十
帳の隙間から明るい日が射し込んでいる。女の子たちが、くすくす、と楽しげに話しているのが聞こえる。朝になったから、桂たちが起こしに来たのかと、眠い頭で考えた。
「さぁ、もう起きて下さい」
さっと帳が上げられ、源氏の君の笑顔が覗いた。奇妙な夢はまだ続いていたのか、と落胆したが、朝の冷たい空気に触れたせいか、昨夜ほどの戸惑いはなかった。
昨日起こったことを思い返すと、つまり、私は源氏の君に連れられて、この邸・・・恐らく源氏の君のお邸に来たのだ。少納言の困り様から察するに、それはとても急なことで、お父様もご存じないようだ。そして、お父様のお邸に引き取られるというお話は、たぶんもう無しになってしまったのだろう。私がここにいることを、お父様は知らない。知らせることもできない。お婆様に続いて、私は、お父様という支えまで失ってしまったのだ。
「沈んでばかりいてはいけないよ。これからは私があなたを大切にお世話するからね。安心して過ごして下さいね」
源氏の君が美しい笑顔を私に向ける。
源氏の君に手を引かれて帳台を出ると、そこには極楽浄土と言うより他ない世界が広がっていた。絢爛豪華な大きなお邸は隅々まで磨き上げられ、心地良い香りに包まれている。立派な調度類が整然と並べられ、その細工の見事さに驚いた。御簾を上げると、果てしなく続く白砂の向こうには、清く澄んだ広大な池と、見事に咲き誇る花々、木に宿る小鳥の声が美しく響き渡り、心に溜まっていた黒い澱が浄化されてゆくようだった。
「気に入ったかな?さぁ、こちらに来て、一緒に遊びましょう。面白い絵もたくさんあるからね」
こんなに美しい物たちに囲まれて、なお一層その美しさが輝いている源氏の君。その周りには、綺麗な衣を着て、優しそうに笑う女童たちがいる。
ふと、目の端に、少納言の姿が留まった。帳台の傍に座り込んで、このお邸のあまりの素晴らしさに呆然としているようだ。少納言の萎え切った衣を見て、お婆様のお邸の、ほつれた几帳や古い調度、壊れた築地塀に荒れ放題のお庭を思い出した。源氏の君は、あのお邸を見て、私のことを心底可哀想な子だと思ったに違いない。いつかの朝、あの荒れたお庭を見て、極楽浄土だと思った自分が馬鹿々々しくなった。
源氏の君が見せてくれた絵や玩具は、何もかも初めて目にする素晴らしい物で、源氏の君も女童たちも、いろいろなことを優しく教えてくれた。あまりの楽しさに、時が経つのも忘れるほどだったが、日が傾き始め、源氏の君は普段お暮しの、お邸の東の対へ帰って行かれた。女童たちも部屋から下がり、私は少納言と二人残された。
「少納言・・・」
私と同じで、不安でいっぱいだったはずの少納言を放っておいてしまっていたことに後ろめたさを感じ、小さく少納言を呼んでみた。
「姫様、昨夜は怖い思いをなさいましたね。少納言が付いていながら、申し訳ございません。でも、このお邸の皆様方と打ち解けられていたご様子、少納言は安心致しました。このような立派なお部屋をご用意下さって、源氏の君は姫様を大事にお扱い下さるようですね。ご無体なことをなさらないか、ずっと心配して見ておりましたが全くの杞憂で・・・源氏の君には失礼なことをしてしまいましたわ。姫様は不安もございましょうが、安心してお暮しになって大丈夫でございますよ。・・・でも、残してきた者たちのことが心配ですね・・・」
少納言はもう、このお邸に圧倒された様子も、おどおどとした様子もなく、いつものようにきちんと居ずまいを正していた。私は、すっかりこのお邸の素晴らしさに舞い上がってしまっていたことが恥ずかしくなり、そっと端近に出て、お庭を眺めた。遠くの方に、紫や紅の袍を着た人たちが、ひっきりなしに出入りしている姿が見え、誰の訪れも無く、寂しかったお婆様のお邸を想わずにいれなかった。そんな中に残してきてしまった、桂と犬君の不安そうに寄り添う姿が目に浮かぶ。
「残してきた者たちの処遇につきましては、折を見て、少納言から源氏の君のご意向をお伺いしてみましょう。皆ここに迎えられるよう、なんとかお願いしてみますからね。姫様はご安心下さい」
頼もしい少納言の言葉に、私はただ、こくりと頷いた。