらすぐに会いに行くよ』
彼はそう言って、この二十四時間営業のファミレスを待ち合わせ場所に指定した。
仕事が終わるのは午前0時。待ち合わせ時間よりもずいぶん早くに来てしまったけれど、それはクリスマス・イブの雰囲気を味わいたかった私が勝手にしたこと。彼に会うことを思えば、ほんの数時間一人で聖なる夜を過ごすことなんて、寂しくもなんともない。むしろ彼への想いを育てる大切な時間だとさえ感じる。
もちろん、優しい彼が気にするといけないから、私がここで短くはない時間を過ごしていることは内緒にしておくつもりだ。
ブーブー。
テーブルに置いてあるスマホが震えた。待受画面にメッセージ受信の通知が浮かび上がる。こんな夜中にメッセージを送ってくるのは、彼以外ありえない。彼からの連絡は、夜中だったり朝方だったり、周りの友人が絶対に連絡してこないような時間が多いのだ。
堪え切れず溢れる笑みをどうにか隠そうと、右手で口元を抑えながらスマホの画面を開いた。
『ごめん。予定より遅くなりそう。時間も時間だし、帰ってもいいよ』
……まずい、泣きそうだ。期待が大きかった分、反動も大きい。
思い切り唇を噛み締めて、悲しい気持ちを封じ込めた。こんなところで泣くのだけは避けたい。
『了解です。お仕事、頑張って』
なるべく短めに返信して、スマホを鞄にしまった。
せめて、メリークリスマスとか書けば良かったかな。だけどそれじゃ、嫌味を言っているみたいに思われるかもしれない。
彼にメッセージを送った後は、いつも悩む。もっと可愛らしい言葉があったのではないか。センスのいい文章を考えるべきだったのではないか。
けれど今日はそれだけでは終わらなかった。無駄に落ち込み始めたのだ。
本当は会うのが嫌になった? だから素っ気ないメッセージなの?
いつもだったら、こんなことは考えない。だって、きちんと分かっているから。仕事の合間を縫って連絡をくれたこと。だから必要最低限の言葉しか綴られていないこと。そして次の約束を交わさないのも、彼の優しさだということ。
彼と初めて出会ったのは、三年前。仕事絡みの飲み会で一緒になり、たまたま共通の友人がその場にいたことがきっかけで親しくなった。
その時の私は、彼がどんな人なのかも知らなかったし、彼と私がこんな関係になるなんてことも、まったく予想していなかった。ただ、笑顔が子どもみたいに愛らしい人という印象を抱いたことは、今も深く記憶に残っている。
それから友人を交えて何度か飲みに行くうちに、音楽の趣味が合うだとか、映画の好みが一緒だとか、やり込んだゲームが同じだとか、そんな他愛もないことで一気に距離が縮まっていった。
けれど――。
私は彼が好きなんだ。
そう気付いた時には、彼はすでに私の手の届かない存在になっていた。
守るべきものが増えていく彼への気持ちを、決して悟られてはいけない。このまま友達として、彼の成功を祈るだけで充分だ。
そう言い聞かせて自分の気持ちにぎゅうっと蓋をしていたのに、彼はいとも簡単に私の閉ざしていた心の扉を抉じ開けた。
「君のことが好きなんだ。普通ならしなくていい苦労をかけるかもしれないけど、一緒にいてくれないかな」
ファミレスの外に出ると、雪が降り始めた。
「ホワイトクリスマス、か……」
立ち止まり、空を見上げながらひとりごちる。
来た時よりもずっと寒く感じるのは、雪が降ったせいであって、約束がなくなったせいなんかじゃないはずだ。
グスンと鼻をすすり、帰路についた。すれ違う男女が手を繋ぎながら楽しげに会話しているのが目に入り、胸が小さく痛む。
「いいなあ」
彼の温かい手を思い出しながら、私たちには決して来ないであろう、手を繋いで外を歩く日を夢見てしまった。叶うことのない夢。出会った頃ならいざ知らず、今彼を取り巻く状況では、人混みで手を繋ぐなんて絶対に無理だ。
そう考えると、彼と一緒にいるために諦めたことがいくつもある。
たとえば週末のデート。彼の休日は不規則だし、たいていの土日に予定が入っている。おまけに連休なんてほとんどなく、次にいつ会えるのかも不確定。やっと会えると思っても、今日みたいに急なキャンセルだって珍しいことじゃない。
そして、『恋人』としての私の立場も、とうに諦めていた。彼が私を恋人だと公言してしまえば、悲しむ人がたくさん出てくる。彼自身のためにも、彼を慕う人たちのためにも、私の存在は隠されるべきなのだ。
たくさんの“普通”を諦めても、私は幸せ。彼のそばにいられる。誰よりも近くで、彼を応援できる。私は日陰者でかまわない。今だって、その思いに嘘はないはずなのに……。
アパートへ戻り、真っ先に録画していたテレビ番組を再生した。ついさっきまで放送されていたクリスマスの特別生番組。華やかな世界はまるで異次元で、同じ空の下にこの人たちが生きていることさえ疑いたくなってしまう。だけど私は忘れてはいけない。この人たちだって、現実世界に存在している、私と同じ人間だということを。
お目当てではない出演者が出ている間にキッチンへ行き、蜂蜜入りのホットミルクを作った。気持ちを落ち着かせたい時、私はいつもこれを飲む。温かい甘さが体中に広がると、張り詰めた心も少しだけ解かれるのだ。だからきっと、こんなにもやり切れなさを抱いていたって、飲み終わる頃には眠れるに違いない。
そう思って大きめのマグカップを両手で握りしめながらソファに座ったけれど、私の心は自分で考えていたよりもダメージを受けていたらしい。途端に押し殺していた悲しさが溢れ出した。
「馬鹿だな、私」
彼との付き合いの中で、見返りを求めないことは大前提だったはず。なぜなら彼は、私だけのものではないから。全部理解していたつもりだったのに、クリスマスを一緒に過ごすなんて初めての約束に、すっかり浮かれてしまっていたようだ。彼と私の立場も忘れて、何を舞い上がっていたのだろう。
頬を伝う涙を拭いながら、テレビの画面を見つめ続けた。他にやりたいこともない。何もしたくない。眠ることさえ億劫だ。
録画番組が二周目の中盤に差し掛かった頃、ようやくほんの少しの眠気がやって来た。
正直、もう疲れた。割り切ってしまいたいのに、寂しさを断ち切れない自分が情けなくて、早く今日が終わればいいと思った。だって、今日が十二月二十五日でなければ、きっとこんなに落ち込まなかったはずだから。
テレビを付けたまま、部屋の電気を消してベッドに潜り込む。
目が覚めたら、今日が二十五日だということは忘れよう。
さようなら、私の特別な日。
朝になったら、きっといつもの自分に戻っている。ただ彼のことを想って、彼の存在がそこにあるだけで幸せな自分に。
ブーブー。
スマホのバイブに飛び起きた。
またこんな時間にメッセージ。
心配するのは、彼のこと。寝不足になったりしていないだろうか。忙しすぎて、体を壊したりしないだろうか。
私のことなんて、二の次でいい。彼の時間を邪魔したくはない。
そう思いながらも、こうして連絡をくれる彼の優しさに、毎回愛おしさが溢れてくる。
『まだ起きてる?』
彼は知らないのだ。彼からいつ連絡が来ても飛び起きるように、私の体はできているのだと。
『起きてるよ』
返信してすぐに、控えめに玄関ドアがノックされた。
心臓が飛び跳ねる。
彼はズルい。こんなの、反則だ。
そっとドアを開けると、彼が抱きついてきた。朝方とは言え、誰かに見られている可能性もゼロではない。慌ててドアを閉めると、彼は私を抱きしめたままで言った。
「お誕生日おめでとう。今年こそ一番にお祝いしたかったのに、遅くなってごめん。もしかして、もう一番じゃなくなった?」
少し不安そうな彼の声が、彼の心を伝えてくれる。私はゆっくりと首を横に振った。
「良かった。でも、ごめん。誕生日プレゼントは用意していないんだ。代わりに……」
そう言って彼が差し出した掌には、小さなケースとその中できらきらと輝く指輪が乗っていた。
「――っ! これって……」
驚きのあまり、言葉が上手く出てくれない。
「いつも寂しい思いばかりさせてごめん。これからもきっと大変な思いをたくさんさせるだろうけど、全身全霊で守り抜くから、だから、結婚してください」
今、何て……?
「だって、いいの? その……、ファンの子とか、事務所的にとか、色々あるんでしょ?」
せっかく彼から甘い言葉を囁かれているというのに、なんて色気のない答え方をしているのだろう。自分でも気の利かない台詞だと思ったけれど、彼は幸せそうに微笑んだ。
「そういう君だから、一生一緒にいたいって思ったんだ。答えを聞かせて?」
そんなの、決まっている。
「…………よろしく……お願い、します」
温かい涙が零れ落ちた。幸せの涙だ。今まで生きてきた中で、一番心が震えている。
彼は右手で私の涙を拭った。
「良かった。緊張しすぎて吐きそうだった」
彼の子どものような無邪気な笑顔は、次の瞬間、大人の男性の微笑みに変わった。
「プロポーズするまで時間がかかったけど、きちんと事務所には了承してもらった。それにファンの子だって、きっと納得してくれる。いや、納得してもらえるように頑張るから。だから君は何も心配しなくていい。秘密の恋は、これで終わりだよ」
流れる涙のスピードが加速していく。何も言えなくてコクコクと頷いていると、付けたままのテレビから彼の声が聞こえてきた。極上のラブソングを、数時間前の彼が歌っている。なんて素敵な声だろう。
「もしかして、また僕の出てる番組見てたの?」
彼は照れくさそうにはにかんだ。
「君のためなら、いつでも歌ってあげるのに」
体温を感じるほどすぐそばにいる彼の声と、テレビの向こうの彼の歌が、甘い胸の疼きとともに心に刻まれていく。どちらの彼も、愛おしくて仕方がない。
「人生で最高の誕生日を、ありがとう」
私は泣きながら彼に抱きついた。
私にとって、クリスマスは特別な日。私の生まれた日に街が賑やかに華やぐなんて、こんなに素敵なことはない。
そしてこれからは、私たちふたりにとって特別な日になる。