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 日々は穏やかに過ぎゆき、今日も北山に朝が来る。東の空もまだ暗い内から勤行の声が北山を包み、やがて、山鳥たちの囀りが始まる。日ごとに木や草の緑が濃くなり、夏の気配をそこここに感じるようになった。私たち三人は飽きることなく、毎日をただ遊んで時を過ごす。そして、夕暮れ。家に戻ってお婆様と夕食を摂り、また三人で眠る。


 そんな穏やかな日々を繰り返していると、あの源氏の君がいらっしゃった日のことは、本当は夢だったのではないかと思えてしまう。でもその反面、夢ではないと信じてもいるのだった。なぜなら、源氏の君がいらっしゃった日から、お婆様や少納言の様子が少しおかしいからだ。少納言は何だか困り顔をしていることが多くなった。お婆様も・・・いや、お婆様は、お困りになりながらも、少しばかり背筋がしゃんとおなりになって、目にほのかに生気が宿ったように見える。明日をも知れぬ身と、なよなよとお嘆きなされていたお婆様が、生きねばならぬと思い起こされた理由は分からないのだが。


「それはやはり、源氏の君をご覧になられたからでしょう」


桂が言う。


「あのような素晴らしいお方がいらっしゃるこの世を去るなんて、私だったら嫌ですわ」


「尼上様は桂みたいに単純には出来ていらっしゃらないわよ」


犬君は桂にそう言いながら、


「素晴らしいお方をお見上げすると、仏様の功徳を得られると申しますものね。源氏の君ほどのお方なら、その大きさもどれほどのものでしょう」


と、桂と同じようなことを言うのだ。


 夏の気配が更に強くなり、庭の緑色が鮮やかに眩しくなってきた頃、突然、惟光(これみつ)という人が京からやって来た。惟光は、源氏の君の乳母子(めのとご)で、源氏の君の信厚い従者らしい。北山の穏やかな日々は、またも源氏の君によって騒がしくなりそうだ。


「随分と口数の多い方ね」

「頭のきれる方なんでしょう」


私たちは(ふすま)の影から惟光の様子を窺う。惟光は少納言に何やら必死に話している。内容はよく聞き取れないが、畳み掛ける惟光と、困っている少納言の様子が分かる。


「惟光様、素敵」


桂がほうっと、ため息と共に漏らす。


「ちょっと桂、あんたずっと源氏の君源氏の君って騒いでいたくせに、何なのよ」

「あらだって、源氏の君はそりゃあ素晴らしいお方だけれど、私たちにとっては天上のお方のようなものでしょう。やっぱり恋は同じ人間とするものよ」

仲忠(なかただ)様(注:平安時代の長編物語「宇津保物語」の登場人物)に恋してるくせに」

「それはまた別よ」


桂も犬君も、珍客に嬉しそうだ。


 惟光から強引に文を押し付けられた少納言が、部屋から出て行った。一人になった惟光は、やれやれ、と面倒臭そうに伸びをし、大きな欠伸までした。確かに、惟光は紛れもなく人間だ。源氏の君が伸びや欠伸をなさるとは、とても想像できない。


 少納言が、お婆様からのお返しであろうお文を持って戻って来た。惟光は恭しくお文を受け取り、さっさと帰って行く。


 夕暮れ、お婆様と夕食を摂り、お話もした。でも、昼間の惟光のことはついぞ聞けなかった。桂も犬君も、少納言に聞けずに終わったようだ。夜、帳台の中で、寝付けない三人の目が光る。


「気になりますよね」

「ええ、とても」

「なぜ今日惟光様が来られたのか」

「少納言様に懸想なさっているとか」

「そんなの嫌よ!」

「大丈夫よ、桂ちゃん。きっと源氏の君のお使いでいらしたのよ。どんなお使いかは分からないけど」


三人でうんうんと唸っても、これという答えはさっぱり出ない。


「お婆様へのお文には何て書いて・・・」


ふと口に出したが、いけないことだと思い、そこから先は言わなかった。


「あ、いいですね、それ」

「姫様、ご名案」


 尼上様のお文箱の位置はどの辺りか、大人たちの寝ている部屋はあそことあそこ、三人で行っては見つかるかも、ここははしこい犬君が一人で・・・。桂と犬君がこれから決行することの手順をどんどんと決めていく。私は事の成り行きを黙って見守った。


 月の明るい夜だった。京の都では、もう夏の暑さが顔を覗かせているらしく、昼間、京を覆っていた暑気が、夜になって山に昇って来ている。暑さは大人たちの眠りを浅くする。犬君の細い影が大人たちの顔を横切って行く。跳んでいるように軽やかな足取りに、涼しげになびく髪。さては山に棲む天狗とかいう物怪が夢にでも出たか、と首を捻りつつ、大人たちは浅い眠りに落ちてゆく。


 いくらも待たない内に、犬君が紙束を掴んで戻って来た。


「どれだか分からなかったので、とにかく持てるだけ持ってきました」


 月の光が部屋の中まで伸びている。私たちは月の光の中に、紙を一枚ずつ広げていった。紅、浅葱(あさぎ)、薄紫、様々な色の紙が光の中に敷き詰められていく。それぞれから漂う香のむせ返る匂いに顔をしかめつつ、三人で紙の錦をじっと見つめると、中でも特に素晴らしい筆跡のものが何枚かあるのが分かった。筆跡だけでなく、紙の色目も美しく、香も上品に漂っている。子供ながらに直感で分かった。これこそが源氏の君からのお文だと。私たちは源氏の君のお文だけを選り分けて、綴られた文字を眺めた。


「姫様、読めますか?」

「ところどころは・・・。このお文はたぶん、山桜が忘れられない、とか何とかって書いてある」

「源氏の君は北山の山桜を愛でにいらしていたのかしら」

「あ!」

「どうなさいました?姫様」


私は一つのお文に目を留めた。


「これ、手習いで見たやつだ!」


涼し気な色目のお文には、


『浅香山 あさくも人を 思はぬに など山の井の かけはなるらん』


と書かれている。


「このお歌はね・・・」


桂と犬君が期待に満ちた眼差しで私を見つめる。私は少し得意になって続ける。


「手習いで『浅香山 影さへ見ゆる 山の井の 浅き心を わが思はなくに』ってお歌を書いたのよ。浅香山の物の影さえ映してしまう山の井のように、あなたを思う私の心は浅いものではないですよって意味で、源氏の君のお歌はこれを踏まえていらっしゃるのね。えっと、だから、源氏の君のお歌は・・・、浅香山のように浅い心であなたを思っているわけではないのに、なぜ私から離れてしまうのですか、っていうことかしら」


桂と犬君は感心した様子で頷く。


「ではこれは恋文ですね」

「源氏の君が・・・」

「お婆様に・・・?」


三人が同時に噴き出した。馬鹿々々しい程にあり得ない。全く、子供の想像力の限界を超えたことだった。


「ではやっぱり、相手は少納言?とは限らないわね。他の若い女房とか・・・」

「あれ!?」


犬君が急に声を上げた。


「どうしたの、犬君ちゃん」

「あの、気付いたんですが・・・私、この浅香山のお文の文字だけは読めるんですよ。まぁ、ところどころは分かりませんが。でも、さっきの山桜のお文はさっぱり何て書いてあるのか分からなかったのに」


「あ、本当だわ!私も読めます」


桂もお文を覗き込んで、声を上げた。


「じゃあ、このお文だけ、易しく書かれているってことかしら」

「誰のために・・・」


桂と犬君が私を見る。誰もさっきのように噴き出さない。さっきと同じくらいあり得ないことだと思うのに。


「でも、でも、浅香山の元になっているお歌は、そもそも陸奥国(むつのくに)の国司の宴で詠まれたもので、恋の歌ではないのよ。この源氏の君のお歌もきっと違うんだわ。ね、ちょっと待ってて。私、もう一度このお歌の意味を考えてみる」


 これまでに習った歌、読んだ物語、私の持っている知識から、浅香山と山の井の姿を探す。が、浮かんでくるのは恋の歌ばかり。そもそも、あの源氏の君が、あの物も召し上がらないような源氏の君が、誰かに恋をなさるなんて、それ自体がとても奇妙なことなのに、まさか私を相手になさるなど、有り得ない上に何だか怖い。そうか、お婆様はこんな奇妙なお文のやり取りをなされていたんだ。だから、私のために、まだ生きねばと思い起こされて・・・。ぐるぐると、いろんなことに考えを巡らせている内に、私は敷き詰められた紙の上で眠ってしまっていた。桂と犬君が、困った顔で私を見つめているような気がした。


 雨の音が聞こえる。空はどんよりと暗いが、山鳥の囀りが聞こえるから、朝なのだろう。相変わらず、桂と犬君の姿は無く、帳台で一人で迎える朝だった。体をいっぱいに広げ、伸びをすると、頭の靄が晴れてきて、何やら違和感が迫って来た。私、昨夜、そこの床で寝ちゃったんじゃなかったかしら・・・お文の束は!?一気に頭が冴え、急いで体を起こしたが、広げたはずの紙は全て綺麗に無くなっていた。


「姫様、おはようございます」


二人が部屋に入って来た。不安そうな顔で座っている私に気付いた犬君が微笑む。


「大丈夫ですよ、全て抜かりなく」


 その日は一日中雨だった。私たちはずっと家にいたが、お婆様からも少納言からも叱られることはなかった。本当に、桂も犬君もうまく後始末をしたのだ。


 お婆様が私の髪を愛おしそうに撫で、二人で雨の庭を眺めて過ごした。雨に濡れてなお鮮やかさを増す花、地面を流れる細い雨の小川、立ち昇る土の匂い、いつまでもこうしていたいと思えるほどの、静かなゆっくりとした時間が過ぎてゆく。でも、この時間はきっとすぐに終わってしまう。お婆様の痩せて骨ばった冷たい手が、私の頬や首筋に触れる。じんわりと広がる涙の味を飲み込んで、私はただじっと庭を眺めていた。


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