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 霰の一夜が過ぎ去り、源氏の君も去った。邸中が緊張から放たれ、どっと疲労していた。私も帳台から出ることができず、昨夜の珍事を思いやって過ごした。何もかもが奇妙で、あれは夢だったのだと思いたかったが、ただ一つだけ、お婆様がお亡くなりになる直前に、少ししゃんとなされたことの理由が分かったことだけは収穫だった。お婆様は、私を必死で守ろうとして下さっていたのだ・・・。


 さらりと簾が引き上げられ、少納言が、帳台の中へ文を差し入れてきた。


「これは・・・?」

「源氏の君から姫様へのお文ですよ。昨夜の・・・後朝(きぬぎぬ)のお文でございましょう」


そう言って、少納言は出て行った。それにしても、少納言はおかしなことを言う。私だって、後朝の文くらい知っている。物語で見たことがあるもの。それに、少納言が私にはまだ早いから、と言って読ませてくれなかった、『こまのの物語(注:平安時代の物語。散逸しているため内容は不明だが、平安時代の姫君の性教育に活用されていた、という説もあったりなかったり)』だって、桂や犬君とこっそり読んだこともあるし。全く、昨夜の押し掛け宿直のどこに、趣溢れる男女の語らいがあったというのか。


 少し面倒に思いつつお文を開くと、美しく易しい文字で、恋の歌が書かれていたが、それよりも、お文に添えられていた何枚もの絵に目が留まった。綺麗な草花、美しい衣の男女、今まで見たこともないくらい面白い絵ばかりで、帳台の中で、ずっと飽かずに見入っていた。本当に、なんて素晴らしい絵なんだろう。桂は絵が好きだから、見せたら喜ぶはず・・・桂はどこだろう。


「姫様、姫様!」


桂が来た。ちょうどいい。


「兵部卿宮様がいらっしゃいました!」


――!!


 帳台から飛び出し、桂を急かして支度を整え、駆け出した。


「お父様!」


優しいお顔とお声、私を温かく包み込んでくれるお父様。


「おぉ、小さな姫や。かわいそうに、寂しかったであろうの。こんなに荒れた邸で、なんと痛ましいことかの。これからは父の邸で暮らそうの。心配はいらぬ。きっと皆で仲良く暮らせようぞ」


お父様!寂しかった、怖かった、ずっとずっと待っていたのよ!


「うわぁぁぁぁぁぁん!」


体の奥底に溜まっていた涙が、堰を切って溢れ出す。体中に張りつめていた糸が切れて、力が抜けてゆく。


「おぉ、よしよし。衣がこんなに萎えて・・・かわいそうにの」


お父様!女房たちがいなくなるの。お邸が壊れてしまいそうなの。みんな、悲しんでいるの。守って、守って・・・!


「ん?姫の体から何だかいい香りがするね。これは何という香かな?」


・・・源氏の君の香りだ。そうよ、お父様、何だか変なことが起こっているの。怖いのよ・・・。


「少納言、よく姫を守ってくれているの。もう心配はいらぬ。我が邸にそなたの部屋も作らせようぞ」

「まぁ、なんとありがたいこと・・・ですが、姫様はこのようにまだ幼いご様子。今しばらくはこれまで通りこの邸でお暮しになって、もう少し、物がお分かりになられてから、宮様のお邸にお移りになる方がよろしいかと」

「ふむ・・・それもそうかのう」


嫌、嫌よ!もうお父様と離れたくない!私はぎゅっとお父様の衣を掴んだ。


「よしよし、姫や。やはりすぐに父の邸で暮らせるようにしようの。今日はもう帰らねばならぬが、もうすぐじゃ、すぐにまた会えるぞ」


本当ね、お父様。もうこの不安は終わるのね・・・


 夜になって、お父様はお帰りになり、邸はまた寂しくなったが、何だか心の闇が少し晴れた気がした。明日のことを考える余裕ができた。そう、明日になったら、桂に絵を見せよう。きっと楽しい一日になる。


「姫様、姫様」


桂が弾んだ声で部屋に入って来た。


「今、惟光様がお見えですのよ。やっぱり素敵なお方ですわ」

「まぁ、またおいでなの?一体何のご用で?」

「さぁ・・・ま、そのような事はいいではないですか。さ、お早くお早く」


半ば強引に桂に連れられ、部屋を出たところで、少納言とばったり出会った。苛立っている様子の少納言に、桂がたじろいだが、少納言は気に掛けもせず、ため息とともに話し始めた。


「あぁ!嫌だ!三日どころか、まだ二日目だというのに、この有様!源氏の君がご自身でいらっしゃらずに、惟光殿を宿直人(とのいびと)だなどと言ってお寄越しになるなんて!内裏(だいり)からのお召しがあってお越しになれないなどとおっしゃっているそうですけど、どうだか!兵部卿宮様がお聞きになったら、無闇に源氏の君を姫様に近付けた私の落ち度だとお責めになるでしょうよ!あぁ、姫様、このことを宮様におっしゃらないで下さいましよ!」


私たちは、ただ、あっけに取られて、黙って少納言を見上げていた。少納言は、惟光に向かって、更に詰め寄る。


「もしも、もしも本当に、源氏の君と姫様の間に、前世からのご縁がございましたら、幾年か後にお通いになって頂ければ、まことに、この上もない幸いでございます。ですが今は、姫様はまだ幼くいらっしゃって、姫様のお父君も姫様をお引き取りになるとおっしゃっておられるというのに、男女の関係紛いのお戯れをなさって・・・こちらと致しましても、どうお応えすればいいのか・・・」


「えぇ、えぇ、お困りごもっとも!こちらの殿は、姫君がお一人になられたことを、それは大層おいたわしくお思いになられておりましてね、ま、それに、亡くなられた尼君からも姫様のことを頼みます、と仰せつかったわけですし、殿と致しましては、どうしても放ってはおけぬと・・・」


「まぁ!尼上様のおっしゃられたのは、姫様が成人なさってからのことでございましょう!やはり、宮様が姫様をお引き取りになると決められた以上、このようなことはなさらず、時が経ってから、お申し出下されば・・・」


「あぁ、はい、全くですね!ですが、殿が姫君をお気遣われるお気持ちは、それはもう並大抵ではなく・・・」


 いつ終わるとも知れない問答を盗み見て、源氏の君がなぜか私のことを気に掛けて下さっている、ということはよく分かった。


「惟光様って、やっぱり素敵です」


桂は相変わらずだ。でもまぁ、言われてみれば、確かに整った顔ではある。目元は涼しげで、怜悧な印象だ。


「でも、桂ちゃん。あの方、冷たいお方のような気がする」


私は、ちょっといじわるを言ってみた。


「まぁ、姫様!だからいいんじゃありませんか!」


今にも掴みかからんとする勢いの少納言と、じりじりと後退しつつも張り付いた笑顔で応戦する惟光の問答は、私たちが飽きて、部屋に引き揚げた後も続いていた。


 数日経って、朝。庭に降りた霜が、日の光で溶け始める。あちこちで伸びた草や、積もった葉、そして名も無き花たち。それらが皆きらきらと輝き、極楽浄土の光かと思わせる。お婆様が亡くなってから、いつの間にこんなに季節が変わったのか。冷たい風が頬を鋭く撫でる。


 あの一番恐ろしかった日から、今日まで、私は日の光も風の音も感じてはいなかった。でも、今は全身で感じる。蜘蛛の糸の上をおそるおそる歩くような悪夢の毎日も終わり、足に床の冷たさと、がっしりとした堅さを感じる。私は明日への一歩を確実に歩んでいるのだ。


 明日、お父様が私をお邸に引き取ると決められた。北山の家から引き揚げた時のように、大慌てで荷造りをする。明日はすぐそこに迫っているのだから。


「姫様、このお邸とお別れなんて、寂しいですね。思い出がたくさん・・・ほら、そこの柱、小さい頃、木目が人の顔に見えて怖かったものです」

「桂、もっとましなこと思い出しなさいよ。私は初めて少納言様に連れられて、このお邸に来た日のことを覚えていますよ。八つの時です。部屋のその辺りに姫様と桂が座っていて、初めの内は、私のことなど全く相手にして頂けなくて」

「あら、だって犬君ちゃん、ずっと黙り込んでいて、何を話したらいいのか分からなかったのよ」


犬君は両親を亡くして、遠縁の少納言を頼ってここに来たのだった。今の私より、ずっと幼かったのに。


「あぁ、もうこのお邸に戻って来ることもないのですね」

「そんなことないわよ。だってこのお邸は姫様のものですもの。兵部卿宮様がお手入れして下されば、いつか姫様がまたここでお暮しになられる日もあるんじゃないかしら」

「そっか、あぁ、またここで今みたいに暮らしたいなぁ・・・あーあ、明日から兵部卿宮様のお邸・・・北の方様や若君様、姫様のこと待っておいでになるかしら」


一瞬、体の奥から、黒い大きな塊が突き上げて来て、喉が詰まるような感じがしたが、止まりそうになった手をなんとか動かし、たくさんの絵や人形の荷造りに集中して、塊を再び体の奥底へ飲み下した。


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