一
京の都は、まさに今が盛りと活気づき、皆々が幸せな毎日を忙しく生きておりました。中でも、源氏の君のめでたさはこの上なく、父帝であらせられる桐壺帝のご寵愛も増すばかりで、光り輝くその有様は、都の人々の心をも明るく照らしておしまいになります。
そんな中で、ただお三方、光が作り出した暗い影に覆われて、お過ごしになっておられました。
まずお一方が、弘徽殿の女御様。このお方は、桐壺帝の女御のお一人で、源氏の君のお兄君にあたられる東宮のお母君であらせられます。かつて、源氏の君のお母君の桐壺の更衣と、桐壺帝の寵愛を争われ、藤壺の女御とは今もなお争われておいでなので、源氏の君を憎く思われるのも無理はございません。
またお一方は、葵上様。このお方は、左大臣家の姫君で、源氏の君のご正室でいらっしゃいます。左大臣家は、弘徽殿の女御のご実家である右大臣家と勢力を競いながらも、大いに時めいておられ、そちらの姫君ともあろうお方は、近寄り難いほどの気品に満ち、ご夫君である源氏の君は、ついお心に隔たりを持ってしまわれるのでした。まことに、常に冷静に取り澄まされたご様子の葵上のお心のお寂しさに、一体どなたがお気づきになられるのでしょうか。
さて、お三方めには、六条御息所様。このお方は、先の東宮妃にて、東宮が亡くなられた後は、お産みになられた姫君と静かにお暮しでした。御息所は、他に並ぶ者のない高いご教養をお持ちで、お若い源氏の君はただひたすらに憧れ、やがて恋に落ちて行かれました。しかし、男女の仲になられてから見えてくるものは、教養に包まれた賢女の姿ではなく、愛憎に捕らわれた哀れな女のお姿でした。次第に遠のいて行かれる源氏の君への執着と、想えば想うほどに醜態を晒してしまうご自身への嫌悪の間で揺れ惑う御息所のお心は、嵐の気配を含みつつ、静かに暗い影の中を彷徨っておられました。
この、背後に迫る三つの暗い影に気付かない京の都人は、源氏の君の私邸である二条院の華やかな噂に心を躍らせています。源氏の君が、西の対にさる女君を引き取られた、とのことなのです。人々は様々に想像を膨らませますが、まさか誰も、その女君がまだ幼い少女で、源氏の君がこの少女と風変わりな生活をなされているとは、思いもよらないのでした。
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「ここ、あや、あこ、ちゃちゃ」
四人の女童の名を呼ぶと、皆優しい笑顔を向ける。それぞれに皆、華やかで美しい。このところ、お兄様は以前のように毎日この西の対にいらっしゃる、ということはなくなった。きっとお忙しいのだろう。少納言も、家司と話したり、何やら出掛けていることが多く、この頃は私の傍を離れていることが増えた。初めは寂しくて、泣いていたけれど、四人の女童たちがいつもわたしの傍にいてくれたので、寂しい気持ちはすぐに消え去った。
女童たちは、私のところに来る前は、お兄様に仕えていたので、お兄様からいろいろな面白い遊びを教わっていた。私は遊びに夢中になったが、このところ、女童たちの顔や髪、衣を見ることに興味が湧いてきた。
「あなたたち、お化粧をしているのね」
皆、私と同じ年頃のはずだ。私は幾分驚きをもって、女童たちの顔を見つめたが、皆、化粧にすっかり慣れた美しい顔で、柔らかに笑うのだった。
「お殿様のお好みなれば」
華やかな衣、つやつやと光る長い髪、心地良い香のかおり、清らかに美しくつくられた顔。お兄様の美しいもの好みに従い、四人の支度はいつも見事だ。
その華やかな衣の袖口を、つと、とらえてみると、手の中で溶けてしまいそうなほどの、柔らかな絹の感触が伝わってきた。それに、染めのなんと見事なこと。同じ紅でも青でも、私がこれまでに見てきたものとは全く違って、その奥深い色彩に引き込まれそうになる。
私があまりに、ここの衣の袖口を引っ張るので、上衣がするすると肩を落ち、薄い下衣に包まれた、ここのふっくらと丸い胸が露わになっていたが、ここはただ静かに微笑んで私を見ているのだった。
「若紫の姫様は、ほんに、衣をご覧になられるのがお好きでいらっしゃいますこと」
「うん、染めが面白い」
ここの蘇芳の袖口に、私の鈍色の袖口が重なっている。
「若紫の姫様は、お顔づくりにもご興味がおありよ」
あやが言った。
「よく、あやの顔を、じっとご覧になられているわ」
あやが嬉しそうに微笑む。少し切れ長の目が、犬君を思い出させた。
「ほほ・・・あやは女童の中で一番の美人ですものね」
ここがおかしそうに言う。あこもちゃちゃも、歯黒めをほどこした口を開けて笑う。
甘い香りが、火鉢から昇る細い煙に乗って、辺りに満ちてゆく。下衣に薄く包まれた、ここの胸元から、甘い香りが広がっているような気がした。その丸い胸はみずみずしく、花開く日を待ちながらも、すでに人を惹きつける香りをその身に纏う、柔らかな蕾のようだ。
「まぁ、姫様は甘えん坊」
ここの胸元に顔をうずめた。ここは優しく、私の頭を袖で包んでくれる。
「ねぇ、衿元にも香を焚きしめているの?甘い香りがする」
ここの顔を見上げると、ここは優しい目をして私を見ていた。白粉をほどこしたここの頬は、朝の光に輝く真白の雪のようで、私は指でそのつややかな感触を確かめた。雪玉のように、口の中で溶けはしないかと、唇をここの頬に近付けたが、ここの手が私の唇を押し留めた。
「白粉は毒にございますわ」
「少納言の白粉はよく舐めたのに」
「では、少納言殿の白粉は、お米の粉でつくられたものなのでしょう。私どものはそうではなく・・・毒なのでございますよ」
「ふぅん、じゃあ匂いを嗅ぐだけにする」
ここの頬に顔を近づけ、くん、と息を吸った。ふと、何だか懐かしい気持ちになった。少納言の白粉とは違うし、お婆様は尼姿になられてから、白粉をつけられていなかった。でも、私はかつて、この白粉の匂いを嗅いでいた。誰の白粉だろう・・・。
幸せな想像に入りかけた時、ここの声で我に返った。
「そんなに嗅がれては、くすぐっとうございます。まるで子犬のよう」
微笑むここから、また甘い香りがした。
「ここかもしれない」
「ここ・・・?」
「うん、ここのここから、甘い香りがする」
「まぁ、ここのここ、でございますか」
ふっくらと柔らかそうな、ここの形のいい唇が、紅色に濡れている。私はそれにゆっくりと唇を近づけ、そっと吸った。ここの温かい唇は、私の少し冷たい唇を柔らかく開かせた。溶けた紅が流れ込み、私たちの境界は曖昧に混ざり合う。口の中へと溢れる温かい熱は、体中に広がり、熱い吐息となって唇から漏れた。
「あっ・・・」
思わず発したその声に、ここは唇を離した。唇に、ここの紅の味が残っていた。
「甘うございましたか・・・ここの唇は」
「にがかった」
ここが、私の唇についた紅を、優しく袖でふき取ってくれる。
「お殿様に叱られてしまいますわ。私が若紫の姫様に、紅を差したとお知りになったら」
雪が静かに降り始め、格子が下されていく。私はここの胸に抱かれながら、ゆっくりと眠りに落ちた。