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 春が終わり夏が過ぎ、静かに時は巡り、やがて秋も半ばの八月となった。ぼんやりしていると冬が迫って来る。大人たちは俄かに浮足立ち、穏やかだった北山での暮らしは騒々しいものとなった。


「こちらの冬は、京の都よりも厳しいものです。今の内に京へお帰りになる方が・・・」

「しかし、京までの旅に尼上様のお体がお耐えになられるかどうか・・・」

「このところ快方に向かわれているかと存じます。やはり今を逃しては・・・」


 こうして私たちは、冬が迫らぬ内に、北山を去ることとなった。少納言や女房達、下男に下女、桂や犬君といった女童に至るまで、ばたばたと荷造りに走り回る。出立の用意は数日も掛からずに整い、私たちを乗せた車は京へと進み出した。


 駆け回った草むらにも、三人で語り明かした月の夜にも、静かに眺めた小さな庭にも、こんなにあっけなくお別れすることになろうとは。車に懸かる(すだれ)から吹き込む風は冷たく、北山の冬の厳しさを知らしめているようで、車はただひたすらに京への道を急いだ。山を下り、平らな道を真っすぐに進み、やがて車は六条の、荒れて薄暗い邸へと入って行く。


 京の六条にある、お婆様の大きなお邸。庭は荒れ、築地塀(ついじべい)は壊れ、灯明は部屋の隅まで行き届かず、そこここに暗闇が広がる。なのに、少納言の目は北山の小さな家にいた時よりも行き届き、私たちはなかなか共寝もできなくなった。私は一人、日々弱っていくお婆様に目を覆うこともできず、帳台で寒く暗い夜を震えて過ごす。


 都中が藤壺(ふじつぼ)女御(にょうご)様ご懐妊の喜びに沸く中、この邸だけは陰鬱な影に覆い尽くされているようだった。藤壺の女御様・・・お父様の妹君、私の叔母上にあたられるお方。でもきっと、私のことなどご存じないだろう。お父様にはご立派な北の方がおいでになって、そちらにお子様がたくさんいらっしゃるのだから。お父様の北の方は、私のお母様のことを疎んじておられたし、お父様はなかなか私に会いに来て下さらない。私は、痩せて弱ってしまったお婆様に頼ることしかできず、このお邸で一人、暗闇に震えている・・・。


 胸の奥で細い糸がぴんと張り、小さな痛みがちくりと走ったので、それ以上はもう考えることをやめにした。


「姫様、姫様!」


桂が部屋に入って来た。


「今、源氏の君がこのお邸においでになっているようですよ!」


私の周りを覆う暗闇に、急に光が射し込んだ気がした。源氏の君ですって―!?お婆様は、北山のあの春の日に、源氏の君がいらしたおかげで持ち直されたのよ・・・!


「お婆様、お婆様!」


私は思わず、お婆様のもとへ駆け出した。桂も急いで後をついて来る。


「お婆様、源氏の君がいらしているのでしょう。お会いになりませんの?ねぇ、お婆様、北山に源氏の君がいらした時、とってもご気分が良さそうになられましたもの。またお会いすればきっと・・・」


 源氏の君は、この暗い邸を、私の心の闇を照らす光。きっとこれから何もかも良くなるのだ。周りにいた女房達が困った顔をして私を見ていたが、私は夢中で捲し立てた。しかし、源氏の君は間もなくお帰りになってしまわれた。次はいつ訪れるとも知れぬ、せっかくの幸運だったのに、みすみす逃してしまったのだ。あまりのことに涙で濡れた顔のまま、その夜は眠りに就いた。


 翌朝。ほのかに灯りかけていた光を失ってしまった邸には、いつもよりもずっしりと重い闇が広がり、私は体を起こすのも億劫で、いつまでも帳台でぐずり、桂と犬君を困らせた。


「姫様、朝のお支度はまだお済みになりせんか?」


少納言が入って来た。いつも朝は来ないのに。


「あの、姫様、ご気分がお悪いみたい・・・」


桂が少し慌てて言った。


「姫様、大事ございませんようでしたら、お体お起こし下さいませ」


少納言に促されて、とうとう帳台を出て朝の支度を始めた。


「姫様、こちら・・・」


少納言が私に文を差し出した。小さな結び文だ。


「源氏の君からでございますよ」


桂と犬君が私を見る。私も驚いて少納言の顔を見上げた。


「素晴らしいご筆跡ですよ。ぜひ手習いのお手本になさいませ」


そう言って少納言は出て行った。萌黄色のお文を開くと、ふんわりと柔らかな香りが広がった。


(いはけな)き 田鶴(たづ)の一声 聞きしより 芦間になづむ 船ぞえならぬ

 (雛鶴の声に惹かれて芦間を行く船が進み難く思うように、私も帰り難く思います)』


わざと読み易く書かれた文字、いつまでも見ていたくなるような美しい上品なお文。三人で恋文だ何だと騒いだ、あの北山の夜の月の明かりを思い出して、胸にじんわりと懐かしい温かさが広がっていく。


「姫様、源氏の君は何てお書きに?」

「えっと、昨日の夜のことかしら・・・ほんとは帰りたくなかったんですよって・・・」


昨日、源氏の君に私の声を聞かれてしまっていたのだと気づいて、私は急に恥ずかしくなった。


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