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前編

*九藤朋様(http://mypage.syosetu.com/476884/)のイラストをお題にして書かせていただきました。

 花盛りの時期を過ぎ、少し黒ずんだ紅色の花が丸ごと落ちる。

 ――落ち椿と呼ぶことを知ったのは、小学校三年生のころだった。


「そんな縁起の悪いもの、いつまでも見ているんじゃないの」


 そう言って、母がしゃがみこんでいた私を引っ張っていく。その手の強さをよく覚えている。


「どうしてエンギが悪いの?」

「首ごと落ちるようだからよ」


 お父さんに何かあったらどうするの――と、そう母は言った。

 いまいち納得のできる話ではなかったけれど、母が嫌がっている内容はよく分かった。父は今、入院している。小さな私には詳しく教えてくれなかったけれど、難病であったらしい。

 実際――

 それから一年ももたずに、父はあの世へ旅立った。

 それは椿が再び花盛りになる、冬のさなかのことだった。


 その夜、夢を見た。とてもふしぎな夢――

 父の夢だった。亡くなる直前の父。

 父の周りを、たくさんの花が埋めている。見覚えのある花だ。母に近づくなと言われた花。椿。

 椿が父の周り一面を――埋め尽くしている。

 それはとても、とても美しい光景だった。幼い私が見とれるほどに。

 そして私は父の眠るような顔を見る。その眉間に、しわが刻まれているように思えた。


 ――お父さんは怒っているの? 縁起の悪い花を、綺麗と思った私を。


 ごめんなさい。夢の中で私はひたすら謝った。

 ぐるぐると世界が回る。花だけの椿が乱舞して私の周りを飛ぶ。

 そうしていつの間にか椿たちの中央にいるのは自分になって。

 私はいつしか、横たわっていた。まるで棺桶に眠るように。花を、周りに敷き詰められて――

 うっすらと鼻腔を椿の香りがくすぐっていく。

 その香りに包まれたまま、胸の上に組み合わせた手を置くと、すうと心が凪いだ。ああ……


 そうだよね。あなたたちだって、縁起が悪いだなんて言われたくないんだよね。


 私の椿への愛着は、思えばこの夢を見た日から始まったのだ――



 私の自宅の近くには小川がある。

 その川辺に、数本の椿が植えられている。冬になるころ、たくさんの花をつける。

 中学生になった私には、その花が妙に大人びた色気のある花のように思えていた。

 ――花びら一枚一枚が、美しく口紅をはいた唇のようだ。

 完全に開かずにどこか控えめに、器のように咲くところも好きだ。まるで中央の雄しべを守っている母親だ。

 けれど――

 私が一番好きなのは、椿咲き誇る冬ではなかった。


 春――……


 中学二年生になった四月。私は椿の根元にしゃがみこみ、一人小川を眺めていた。

 ……流れの緩やかな川面に、いくつもの落ち椿。

 椿は散って終わる花ではない。『落ちて』終わる花だ。否――丸ごと下に落ち、しばらくそのまま存在を維持する花だ。

 この場所では、椿は水面に落ちる。落ちて、ゆるゆると流れに身を任せる。時に石に引っかかってしばらくそこに留まる花もある。ゆら、ゆら、流れに合わせて揺れる。

 流れに身を任すにつれて、花びらが崩れていくこともある。美しく着飾った花がまるで帯を解くように解けていく。あるいは、花の形を保ったまま水と戯れ流れていくものもある。

 どれもこれも、私の目を惹きつけてやまない。

 小学校のころから、この時期の下校時間、私はいつも一人だ。小川に流れる落ち椿を眺める、そんな趣味を理解してくれる友人など、同年代の子どもにいるはずもなかったから。


 ただ、たった一人だけ――


「まーた来てんのか、美穂」


 軽薄な声にも、私は振り向かない。水面に揺れる椿を見つめるほうが大切だった。

 声の主は、私の無反応にも懲りなかった。ゆっくりと、私の隣にまでやってくる。


「……今日もたくさん、落ちたな」


 たぶん他意のない一言なのだろうが、私は何となくむっとした。


瞬兄しゅんにい、言葉を選んで」


 思わず彼を見上げて名を呼ぶと、瞬兄――香月かづき瞬は「悪ぃ」と頭をかいた。

 彼は今年高校二年生になった。年の差はあるが幼なじみ――と言ってもいいだろう。私が本当に幼いころ、父が早々に入院してしまって、母はその看病と仕事で手一杯だったから、私はよく近所の香月家に預けられていた。

 香月家はとても明るくいい人たち揃いだ。瞬兄もその一人だった。少し、言葉が軽すぎるきらいはあるけれど。

 まあ要するに、兄代わりのようなものだ。


 瞬兄は私の隣にしゃがみこむ。瞬兄は帰宅部だから、椿を見過ぎて帰りが遅くなりがちな私を探し、よくここへ来る。そしてなぜか一緒に落ち椿を見ていくのだ――その風情はちっとも理解しないくせに。


「こないだ友達と遊びに行ったときに、あー椿があると思って眺めてたら、あれは山茶花だって教えられちまったよ」

「また椿と山茶花を間違えたの。いい加減覚えてよ、何度も教えたでしょ」


 椿と山茶花が間違えやすい花なのは分かるが、断然椿派の私としてはいただけない。

 何より山茶花は――椿のように花ごと落ちない。


「椿は花ごと落ちるのよ。そこによさがあるのに、瞬兄ってばほんとに」

「あーあー分かった分かった、悪かったって」


 両手を振って謝意らしきものを表す瞬兄。私はふんと横を向いた。

 ちょうど、私の目の前を椿がまたひとつ、ぽとりと落ちた。

 残念ながら水面には落ちなかった。ここにある椿のすべてが水の上に落ちるわけではない。地面に落ちるものももちろんある。

 だが私は地に落ちた椿を見ると、どうしてもそれを水の上へと移動させてしまう。

 椿を川へそっと流す。椿を中心に、丸い波紋が起きて水面を揺らす。先客の椿たちをもかすかに揺らし、そうして彼らはさらさらと小川の流れに乗っていく。

 この川に鯉でも居ればまたひときわ風情が増すだろう。鯉と戯れる赤い椿。そんなことを夢想する。


「いつも思ってんだが、何でわざわざ川に流すんだよ?」

「……」


 瞬兄の問いに、私は少し考えたあと、


「川を流れていく落ち椿が好きだから?」

「何で疑問系だよ。自分でも分かってねえのか?」

「……」


 私はしゃがんだまま、両手で膝をかかえた。

 荷物は汚れるのも構わず椿の根元に置きっぱなしだ。「盗まれるぞ」と瞬兄が私の荷物まで手元に寄せて、守ってくれる。盗むもなにも、こんなところで川を眺めている中学生なんかに近づこうという人間はいないような気がする。

 いや――それとも逆だろうか?

 他人には、今の私はどう見えているのだろう。


「ねえ瞬兄。私って孤独そうに見える? さらわれそうな感じに見える?」

「はあ?」


 瞬兄は思いきり「意味分かんねえ」と顔に出した。

 私は唇をとがらせた。


「何よ。か弱い乙女が一人でこんなところで黄昏たそがれてるのよ。当然危ないでしょ?」

「自分で言う時点でか弱くねえよ。ていうか少し口を開けば誘拐犯も諦めると思うぜ、絶対大人しくしそうにないから――って、いてて! つねんな!」

「瞬兄デリカシーなさすぎ」


 まったく、落ち椿を一緒に見てくれる唯一の友人がこんな人だなんて。私は非常に納得いきません。

 ため息がこぼれた。たしかに瞬兄の言うとおり、私はたくましいほうだと思う。

 ……幼いころから、ほとんど独りで過ごしているから。


 私は小学校三年生で母子家庭となった。母は悲しみを振り切るかのようにめいっぱい働き始めた。経済的にもそうしなくてはいけない部分があったのだろう。理由は半分くらい――半分以上私のためであったはずだ。

 だけれど、代償に私は鍵っ子になった。家に帰っても誰もおらず、母はあまり料理が得意ではなかったから最初は出来合いのお総菜、そのうち食材を買うのも調理するのも全部私自身へと移行し、洗濯も掃除もいっぱしにできるようになった。

 今すぐ独り暮らしを始めたとしてもこなせるだろう。その自信がある。

 母の帰りはいつも夜遅い。あからさまに疲れているから話しかける気にもなれず、私は自分の部屋でひっそり勉強をする。そしてそのまま、会話もろくにないまま寝る。

 そんな毎日の繰り返しだ。


「美穂。おばさん元気か?」


 瞬兄が突然訊いてくる。私は首をかしげて、無言で答える。

 自分で家事ができるようになったころから、香月家に預けられることはなくなった。そのときになって分かったのだが、母は元々、私を他人の家に預けることに乗り気ではなかったらしい。あれだけお世話になったくせに、母親心とはふしぎなものだ。

 ただ、香月のお母さんは私のことを今でもたいそう気にかけてくれている。瞬兄がこうしてわざわざ私の様子を見に来るのもその一環のようだ。

 瞬兄自身も、特別嫌がっているようには見えない。下校時に時間があるなら友達と遊んだほうが楽しいだろうに、変わり者だなと私は思う。


「仕事、まだ忙しいのか。ほんと大変だな」

「あの人は仕事のために生まれた人ですから」

「そんな言い方はないだろ。お前のために働いてくれてんだぞ」

「……」


 そんなことは知っている。私は川面の椿をじっと見つめる。

 ちょうどひとつの椿が形を崩そうとしていた。はらり、はらり。水面なのに、そんな音が聞こえるような気がする。

 ――母は落ち椿が嫌いだ。それは今でも変わっていない。

 私が落ち椿を見るのを趣味にしているなんて知ったら、あの人は何と言うだろう。


 やがて花弁だけになった美しい紅のかけらは、せせらぎにのって旅立っていく。

 どこか遠くへ――知らない場所へ――


「……ねえ、瞬兄」

「あ?」

「椿って、樹から逃げようとして丸ごと落ちるのかな」


 きょとんとした反応があった。

 たぶん、意味が分からなかったのだろう。

 私は言い直さなかった。ただ無言で、手を水面につけて水を揺らしてみる。

 椿たちが揺れる。生まれた波紋が、遠くへ遠くへと広がっていく。

 落ち椿は少し私から離れていったようだ。


「……丸ごと落ちて、その姿のまま、どこかへ行きたいと思ってるんじゃないかな、って」


 瞬兄の沈黙は長かった。私の言葉の意味を咀嚼そしゃくするように。


「……お前……」


 やがて瞬兄はためらいがちに口を開いた。

 私は水面から手を引いた。彼が何を言うのか、それを待った。


「お前、ひょっとして逃げたいのか」


 どこかおずおずと、瞬兄はそう言った。

 私はそのときどんな顔をしたのか。たぶん笑ったのだろう、唇の端だけで。

 瞬兄はほんのときどき、とても鋭い。


「逃げないよ」


 ――母との空虚な生活。それでも仲が悪いというわけでもなく、その母は私のために働いてくれているのだから、傍から見れば十分幸せな家庭だろう。

 ただ――少しだけ。

 少しだけ、離れてみたくなっただけ。

 離れたらどうなるか、知ってみたくなっただけ。


 樹から丸ごと落ちる椿は、その後どうしたいのだろうとそんなことを考える。地面に落ちたならば虫に運ばれていくか……地面とひとつになるか。

 この辺りのように水面があるなら、流されていく……か。

 流れのない水場に落ちたならどうなるだろう。さぞかし美しいだろうが、椿たちは行き先を失ってはしまわないだろうか。

 だから私は地面に落ちた椿をわざわざ川へ流すのかもしれない。樹から遠くへ。ここから遠くへと願って。


「おばさんとの生活、つらいか?」


 瞬兄が心配そうに問う。

 違う。そうじゃない。母との生活が嫌だなんて言ったら罰が当たる。そもそも嫌なわけじゃない。たぶん私には反抗期は来ないんじゃないか。そんなことさえ思っている。

 断じて、そういうことじゃないのだ。

 でも私は……

 決まった家に鍵を自分で開けて入って、出て行くときも鍵を自分で閉めて……あの空っぽな家を出入りするたびに、胸に様々な思いが去来するたびに、落ち椿が恋しくなるだけ。


「単なる気まぐれだよ。気にしないで」


 明るくそう言ったのに、水面に映る瞬兄の表情が晴れない。まったく、変なところで心配性だ。

 ああ――私を妹のように思ってくれているからかもしれない。

 困った人だ。今は他人の心配している場合じゃないでしょうに。


「一年生最後の試験悪かったんでしょ? そろそろ受験も現実味が出てくるよ~?」


 わざと意地悪く言ってやると、瞬兄の顔色が変わった。


「ちょ。何で知ってるんだよ」

「瞬兄のことくらい見れば分かる。テスト返しのあった日、空元気だったもんね」

「お前エスパーかよ!」

「瞬兄が分かりやすすぎるだけだよ」


 むう、と怒ったような困ったような顔で瞬兄は腕を組んだ。

 ――良かった、心配そうな色が抜けた。

 瞬兄はそれでいい。そうやって、軽薄なくらい適当に、私の相手をしてくれていればいい。

 落ち椿を眺めるのが趣味の私を馬鹿にしない。瞬兄にはもうそれだけで十分、優しくしてもらっているから。


 ぽとりと椿がまたひとつ。今度は水面に着地する。

 波紋が生まれて、まるで歓迎するように川が何かを囁く。私たち人間にはきっと、一生聞こえない声。

 瞬兄は「よし」と急に拳を握った。


「見てろ。二年最初のテストで絶対お前を驚かせてやるからな」

「へー、すっごく楽しみー」

「何だその棒読み」


 私はあははと笑った。心地よい笑いだった。

 そうしたら瞬兄も笑った。「見てろよ」ともう一度言って、そして私と一緒に川を見た。


「綺麗だな。落ち椿」

「うん、綺麗でしょ」


 それだけで十分だった。十分だったのに――

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