二
「ただいま帰りましてよ」
あれほど不安に思いながら駆け抜けた草むらは、ゆっくりと見渡せば綺麗な花園で、三人で花や鳥を愛でつつ、迷うこともなく家に帰り着いた。京のお邸と違って、大きな門もなく、田舎風に小柴垣を巡らせて、山水を引き込んだ庭を持つこぢんまりとした家。ここは私のお婆様の兄にあたる僧都が、二年ほど前から籠っている僧坊。私達はつい先日、お婆様の病気療養のために、京のお邸からここへ移った。お婆様に、私の乳母の少納言、それに信頼できる女房達で、小さい家ながらも伸びやかに過ごしている。桂は少納言の娘で、早くに両親を亡くした犬君は少納言の遠縁にあたる。私はこの二人の女童と北山で遊び過ごしていた。
「僧都のお兄様は昔から、少々人の心の機微に鈍いところがおありになられて、お言葉が冷たいこともあるのですが、こうして私どもをお迎え下さって、真の心根はお優しい方だったのだと、つくづく思うのですよ」
京では塞ぎ込んでいたお婆様は、ここに来て弁舌も爽やかだ。ご発病に伴い尼姿となられた功徳と、日々のお勤めの賜物だろう。
「小さい方たちがお帰りのようですね」
少納言が私たちに気付く。私はお婆様の元気な姿が嬉しくて、お部屋へ駆け込んだ。
「どうなさったの。女童たちと喧嘩でもしたのですか」
お婆様が心配そうにお聞きになるので、私は自分の姿がどんなだったかを思い出した。
「すずめの子を犬君が逃がしたの。伏籠の内に込めておいたのに」
そもそも、あんなに走ったのは、逃げたすずめの子を追うためだったのだ。さっき草むらで散々泣いた後なのに、またほろりと涙がこぼれる。
「またそそっかし屋の犬君が、そんなはしたないことを」
少納言が呆れ顔で犬君を見る。犬君はついと目を逸らすが、きまりの悪そうな顔をしている。犬君のことを言ったのは悪かったかもしれない。
「桂も犬君も、こちらへいらっしゃい」
少納言が二人を連れて出て行った。私の酷い格好のことで二人を叱るのだ。泣いたり転んだり、私が子供っぽいせいで二人には迷惑を掛けてしまった、と思いつつ、黙って二人の背中を見送った。一人残された私に、お婆様はため息混じりにつぶやく。
「私の命は今日が限りかもしれぬというのに・・・」
来た・・・。私も無事ではなかった。お婆様のお小言が始まる。
「こちらへいらっしゃい」
そう言って、お婆様は私の髪を梳かし始めた。
「本当に綺麗なおぐし。長くおなりになられて。それなのにあなたときたら、いつまでも子供っぽくいらっしゃって、心配でなりません。あなたのお爺様である私の夫は、あなたのお母様が十二歳の時に亡くなられて、私も娘の将来を案じて、それは不安でしたけれど、あの子はとてもしっかりしていて頼もしかったものですよ。それがまぁ、あなたは幼くて、私がいなくなったら一体どうやって暮らしていくおつもりですの。あなたは私の他に頼れる方などいないのですから、もっとしっかりなさらなくてどうするのです」
仏様の功徳も吹き飛びそうな、お婆様の強い不安。この僧坊に来て、ほんの少しでも忘れられそうだった暗い現実が、また、目の前に広がる。痩せて白くなられていくお婆様。努めて気丈に振舞う少納言。私たち三人だって、毎日暗い心に押しつぶされそうになっている。でも、それを大人たちに気取られまいと、そう思っていた。私たち小さな子供まで不安の暗闇に飲み込まれていては、どこにも光など無い。私たちは、何にも気づいていない振りをして、毎日無邪気に遊んでいなければならないのだ。
しんとなり、重い空気が漂った中、お婆様が歌を詠まれた。
「生い立たん ありかも知らぬ 若草を おくらす露ぞ 消えん空なき
(これからどうなっていくかも分からない幼い子を残しては死ぬこともできません)」
傍に控えていた女房が、涙を流しつつ、即座に応える。
「初草の 生ひゆく末も 知らぬまに いかでか露の 消えんとすらん
(幼い姫君が成長なさる姿もご覧にならずに、どうして死のうなどとお思いになるのですか)」
胸一つに留められない激しい思いは、美しい歌に昇華し、周りに深い感動を伝える。庭から漂う花の香りや風の音と共に、歌に乗せたお婆様の悲しみは私の体の奥にゆっくりと広がって行った。花の影が濃くなり始め、冷たい風が吹き込む。北山の日が暮れてゆく。




