水流
私の家の最寄駅から4個目の駅に会社はある。会社は駅から歩いて10分位だが、私の脚では20分かかる。いつもギリギリに出社してしまうので、先輩にはよく怒られる。
「一本早い電車に乗れば間に合うじゃない。」
と、ヒステリックに彼女は言う。私より五つ年上の彼女は、年齢よりも老けて見える。私の心が、そう見させるのかも知れない。
「すいません。」
面倒な事は嫌いなので、素直に謝る。それが一番良い方法だと私は思っている。
「おはよう。まだ、チャイム鳴ってないのにね。」
同僚の裕子が顔を歪ませて、小声で話しかけてきた。
私は、肩を窄ませて小さく微笑んだ。
長い間、同じ事を繰り返していると人は刺激を求めるのだろうか。
私の刺激は聡なのかも知れない。彼の気配を感じた。
「有岡くん。今日の会議の資料出来てるかな?」
聡の凛々しい声が聞こえた。
私は振り向き笑顔で答えた。
「はい。部長。」
聡の事をいつから男性として意識したのか、自分でも解らない。
単身赴任で支社に転勤してきた時なのか、歓迎会の時なのか、それとも・・・。
今の私にはそんな事は関係ないのだけれども、この関係が長く続かない事ぐらい分かっている。そろそろ潮時なのかもしれないが、手放す勇気が、私にはない。
「昨日のドラマ見た?」
社員食堂で手作り弁当を食べながら、裕子は昨日のドラマを事細かく教えてくれる。
「あの俳優は格好良いよ。」
とか
「演技は微妙だけど、あの女優は雰囲気勝ちよね。」
とか
「脚本が・・・。」
などなど、私は、相槌を打ちながら裕子の話を楽しんでいた。
会社の社員食堂はだれでも利用でき、価格も手頃なのでいつも人がいっぱいだ。
裕子と私はいつも窓際の奥の席で食べていた。一人暮らしの私たちはお弁当持参で社食へ向かう。手頃な価格と言っても都会で一人暮らしをしている私たちには贅沢なのだ。
お弁当派の私と裕子はいつの間にか一緒にランチをする事になっていた。
「そうだ、噂なんだけどね。」
と、少し私に顔を近づけて真剣な顔で裕子が言った。
「うちの部の、宮元部長・・・危ないらしいよ。」
「危ないって?」
「奥さんと上手くいってないみたいで、別れるかもって。」
「そうなんだ・・・」
「噂なんだけどね、橋本君の話だと・・・」
裕子の顔がまともに見れない。話の内容が頭に入ってこない。
私は空を見つめながら、裕子の話を聞いている振りをしていた。
なぜ、聡は何にも言ってくれなかったんだろう。
「ごちそうさまでした。」
赤い壁のこの店はスペインの闘牛場をイメージにして作った内装だとオーナーらしき髭の紳士が丁寧に教えてくれた。
スペインなど行った事のない私にはイメージが湧かない。闘牛士のイメージなら湧いてくるのだけれども。
聡は親しそうに髭の紳士と談笑している。
白髪まじりの髭に綺麗に刈られた襟足をみながら、紳士の若かりし頃を想像してみる。
聡よりかなり年上に見えるが、白髪と髭のせいだろう。
同年代だったりして。
私は聡の幼い顔立ちを見比べながら、笑うのを抑えていた。
「有岡君はスペインに行った事はあるのかな?」
突然の聡からの質問に、驚いてしまったが、冷静な口調で
「いいえ。ございません。」
と俯きワインを飲んだ。
「有岡クンだって。」
私は子供のように拗ねた振りをしてみせた。
「あの方は古くからの知り合いでね。」
大通りまでの道を真っ直ぐ前を向きながら、住宅街を抜けて行く。大きな屋敷が沢山ある通りの中心に店は建っていた。ここに店があるなんて誰も分からないだろう。口コミや常連客しかこの店には来ないみたいだ。聡はそんな店を沢山知っている。
「ねぇ・・・。」
私が声を発したと同時に
「妻と別居する事が決まったんだ。」
聡はゆっくりと言葉を選ぶように話し出した。私は声を押し殺した。
「別居と言っても、単身赴任だったから、今と変わりはしないんだけどね。」
少し聡の声のトーンが低くなった気がした。私は何も言わず、聡の後を歩いていた。
分厚い雲が月を隠そうとしていた。今にも消えそうな三日月。
大通りまで出ると聡が急に立ち止まったので、思わず背中にぶつかってしまった。
私が顔を上げると、寂しそうな横顔をして呟いた。
「・・・まゆ・・・。すまない。」
タクシーの中で私は涙が止まらなかった。
どうして謝られたのだろうか。理由が分からなかった。
聡はすぐにタクシーを拾い、私を押し入れた。
「本当にすまない。ありがとう。」
の言葉を残し、聡は遠く小さくなってしまった。
「お客さん、大丈夫かな。」
タクシーの運転手が、心配そうにしてくれたが、答える事も出来なかった。
ラジオからは昔の歌謡曲が流れていた。