七
九月も終わりに近づき、山に少しずつ紅い錦が広がってゆく頃の夜のこと、私は帳台で一人、震えて過ごしていた。隣の部屋からは、女房たちの慌ただしく出入りする物音が聞こえ、襖の隙間からは灯火の明かりが漏れている。重苦しい誦経が、邸全体を鳴らしているかのように響き、むせ返る香の匂いは私の帳台の中にまで漂ってくる。
絶え間なく続く、女房たちのすすり泣きの声が耳に纏わり付き、どれだけ衣を引き被っても、私を覆う真っ暗な恐怖から逃れることはできなかった。
いよいよ誦経が大きく、激しくなり、私は必死に耳を塞いだ。でも、女房たちのわっと泣き出す声は、襖を、衣を、耳を押さえる私の手を、いとも容易く押し破り、私はとうとう、その時が来たのだと知ってしまうのだった。
「姫様ぁ・・・」
少し目を赤くした桂が入って来て、私の支度を整えた。桂に伴われ、私は隣の部屋へと向かう。部屋の中では、灯りに照らされたお婆様がただ無心に眠っていらっしゃるようで、私は、何もお変わりない様子に安心したかった。でも、逆さに立てられた屏風や、泣き伏す女房たちの姿が、私を恐ろしい現実へと引き戻す。
「姫様、お声に出さずに、心の中でご念仏あそばせ」
私は言われるがまま念仏した。何度も、何度も。
それからは、北山の僧都殿が何もかも取り仕切ってくれた。読経、焼香、また読経、とめまぐるしく時が過ぎてゆく。陰陽師の勘申どおりにお婆様をお見送りし、四十九日の間、ただ、お婆様のために祈る日を過ごす。
毎日毎日、時はなんと足早に過ぎて行ってしまうことだろう。お婆様を想っていると、すぐに日が暮れ、また朝が来て、ただ祈る一日を繰り返す。何も食べたくないし、何も考えたくない。何も見たくはない・・・。お婆様が亡くなって、まだ幾日も経っていないのに、一人、また一人と、いなくなってしまう女房たち。ますます荒れて、暗闇に沈んでいくお邸。こんなもの、見たいはずなどない。
「姫様、姫様!起きていらっしゃいますか?」
犬君が来た。もう夜だったのか、気付かない内に眠ってしまっていたらしい。
「今、少納言様のもとにお客様がいらしているんですが、直衣をお召しになっていらっしゃる方でした。もしかすると、お父君の兵部卿宮様が、尼上様のことをお聞きになって、いらっしゃったのではないでしょうか」
お父様・・・?もう随分と長い間、会いにいらして下さらなかったのに、本当に今いらしているの?本当だとしたら、どれだけ・・・。
私は重い体を起こして、夜着のまま少納言のもとへ急いだ。
「ねぇ少納言、直衣をお召しのお客様がいらしているんですって?もしかして、お父様なの?」
少納言の顔が強張る。部屋に立てられた几帳の向こうから、この世の物とは思われない、素晴らしい香のかおりが漂い、天上から響くような心地良いお声が聞こえてきた。私たちと同じ人間だとは思われない、天上から来たお方が直衣をお召しになって、几帳のすぐ向こうに座っている。
「あなたのお父君ではないですけどね・・・」
あぁ、そそっかし屋の犬君!
「親しく思って頂いてもよい者ですよ」
このお方は・・・
「まぁ、こちらにおいでなさい」
源氏の君じゃないの!
あまり食べていないせいで体は怠く、頭も痛んだ。今の私に、源氏の君のことまで考える余裕などなく、何だか煩わしくなってきた。
「ねぇ少納言、私を部屋に連れて行って。眠いの」
さて、これで逃げられるか。
「おやおや、今さらどうしてお逃げになるのです。ほら、私の膝の上でお眠りなさいな」
源氏の君は、一体何を言っているのだ・・・。
一刻も早く、ここを離れたくて、私は少納言の袖を引っ張ったが、少納言に体を捕まえられてしまった。
「このように姫様は幼くて、何も分かっていらっしゃらないのです」
少納言はそう言って、私の体を几帳の前へ、ぐい、と押した。ただ固まって、座っていることしかできない私を、少納言はじっと見守っている。
几帳の下からこちら側へ、白い手が伸びてきた。仏様のような綺麗な形の手が、私の衣を、髪を、ゆっくりと撫で、私の手をぎゅっと握った。柔らかい、じんわりと熱を持っている、生身の人間の手だった。あの、いつかの北山で見た、源氏の君のお姿からは想像もつかない程の、生々しい人間の手の感触だ。
「眠いので、失礼します・・・」
やっとの思いで手を引いた。が、驚いたことに、源氏の君がするりと几帳のこちら側へ、すべり入って来てしまった。声を上げたかった。しかし、そんな事はできるはずもない。
「あ、あんまりでございますわ・・・!」
少納言が狼狽えた様子で言った。少納言にとっても、まさかこれ程のことになるとは、想定外だったようだ。
「こんな幼い姫君相手に、私が何かするとでも?ただ、私のこの上ない高い志を見て頂きたいだけだよ」
一体、何のことだろう、などということは考えている余裕はなかった。間近に迫った源氏の君のお顔。源氏の君の息がかかり、熱い体温を感じる。
時が経つのは、なんと遅いことか。源氏の君が、私と一緒に帳台に寝ている。あれから霰がひどく降り出し、源氏の君が、この邸に宿直なさるなどと言い出して、困惑する女房たちに構わず、私の帳台にまで入って来てしまわれたのだ。私は、身じろぎ一つできずに、ただじっと、身を固くして朝が来るのを待つしかなかった。
「私の邸には、面白い絵がたくさんありますし、人形もたくさんいますよ。これからは、私の邸で一緒に暮らすのはどうです?あなたのお婆様にも何度も、あなたを引き取りたいとお願いしていたんですがね、私のこの志をご理解下さらなかったようで、とても残念でしたよ」
石のように固まっている私の耳には、源氏の君の言葉は入って来なかったが、否応なしに吹きかかる源氏の君の息や、私を包む源氏の君の体温、それに、うっすらと滲む源氏の君の汗の冷たさが、私に全身で、源氏の君を感じさせるのだった。




