Episode 3.5: 2817年10月 売り子の少年
定義は時間に依存する。ことに人間の定義においては。
学芸員ソニア・キャスは、後に本名のソニア・スウィフトへと名を戻し、さらに後には地下街の魔女と呼ばれることになるのだが、しかしそれらもまたその時代に存在した人々による主観的な定義であり、それが事実であるという保証はどこにもない。
その朝、ソニア・キャスは列車に揺られていた。真空列車とは違う、床から突き上げられるような揺れに、ソニアは新鮮味を感じていた。車両が軋む音を立てるたびに、埃か何かのザラザラとした乾いた匂いが、鼻の中を通って彼女の肺の中に充満していく。
朝の列車は、満員というほどではないが、混雑していた。途中、初老の紳士の肘がぶつかりそうになったので、ソニアはすんでのところで避けた。
「これはすみません、お嬢さん」
「いえいえ」
右手で支柱に掴まり直しながら、もう片方の手に抱えている紙袋が潰れていないか確認する。
(ぺしゃんこのパンでランチをするのは、できれば避けたいのだけど)
この日、ソニアは19世紀後半の北米展示地区に来ていた。学芸員向けに収蔵品の保管に関する実地セミナーが行われるので、それに参加することになっている。
もっともそれは表向きの口実である。実際は、いつも居眠りばかりしているソニアに対し、先輩であるココ・レオーネが強制的に出張させたのだった。ココとしては、ほぼ完成している地区の展示を見れば、ソニアの仕事へのモチベーションも上がると計算していた。
だがそんなことでソニアが仕事人間になるはずがなかった。ソニアが学芸員になったのは、全く以て消極的な理由なのである。当然、ココもそのことは理解している。しかし動機不純な後輩にめげない先輩の努力により、ココ達の担当する地区でも準備作業は最終段階まで進んでいた。
一方、ソニアが出張に来た地区は、計画の段階で早期に公開することが決まっていたため、優先的に作業が進められてきた。先月からは、限定的だが見学も始まっている。
だがこの列車の中には、ソニア以外、人間はいないようだった。この博物惑星ミューズにおいて、各展示地区の住人は自律型アンドロイドで賄われているのである。会社員から学生、老人まで、全てアンドロイドによる"再現"である。"演技"ではない。アンドロイド達にはそれぞれ人格が転写されていて、その世界で生活しているという偽の記憶がインプットされているのである。街並みも何もかも全てを当時のままに再現するというのが、博物惑星ミューズの基本方針だ。その時代の生活様式を体験することで、より知識を深められるというのが謳い文句である。
だからこうして19世紀後半の北米における通勤風景が、ここに再現されていた。
だがソニアはそれを観察することもなく、ただ窓の外を見つめながら物思いに耽っていた。
(学芸員になったはいいけれど、私は本当に学芸員がやりたいのだろうか? 歴史が好きなのだろうか?)
ソニアの心中には、不安の雲が渦巻いていた。
物憂げな顔をしたソニアに、新聞の売り子の少年が声をかけてきた。
「新聞、いかがですか?」
見たところ、育ちの良さそうな少年だった。もちろんアンドロイドのようだった。しかし見た目がお金に困っているという感じではないのが、ソニアは気になった。
(細かい設定は、流石に再現されていないのかな?)
そうは思いながらも、無碍にする理由もない。
「一部頂こうかしら」
「お買い上げありがとうございます! お姉さん、今日は特に面白い記事が書けたんですよ。ラッキーですね」
そう言うと、少年は肩に提げたバッグから自信満々に新聞を差し出した。
「あら? あなたが書いたの? この新聞を?」
「そうなんです。僕が書いて、僕が売ってるんです」
(珍しいこともあるものね。これもアンドロイド自身が考えたこと? それとも当時の流行?)
しかし話はこれだけでは終わらなかった。
「それにね、この奥の車両には僕の実験室があるんだ。仕事の合間の時間は暇だから」
「実験室? こんなに揺れるのに?」
少年は、よく言われるよとでも言いたげな目をしたが、すぐに屈託のない笑顔を浮かべた。
「だって楽しいからさ。じゃあね、お姉さん。また明日も買ってね!」
そして少年は忙しそうに、列車に詰め込まれたアンドロイドの中に消えていった。
ソニアは、少年の去った後の空間を、自らの心に刻みつけるようにしばらく見つめていたが、やがてため息をついてそれをやめた。
まもなく目的の駅に着いた。セミナー会場は、駅のすぐ傍のホールである。時計を見ると、セミナーまではまだ時間がありそうだった。
気付くと、紙袋の中のパンはぺしゃんこに潰れていた。
駅に設置されたゴミ箱に、買ったばかりの新聞が投げ込まれている。
【トーマス・エジソン 1847-1931】
お読み頂きありがとうございます。
今回は短めのお話になりました。割と重要なエピソードかもしれません。
ネタバレになってしまうのであまり言えませんが、ソニアは悪いキャラではないので大目に見てやって下さい。詳しくは、のちのち。
では。
2016/07/30 初稿
2016/09/13 第二稿
2016/12/25 第三稿