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Episode 2: 2817年10月 モナ・リザは誰に微笑むか?(前編)

 正義か、自由か、平和か。その選択は、時に人を導き、時に人を惑わせる。


 その問いに答えがあるかさえ、誰も知らないというのに。




 ダヴィンチが絵を描こうとしない。


 初めその噂を聞いた時、ソニア・キャスは何かを皮肉った冗談だと思った。しかし、それが真実であることを知った今も、ソニアはそれを信じることができていない。


 考え事をしながら、ソニアは道を歩いていた。肩までかかった焦げ茶色の髪の毛が、規則的に揺れる。傍から見れば普通の若いOLだが、彼女の纏う濃紺の制服が彼女の所属を雄弁に語っていた。


「やっと見えた。あの左奥に見える建物が、レオナルド・ダ・ヴィンチのアトリエがあるサンタ・マリア・ノヴェッラ教会。我々、第十七学芸課の今日の仕事場ですよ」


 秋の涼しい風が吹く十六世紀初頭のフィレンツェ。その街並みの中に静かに佇む教会を、ジム・ブラウンは指差していた。


 ジム・ブラウンは、第十七学芸課所属の学芸員であり、ソニア・キャスの後輩にあたる。背丈は平均的な男子と同じ程度。栗色の短髪に地味めな顔であまりパッとしないが、頭脳労働の才能があった。彼のことについては、物語が進むにつれて分かってくるだろう。


「あそこは世界最古の薬局が始まったことでも知られているんだ」


「へぇ、じゃあダヴィンチに絵を描かせる(medicine)は無いのかしら?」


 ココ・レオーネの冗談に、ジムは白い歯を見せた。


クスリ(drug)ならあるいは」


「機械に効く麻薬ねぇ……。ある意味、私たちはそれを持っているのだけど」


 ココのため息は、フィレンツェの風にかき消された。


 ココ・レオーネは第十七学芸課の主任である。課長が訳あって不在のため、若いながらも実質的な責任者として課員を束ねている。背は女性の中では高い方で、立ち姿は豹のようにすらりとしている。黒味がかった髪の毛を背中まで伸ばしており、紅いアンダーリムの眼鏡も相まって、知的な雰囲気を醸し出している。


「アポロンのことですか?」


 ソニアの問いにココは頷く。


「そ。役立たずだけどね」


 人工知能アポロン。芸術神の名を冠したそのコンピュータは、博物惑星ミューズにおいて、全ての歴史を記録・管理して、"最適な"地球の統一史を編纂するために導入された。だが結果的に、ミューズの管理の殆どがアポロンに任されている。


 その一つが、ミューズ内で運用されているアンドロイドの制御である。基本的にアンドロイドは自律して行動している。だが、特に偉人を復元したアンドロイドは少し複雑な行動が要求される。見学者向けのイベントが定期的に組まれているからだ。その役割から、アポロンはまるで老人を介護しているようだ、などと揶揄されることもある。しかし、永い眠りから覚めた先人達が多忙を極めるほど、現代人たちが理想を欲しているのも事実だった。


 この展示地区におけるダヴィンチのアンドロイドも、例外ではない。ダヴィンチは、ヴェッキオ宮殿の五百人大広間にある壁画「アンギアーリの戦い」を制作することになっていた。毎月初めに描き始め、月の終わりに描き終えるとダヴィンチの記憶はリセットされ、再びレプリカを描き始めるようにプログラムが組まれている。穴を掘って埋めるような日常が、ダヴィンチには課されていたのである。


 しかし二ヶ月前、突如としてダヴィンチは「アンギアーリの戦い」を描くことを放棄してしまった。そしてサンタ・マリア・ノヴェッラ教会にあるアトリエに引き篭もったのである。原因は分かっていない。


 解決するための一番簡単な方法は、"麻薬"たるアポロンを介して指示を出すことである。ただしそれには一つ問題があった。事務方が申請書を通さないのである。みだりにアポロンに介入してはならない、というのが表向きの理由だった。しかし実際は参考にできる過去の事例に乏しいことが、事務方を躊躇させているのだった。


 もちろん学芸員側も手をこまねいているだけではない。これまでにも何度か他の学芸課がダヴィンチへの接触を試みている。しかし、それらはいずれもダヴィンチに会えないまま追い返されてしまった。その結果、面倒な仕事が回されてきたのが、第十七学芸課、通称"十七イチナナ"だった。


 だが彼ら三人は、ダヴィンチを説得しに来たのではない。


 モナ・リザをダヴィンチの手から奪うために来たのである。


「ところで」


 ココが口を開いた。


「モナ・リザを回収するにあたって、何か作戦があるの? こんなに人を集めて」


 ココの視線の先には、軽武装の護衛官が数名、彼らを囲むように同行していた。顔まで覆われたヘルメットで顔は分からないが、その出で立ちは頼もしいものだった。


「いや、彼らは万が一のためです。以前、他の学芸課が接触した時の報告書では、ダヴィンチが危害を加える可能性が示唆されています。そもそもダヴィンチは、兵器のアイディアを幾つか遺しているんです。後ろに回転する刃を取り付けた"殺人馬車"とか。つまり、もしダヴィンチが教会内を恐怖のアトラクションに改造していたとしても不思議ではないということです」


 これからそこへ乗り込むというのに、まるで他人事のようにジムは説明した。


「ミンチにされても不思議はないという訳ね」


「そこで今日の作戦は、単純明快。話し合いです」


「話し合い? 手立てがない、の間違いじゃないの?」


 ココは怪訝な顔をした。


「別に強行策をとってもいいんですよ? モナ・リザに損壊がないようにできるなら」


「そんな言い方だと、消去法みたいに聞こえるけれど?」


 ソニアの投げかけた言葉に、ジムは苦笑いしながら頭を掻いた。


「文句があるなら先輩達が仕切ってください。僕だってやりたくてやってる訳じゃないんですから」


 二人は口を揃えて言う。


「違うの?」


 また始まったよ、とでも言うように、ジムは歩きながら、手首に取り付けられた情報端末を操作した。


「その調子じゃ、どうせこないだ送ったメールも見てないんでしょうね?」


 情報端末から、空中へディスプレイが映し出された。ジムはメールの文面を開く。


「一応、事件の概要から説明しておきます。世界で最も有名な絵画と言われるモナ・リザが描き始められたのは、ちょうどダヴィンチがフィレンツェに滞在していた時期と考えられています。サンタ・マリア・ノヴェッラ教会のアトリエにモデルを座らせて描いたそうです。だからここをモナ・リザの展示場所とする理由が無い訳ではありません。


 しかし本来は、ダヴィンチが晩年に過ごした十六世紀初頭のフランス展示地区に収蔵される予定でした。なぜ展示場所が変わったのか? その理由はすぐに明らかになりました。あるイタリア系の学芸員が、ミューズ設立の混乱に乗じて、展示場所を指定する書類をこっそり書き換えたのです。イタリアで生まれたダヴィンチの絵画はイタリアに展示されるべきだ、というのが彼の動機でした」


「……似てる」


 ソニアはココの呟きが聞こえた気がした。しかし質問する前にジムに遮られてしまった。


「我々の今回の任務は、モナ・リザを回収することです。ただしアポロンからダヴィンチへ指示を出すことが、現状では不可能。しかもダヴィンチ本人は、理由は不明ですが、『アンギアーリの戦い』の制作も放棄しています。


 これはあくまでも僕自身の仮説ですが、ダヴィンチはモナ・リザが本物であることに気付き、盗られないように守っているのかもしれません。ダヴィンチがモナ・リザをイタリアに置いておきたいと思っても不思議ではありませんからね。それにこれまで学芸課が接触した際の報告書を見てみても、ダヴィンチ自身のモナ・リザの真贋についての認識には言及されていません。見落とされていた可能性があります」


 そこでソニアは、ふと疑問が浮かんだ。


「ダヴィンチに、それが本物のモナ・リザだと知る手段はあるの?」


「ミューズのアンドロイドは、収蔵物に対しては触ることすらできないようにプログラムされています。ダヴィンチは、アトリエにいる時間帯はレプリカのモナ・リザを描くようにプログラムされていました。でも描けない。だからそれが、すり替えられた本物のモナ・リザだと気付いた可能性はあります」


(果たしてジムの言う通りなんだろうか。私にはそうは思えないのだけれど)


 ソニアは首を傾げていたが、しかしだからと言って解決策を思いつく訳でもなかった。


「ちゃんと作戦を考えてるじゃない」


「だから話し合いをすると言ったんですよ。ダヴィンチと会話をすれば、モナ・リザが本物だと気付いているかくらいは探れるはずです」


「さっきはそこまで言ってなかったでしょ。ジムは言葉が足りないんだよ」


「どちらかというと、詰めが甘いって感じじゃないですか?」


「はいはい、すみませんでしたね。さ、ダヴィンチツアーの御一行様、目的地に着きましたよ」


 ようやく三人は、サンタ・マリア・ノヴェッラ教会の正面の扉に辿り着いた。


「時代に即した移動手段を使うのが原則とはいえ、もう少し便利になって欲しいものね」


「本当に。せめてホバーバイクが使えるといいんですけど」


「そのことなら、もうクレームが上に行っているみたいですよ。前向きに検討するらしいという噂です。いつになるかは分かりませんが」


 そう愚痴をこぼす彼らに、教会の前に立っていた一人の修道女が近付いてきた。


「レオナルド・ダ・ヴィンチ様に御用の方々ですね。初めまして。案内を仰せつかりましたアデルと申します。さ、どうぞこちらへ」


 そう言うと、黒髪のアデルはすぐに扉の奥へと入っていってしまった。アデルの顔立ちは、どことなくミステリアスな雰囲気を感じさせるものだった。イタリア系と言われればそう見えるし、あるいはフランス系にも、アラブ系にも、アジア系にも見える。それは、彼女自身の内に秘めた美しさがそう見せているのかもしれなかった。もしアデルがモナ・リザに描かれたあの婦人その人であると言われても、疑う人はいないだろう。


 アデルの後ろに続いて、三人は教会の中を進んだ。ひっそりとした一角にさしかかった所で、アデルは先にある扉を指し示した。


「あちらの部屋がダヴィンチ様のアトリエとして使われ――」


 その時だった。同行していた護衛官の一人が、アデルに飛びかかったのである。一瞬の内に、アデルの首筋にサバイバルナイフが突きつけられた。


「誰も動かないように」


 その声は女だった。


 ココが冷静に問いかける。


「あなたは誰? 何が目的?」


「ワタシは怪盗ファイ。名画モナ・リザは、ワタシが責任を持って預かりましょう」


 その名前は、既に学芸員の間で有名になりつつあった。最近ミューズに出没している収蔵品を狙った泥棒である。彼らも一応は気を付けていたつもりだったが、護衛官の中に紛れ込んでいる可能性までは考えていなかった。


「貴方たちは、なぜモナ・リザを回収するのですか? フランスの展示地区に移すのが適切だから? それともこれが仕事だから?」


 緊張の糸が走る空気の中で、怪盗の冷たい声だけが響いている。


「何が言いたい?」


「貴方たちに心はありますか?」


 ヘルメットの奥にある彼女の表情は分からない。


「モナ・リザは、1911年、イタリア人ビンセンツォ・ペルージャによって盗難に遭っています。二年間ビンセンツォのアパートに置かれた後、彼が盗んだことが明らかとなり、モナ・リザはフランスへと返還されました。ビンセンツォの動機は、イタリア人であるダヴィンチの描いたモナ・リザはイタリアに置かれるべきと考えたから」


 ミューズにモナ・リザが移送される時にも、イタリア系の男が展示場所をフランスからイタリアへと書き換えた。歴史は繰り返してしまった。


 ソニアはさっきのココの言葉を思い出した。


(似てる、と言ったのはこのことだったのね)


 怪盗ファイは雄弁だった。


「またモナ・リザをフランスへ置いたらどうなるか? いずれまたイタリア系の人々がそれを取り返そうとするでしょう。何度も、何度も、例えミューズによって"正しい歴史"が一つに決められたとしても。貴方たちは、本当に歴史が一つにまとめられるとでも思っているのですか?」


「ならあなたはどうするの?」


「ワタシはワタシの心に従うのみ。歴史はあるがまま、人々の心に映るがままであるべきです。ミューズなどという均一化装置は必要ありません。ワタシは、ミューズという存在を否定します。そのためならば、モナ・リザだろうがロゼッタストーンだろうがネフェルティティの胸像だろうが、この手で盗み出してみせましょう」


 怪盗ファイのかすかに見える口元からは、自信の色が伺えた。


 その時。


 アトリエの扉が静かに開いた。のっそりと現れる骨張った躰。知性と威厳を湛えた視線が、彼らを捉えた。


「ラ・ジョコンダ(la Gioconda)は、お前たちには渡さない!!」


 ダヴィンチの左手に握られたホイールロック式の拳銃が火を吹いた。


 皆、一目散にアトリエとは反対方向へと駆け出した。怪盗ファイの左脚に銃弾が命中したようだったが、彼女はあっという間に別の部屋へと入って姿をくらました。それに気を取られている内に、ソニアが一人取り残されてしまった。銃口がソニアを捉える。


「私の集中を邪魔した罰だ!」


(あぁ、これで私は死ぬのね)


 ソニアが諦めかけた次の瞬間、一人の護衛官が体を盾にしてソニアを庇った。そして次の銃声が聞こえた時には、ソニアを抱えて曲がり角まで運んだ。


「ありがとう」


「……いえ、仕事ですから」


 なおも護衛官は角からダヴィンチの様子を伺っている。しばらくして扉の閉まる音がした。ダヴィンチはアトリエに戻ったようだった。安心も束の間、ふとソニアが命の恩人に目を遣ると、護衛官の右腕から血が流れていた。


「怪我してるじゃない!」


「大した怪我では」


「いいえ、一大事です。応急手当を」


 ソニアが腰のポーチから取り出したそれを見て、彼の口元が笑った。


「少なくとも絆創膏は要らないでしょう」




 サンタ・マリア・ノヴェッラ教会からほど近くにある人気のない路地裏に、脱出した怪盗ファイの姿があった。彼女がヘルメットを外すと、ブロンドの長い髪が露わになった。


「左脚が機械でよかった」


 ペトラ・ヨハンソンの姿は、薄暗い路地の向こう側へと消えていった。

【レオナルド・ダ・ヴィンチ 1452-1519】


お読み頂きありがとうございます。


いよいよ学芸員のお仕事にスポットが当たるお話となりました。


学芸員の三人は、今後も活躍する予定です。どうなっていくのか、筆者自身も楽しみなキャラクター達です。


ちょっとしたネタバラシをすると、ココ・レオーネの名前は、ココ・シャネルと獅子を意味するフランス語からつけました。強い女性のイメージですね。もちろん彼女はフランス系の血を継いでいる設定です。


ペトラは、分かる人には分かると思いますが、社会福祉公社の二人から。


他のキャラの名前も、割と意味が込められています。別の言語同士を足したりしていますが、それはグローバリズムの名残としてそうしているので、誤りではありません。


他にも本エピソードでは色々と小ネタを挟んでいるので、少し触れた方がいいかなと思うものをいくつか。


まず怪盗ファイが言っていた三つの文化財ですが、これらは返還問題があるものを挙げています。要するに、怪盗ファイは勝者の歴史を否定するキャラです。


それから、「ラ・ジョコンダ」はモナ・リザのことです。ダ・ヴィンチ本人は、モナ・リザのことをそう呼んでいたそうです(ネット情報ですが)。モナ・リザという名称は後付けらしいです。このことを知ったときは、どう書いたら分かりやすいのか悩みました。


アバンの正義と自由と平和については、ユネスコ憲章の前文にもありますが、どちらかというと「コンクリートレボルティオ」の影響です。


あと個人的には、「アンギアーリの戦い」の実物が出てきたら嬉しいですね。調査に期待です。


では。


葦沢


2016/08/13 初稿

2016/09/20 第二稿

2016/12/25 第三稿

2017/05/14 第四稿

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