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後編

 思いがけない出来事が起こったのは、落ち椿の時期もとうに終わり、夏が暑さを主張し始めたころ。


「引っ越し……?」


 報せに来た瞬兄は重苦しい顔をしていた。


「父さんの仕事の都合で……ちょっと遠いところに行くんだ。俺も……ついてくことになった」

「……」


 私は二の句が継げなくなった。瞬兄がいなくなる?

 次の春も、当たり前のように一緒に落ち椿を見られると思っていた。

 それなのに。


 「ごめん」と瞬兄は言った。

 何を謝ることがあるのだろう。瞬兄は何も悪くない。

 私は笑顔で瞬兄を見つめ返す。


「新しい学校、いいところだといいね。頑張って」

「おう……」


 やめて。肩を落とさないで。

 そんな目で私を見ないで。

 私は顔をそらした。制服がオレンジに染まるほど強く鮮明な夕焼けの日。

 ああ――

 落ち椿になりたいと思った。そうして樹から離れて丸ごと、彼の手の内に。

 そうしたら彼について行ける。

 一緒にそっちに行けば、きっとどこかに椿もあるだろう。そうしてやっぱり春になるごとに、落ち椿を見て――

 風情を理解しない彼の隣で、私は心配されながら元気に笑って。


 ――叶わない。私は樹から落ちる勇気がない。

 結局……私の感情なんてその程度なんだ。


 胸が疼く。とりとめのない夢想が私の脳裏をかすめては消えていく。

 椿も春になるとこんな思いをするのだろうか。誰かを追って、花ごと落ちるのだろうか。

 そうして……追いたい人に追いつけないまま、朽ち果てていくのだろうか。


 連絡するよと瞬兄は言った。

 いらないよと私は言った。


「心配しなくても、私は母さんと二人でちゃんと元気にやっていくから」


 ――彼に心配だけはさせたくないから、精一杯に微笑んだ。

 それが、私と趣味をともにしてくれた唯一の人への、私にできる最大のお礼だった。


 そうして、流れる落ち椿を見る時期、私はひとりぼっちになった。

 家に帰ったときと同じ、ひとりぼっちになった。



 夢を見た。懐かしいあの夢。

 眠るように横たわる父の周りに――椿が敷き詰められた夢。


 怒っているの、お父さん。私はあのときと同じ問いを口にする。


 怒っているから、私をまた独りにしたの?


 ごめんなさいごめんなさいと、何度も胸の奥から言葉がこぼれた。

 でもお父さん、私はどうしても落ち椿を嫌いになれない。

 私は。

 私は。


 独りで見に行くことになる椿を思い、胸に手を抱く。

 私は椿から離れられない。離れられる……気がしない。


 ああそうかとふいに気づいた。

 私はひとりぼっちだった。それをいつも慰めてくれたのは、他ならぬ椿だったのだから――



 母との関係は平行線。

 私は冬のあいだ咲き誇る椿を見、そして春の落ち椿を愛でる。

 ひとつずつ、歳を取っていく。成長していく。何も変わらないまま。――。



 それから幾年が過ぎ……

 若かった私も、とうとう成人した。

 成人式には行かなかった。晴れ着がなかったからだ。


「……成人しても、何も変わらないよね」


 二十歳になって初の四月。私の大好きな小川のほとりの椿たちは、幸い伐採されることもなく健在だ。

 ぽとり、ぽとりと落ちていく椿。相変わらずの大人の色気。

 中央の黄色いおしべを守る花びら。やがて形が崩れたとき、それは雄しべの独り立ち。


「瞬兄、元気にしてるかな……」


 我知らず、そう呟いていた。

 三つ上の兄代わりは今ごろ無事就職しているだろうか。

 ちなみに私は大学には行かず、すぐ働きに出た。母を楽にさせてあげたかったのだ。幸い知り合いの花屋さんが親身になって雇ってくれたので、今のところ困ってはいない。

 元々花が好きだったのだから願ったり叶ったりだ。母も少し仕事を減らして、会話もちょこっとだけ増えて、順風満帆としか言いようがない。友達だってちゃんといる。

 相変わらず落ち椿観察の趣味は人に話せないけれど。


 ……心のどこかに寂しさがあるのなんて、きっと気のせいだ。


 今朝は雨が降ったので、椿の葉からときどき水滴が落ちる。それが川面に起こす波紋も乙で、わたしはついにまにまと眺めてしまう。

 ぽとり。またひとつ、花が落ちる音。

 今回は地面に落ちた紅色。私はそれを、しゃがみこんだままじっと見下ろした。指先でつんつんつっついてみる。うん、しっとりした湿気。まだ生きている花だ。

 この花はこの後どうなるだろう――


「川に流さないのか?」


 ふいに、そんな声が私の耳を打った。

 私ははっとして振り向いた。立ち上がりかけのおかしな格好になりながら。


 そこにいたのは青いジャケット姿の男性だった。中には黒のハイネックを着ている。凜々しく、大人びた雰囲気の男性だ。


挿絵(By みてみん)


(誰?)


 ううん、私はこの人を知っている。涼しげな中にどこか悪戯な目元。見覚えが……ある。


「……瞬兄……?」


 私は信じられない思いでその名を呼ぶ。

 瞬兄は、ははっと笑って頭に手をやった。


「少しはかっこよくなったろ? 俺も」


 そんなことを言ってニヤリと笑う。その表情は、私の知っている瞬兄そのものだった。

 まさか――

 私は胸が騒ぎ出すのを感じる。だって、瞬兄がこんなまともに見えるなんて。言葉は相変わらず軽薄だけれど、たった数年でこんなに大人になったなんて――

 あまりに動揺しすぎて、言葉が出ない。

 そんな私に、瞬兄はもう一度同じ言葉をかける。


「美穂。川に流さないのか? それ」


 そう言われて気がついた。彼が、当たり前のように落ち椿の話をしていることに。


「私がここにいること……疑わなかったの?」


 もう何年も経った。いつまでも落ち椿に執着しているとは限らないのに。

 すると瞬兄は歯を出して笑った。


「頑固なお前のことだし、そんな簡単に椿たちを見捨てないだろ」

「そ、そんなに頑固じゃないもん!」

「ほら、そういうところも変わってない。――当たりだろ」


 そう言って彼は、私の隣に来てしゃがんだ。昔と同じように。

 そして、たった今落ちたばかりの椿を持ち上げ、川のほうへと流そうとした。


「ま、待って!」


 私は慌ててそれを止めた。「それは流さないで」と。

 ふしぎそうな顔をする瞬兄に、周りをよく見るように促す。そうすれば、地面に落ちた椿たちが全部そのままになっていることが、彼にも分かるはずだった。


「何だ? 心境の変化か?」

「……その。地面に落ちる椿は、地面が好きで落ちるのかもしれないって、思い直したの」

「へえ。面白いな」


 ……やっぱり私の妄想を馬鹿にしない。

 瞬兄は、変わったけれど変わっていない。

 私は瞬兄の手から椿を受け取った。大事に両手に包みながら、瞬兄の顔をうかがう。


「就職、したんだ?」

「ああ。俺だってやるときゃやるんだぜ?」


 彼の口から出た就職先は、それなりに安定していると評判の企業だった。高校のときテストひとつに苦労していた人が行けた場所としては上々だろう。


「つってもまだペーペーだけどな。いつか、出世してやるさ」


 すごいねと、私は心から賞賛した。


「瞬兄にも上昇志向みたいなものあったんだ」

「お前俺をなんだと思ってんだ?」

「目の前のテストで手一杯だった若造」

「……成人しても口悪いな……そこぐらいは変わってろよほんと」

「口が悪いの直って、いい子になってた方が良かった?」

「……いや」


 瞬兄は少し目をそらした。「昔のまんまで、良かったよ」

 その言葉が妙に胸にしみた。私は改めて瞬兄を見つめる。


「今は仕事で忙しいんだね。……ここに来てくれてありがとう」

「どういたしまして。お前も就職したんだってな? 商店街のおばさんに聞いた」

「うん。大学行かなかった。あんまり勉強、好きじゃないし」

「……成績トップクラスだったお前が言うと嫌みだぜ……」


 へへん、と胸を張ってみせてやると、瞬兄のデコピンが飛んできた。何よ、痛いじゃないか。


「だって早く働きたかったんだもん」

「……ああ。分かってる」


 やっぱり、瞬兄はたまに鋭い。

 樹の周りに散らばる落ち椿を気まぐれに手に取って眺めながら、彼は言う。


「お前がここに来てくれて良かったよ。今日で五日待ってたんだ」

「え?」


 実は私の落ち椿観察も、生徒時代のように毎日ではなくなっていたのだ。仕事があるからである。職場の位置が家から真逆だし、帰りが夜になることも多くなり、さすがに気軽にこの小川に来られることはなくなった。

 でも五日も前から――この人は私を待っていたの?

 瞬兄はニッと笑った。


「ちょっとときめいただろ? 今」

「いえ全然」


 瞬兄がガクッと肩を落とすのを、私は感慨深い思いで見つめた。

 何だろう……昔と同じように軽口を叩き合っているはずなのに、何かが違う。

 そもそも、瞬兄はここへ何しに来たのだろう? 連絡を取るだけならば、他にも手段はいっぱいあっただろうに。

 瞬兄の手から、落ち椿のひとつが落ちた。

 それから彼は小川を見た。そちらも水面は椿で埋まっている。相変わらずゆったりとした流れにのって、心地よさげに揺れている。


「……落ち椿、瞬兄も懐かしくて見たくなっちゃった?」


 冗談めかしてそう言うと、瞬兄は肩をすくめた。


「あっちにも椿はたくさんあったよ。落ち椿も山ほど見た。山茶花じゃないぜ」

「えー……」


 言われてみればそりゃそうだ。椿は珍しい樹ではない。

 というか、私もたしか以前に思ったはずだ。瞬兄の引っ越しについていって、向こうでも椿を見たいって。

 でも、何だか寂しかった。ここの椿を懐かしく思ってほしかったのに。


「だからさ」


 瞬兄は急に私を見た。「いつでも、お前を思い出せたよ。椿がどこにでもあったから」


「………」

「なあ」


 俺の夢を聞いてくれないか――彼は突然、そんなことを言い出した。

 夢? 彼の夢?


「……アニメヒーローになる夢?」

「そんな昔の話を持ち出すな。そうじゃなくてな。俺は――金を稼ぎたいんだ」


 何て夢のない夢でしょうか。そんなことを堂々と言う人だとは思わなかった。

 ……なんてね。

 本当はその言葉の先が重要なことくらい、私にだって分かる。


「金稼いでさ、家建てたいんだ。庭がある家。池もあるといいな。で、池のそばに椿を植える」

「……何言ってんの? 瞬兄」

「いい加減、その『兄』ってのから卒業したい」

「―――」


 大真面目に私をまっすぐ見るから、私はどぎまぎして目をそらせなかった。


「お前知らなかったろ? 俺、ときどきこっちに帰ってきてたんだよ。そんで、いつもここにいるお前を見てた」

「なっ……!」


 大きく目を見開いて私は声を上げる。

 そんな。瞬兄が帰ってきてたなんて。ここまで来てくれていたなんて。

 ――ひどい。どうして、私に声をかけてくれなかったの。


 夢ができたからさと、彼は言った。


「夢……?」

「お前と椿を見ているうちにできた夢。でも叶えるには俺には力が足りなかった。だから、声をかけなかった。お前に会う資格がまだないと思って」

「し、資格って」

「お前、言ったよな。落ち椿は樹から逃げたいのかなって」


 たしかに、そんなことを言った覚えもある。でもそれが何だというのだろう。


「そのとき思った。お前が落ち椿になりたいなら、俺はそれを受け止める地面か川になる」

「―――」

「お前の帰る家に……なりたいんだ」


 雨の名残の滴が、ぽたんと落ちて川に波紋を作った。

 椿が揺れる。花ごと揺れる。崩れ落ちない、美しいままの華で。

 私はすうと息を吸う。

 新鮮な空気が肺を見たし、それから静かに吐き出した。

 そうしなくては、上手に笑える気がしなかった。だってあんまりに――彼の夢は荒唐無稽で。

 あんまりに、私の胸を騒がせてくれるから。


「……私が中学生のころから? それってロリコンだよ」

「歳は三つしか違わなかっただろ! それに今ならもう、何歳差でもおんなじだ」


 そう、二人はもう大人。

 未来を、自分の人生を、自力で決定してもいい年齢。

 ――彼の夢はあまりに強引に私の心を揺すぶっていく。

 ああ、そんなに揺らされたら花ごと落ちてしまう。落ちる先はどこだろう? あたたかく柔らかい地面か……冷たく優しい水面だろうか?

 けど……違う。違うんだ。


「残念だけど、私が欲しいのは受け止めてくれる地面でも川でもないんだよ」


 瞬兄が一瞬、がっかりした光をその目に宿らせる。

 私は、口元がゆるむのを止められなかった。だって多分、これから言うことの意味を、瞬兄だけが理解してくれる。


「私はね、一緒に椿のひとつの花になって。一緒に丸ごと樹から落ちて。土になじんだり川に流れたり、一緒に冒険してくれる人がいいの」


 かつて――

 椿は樹から逃げたいのかと、思っていたことがあった。

 でも、色々考えたあげくこうも思ったのだ。落ち椿たちは――違う世界へ冒険しに行きたいのじゃないかと。

 そう思えるようになったのは、私が母の手を離れて働くことを決めたときからだったろうか。

 母と向き合う余裕ができたころからだっただろうか。


 瞬兄は少し目を丸くした。

 そして、こほんとわざとらしく咳払いをした。


「……あー、じゃあええと、俺を美穂と同じ椿の花びらにしてくれ……ください」


 私はふき出した。


「瞬兄がそれ言うなら、雄しべでしょ!」

「い……いいじゃねえか花びらでも!」


 もう本当におかしな人! よりによって私だなんて。落ち椿に執着する変な女の私にだなんて。

 しかも同じ花びらにしてほしいだなんて、なんて滑稽で――愛しい言葉!

 たった一人だけの私の理解者。さよならだと思っていたのに、戻ってきてくれた人。

 全然変わらない私を、全然変わらない気軽さで受け入れてくれる人。

 まっすぐに彼を見た。大人になった彼。まだ社員になりたてだろうに、堂々と背を伸ばして私の前に現われた人。

 私は笑って、彼に言った。


「一緒に冒険するには、まだまだ頼りないかな。ぺーぺーの平社員さんには安心して頼れません」


 うぐ、と彼がうめく。

 一刻も早く言いたかったんだと、言い訳がましく付け足してくる。

 情けない姿。私はニヤリと笑って、落ちていた椿のうち、まだまだ美しい一輪を拾い上げた。

 そしてそれを、彼に差し出した。


「いずれ。いずれね、条件が揃う日が来るまで――また一緒に、落ち椿を見てくれる?」


 彼はそれを受け取った。安堵の広がるかすかな笑みで。

 まるで椿の咲き方のような顔だと私は思った。大切なものを中央に抱えて、守るように、控えめに開く花。


「椿のない季節はどうすりゃいいんだ?」

「それはこれから考えるの!」


 未来を考えること。彼との冒険を夢見ること。

 そのどちらも、わくわくして楽しくて。

 私は彼に、渡した椿を川へ流すよう促した。彼は言う通りにしてくれた。

 ――流れにのって動き出す椿。時に停滞。時に乱舞。そして……やがては先に進んでいく。


 初めて、分かった気がした。

 花ごと落ちるということは、独りじゃないってことなんだ。


 私の胸から、意味のない寂しさはもうじき消えてなくなるだろう。もう父の夢にうなされて、泣きたくなるような夜もなくなるだろう。

 この季節に帰ってきてくれた彼。もう落ち椿は正真正銘、縁起の悪い花じゃない。


 私たちにとっての、新しい旅の始まり。

 それを教えてくれる、かけがえのない花なのだから――



<完>

作中の挿絵は、九藤様の作品「コトノハ薬局」(http://ncode.syosetu.com/n1862cs/)の挿絵から許可を得て借用しております。

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