十一
ここは、二条院と呼ばれる源氏の君のお邸。私はこのお邸の西の対で暮らすようになった。専用の家司が置かれ、何不自由なく暮らせるよう、隅々まで完璧に配慮されている。女房や下仕えの者も、東の対から何人かやって来た。私の身の周りの世話をしてくれる女童は四人いて、皆もとは源氏の君のお世話をしていたという。こうして、私の暮らす西の対に、続々と人が集まり、ここに小さな社会が築かれていった。その中心に据えられているのは私。私は、紫上と呼ばれるようになった。
「紫上、若紫の姫」
そう言いながら、源氏の君は毎日、この西の対にやって来て、一日中私と過ごす。
「お兄様」
源氏の君のことは、そう呼ぶようになった。本当は、お父様と呼ぶべきなのだろう。私をこんなに大切にお世話して下さるのだから。でも、源氏の君は、お父様と呼ばれるには、あまりに若く美し過ぎた。
お兄様は何でもよく知っていて、見たこともない素晴らしい絵や、聞いたこともない面白い物語のことをたくさん話してくれる。お兄様と話していると、この世界はなんと美しく、面白いもので溢れているのだろうと嬉しくて、胸がこそばゆくなるような幸せな気持ちになる。
お兄様が文机を引き寄せ、美しい紫色の紙を手に取った。その紙には、『武蔵野といへばかこたれぬ』と書かれており、お兄様はその横に、
『ねは見ねど 哀れとぞ思ふ 武蔵野の 露分けわぶる 草のゆかりを
(まだ契ってはいませんが、とても可愛らしく思う。この紫草にゆかりのあるお人を)』
と、見事な筆跡で書き添えた。あまりの美しさに、じっとその紙から目を離すことができないでいた私の隣で、お兄様の優しい目が、少し険しいものに変わっていた。その鋭い視線に、思わずお兄様を見上げる。
「姫も何かここに書いてごらん」
突然、それは始まった。いや、もしかすると、私がこのお邸に来てからずっと、それは行われていたのかもしれない。壮麗なお邸の中で甲斐甲斐しく世話をされ、楽しい時間を過ごしていた中で緩み切っていた私の心の糸が、一瞬にして張りつめた。これは試験なのだ。私がこのお邸で、紫上と呼ばれ、かしずかれるに相応しい資質を備えているのか否かが試されている。
目を閉じ、短く息を吐く。緊張が少し解れ、もう一度紙に目をやる。なんだ・・・、『紫』色に『武蔵野』、これは古今六帖で見たやつだ。簡単だな。そう思った。(注:古今和歌集収録の歌『知らねども 武蔵野といへば かこたれぬ よしやさこそは 紫のゆゑ(行ったこともないが、武蔵野と聞けばため息が出る。そうだ、そこに生えている紫草にゆかりを感じるからだ)』)
私を可愛がって、慕わしく思って下さるのは、ある『ゆかり』・・・『紫草のゆかり』のため。それは一体、何なのだろう。その気持ちは、そのまま歌に姿を変えて、私の持つ筆先から、紙の上へと現れ出た。ふっ、と息を吐き、書き付けた歌を見る。すると、私の文字の子供っぽさは、お兄様の美しい筆跡の隣でより一層際立ち、歌の出来も、とても陳腐なものに思えてしまった。
「書き損なってしまいました」
そう言い訳しながら、紙を隠したが、あっさりとお兄様に奪われた。
『かこつべき ゆゑを知らねば おぼつかな いかなる草の ゆかりなるらん
(慕わしく思って下さる理由が分からないのです。私にはどのようなゆかりがあるのですか)』
お兄様の方をちらりと見る。厳しい目で私の歌を見ていたお兄様は、私の方を向き、輝かしいばかりの笑顔となった。それは、いつも私に向ける、目を細めた優しい笑顔ではなく、真っすぐに厳しく、それでいて包み込むような笑顔だった。私は、ほっ、と力が抜けた。
紫上―この壮麗な邸の女主人。私がそう呼ばれるに相応しい大人に成長していくか、お兄様はこれからも、あの厳しい目で見るだろう。私はそれに応えねばならない。お兄様の他に頼る人のいない私は、これからもずっと、この光り輝く華麗な世界で生きていくしかないのだから。