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Episode 9: 2818年3月 風花

 風の花。


 その花言葉は、儚い恋。




 墓標のように黒煙がコロニーの天井に上っていく。銃声、叫声、狼狽がオーケストラの最終章を奏でている。摩天楼の街、ライムシティは、もはや地獄変が絵の中から飛び出してきたかのようだった。


 それをビルの屋上から見下ろしながら、ノトロブはセレーネを起動させていた。仮想画面には、幾つかの円グラフとリアルタイムに変動している折れ線グラフが並んでいる。それらは脈拍や体内酸素濃度、疲労度の数値を指し示していた。その横には動画が映されている。薄暗い通路を駆け抜けている人物の視点のようだ。画面下部には「ハル・ウォードン」の名前が見える。


「よくもまあ、ここまで面倒なことをしてくれたものだな、青年よ」


 ノトロブが画面越しに独り言を呟いた。


「この青年さえいなければ、ダンタリアンの人格転写はもっとスムーズに進められたはずだったのだがな。まあ良い。もうすぐ作戦は完遂するのだ」


「ねぇ、父上」


 暇を持て余していたアデルは、高層ビルの屋上の縁に立ち、腕を水平に上げながら歩いていた。吹き上げるビル風が、アデルの長い髪を妖艶なメデューサのように巻き上げる。


「無粋な銃の音しか聞こえなくって、つまらないのですけど」


「何、もうすぐだ。もうすぐ完成するぞ、アデルの”お友達”が」


「我慢はキライです。お人形アンドロイド遊びも、もういいんじゃないですか?」


「全てはお前のためなのだぞ、アデル。私がどれだけ時間を割いたと思っているんだ。


 さあ、そろそろ行こう。”兎狩り”の時間だ」


 ノトロブはニタリとした笑みをアデルに向けた。




 「アポロン中央制御センター マシンルーム」


 そう刻印されたプレートを横目にしながら、ハルは警戒しつつ部屋の中へと足を踏み入れた。マシンルームは、コンサートホールのように広い空間になっていた。義眼で透視した限り、ここには誰もいないようだった。


”とすると……”


 ハルの視線は、マシンルームの奥で照明が照らされた一角に注がれた。祭壇のような機械の上に、ダンタリアンが寝そべっている。頭はヘルメットのような機械で覆われていたが、ハルの目には確かにアネモネのサイボーグとなった顔が視えていた。


 ダンタリアンの体を受け止めている機械からは無数のコードが伸びており、それらは全て巨大なパイプオルガンを彷彿とさせる計算機に繋がっていた。


”どうすれば人格転写を止められるんだ?”


 ハルはいっそコードを全て切ってしまおうかとも考えたが、あまりにも数が多すぎる。その時、この機械の傍にある制御装置のようなものに気付いた。


 近付いて画面を見ると、ダンタリアンの体の各部の状態や精神状態を示しているような数値が並んでいた。その端に「転写初期化」や「転写開始」といったボタンが見える。そして思った通り、その下に「転写停止」というボタンがあった。


 ハルは急いでそのボタンを押した。しかし何も起こらない。


”タッチパネルじゃないのか?”


 何度も押してみるが、やはり変化はない。


”操作を間違えた……?”


 もう一度注意深く画面を観察したハルは、ある表示に目を留めた。不穏な文字がそこに映し出されていた。


 100% Transcription Completed (転写完了)


 ハルは息を呑んだ。


「気付いたんだね、ハル」


 どこからともなくアネモネの声が響いた。


「もう手遅れだよ。私はアポロンになったんだ」


 ハルは、黒く巨大な計算機を見つめた。もはや人の形すらしていないそれが、かつての恋人の姿だった。


「なぜ人格転写なんてしたんだ?」


 それはハルの率直な疑問だった。


「ユニオン軍に報復するためだよ」


 その言葉を、ハルは目を閉じて聞いていた。再び目を開けてハルは口を開く。


「そう言えば、ロンドン展示地区で少女のアンドロイドが生贄になっていたが、あれは――」


「無駄話はこれくらいにしましょう、ハル」


 アネモネがそう言うと同時に、天井から何本もの鎖が降ってきた。それに沿って無数のアンドロイドが降下してきて、ハルはたちまち囲まれた。


「俺はアネモネと話がしたい」


「世界は言葉で語ることなどできない。あなたのことも、私のことも。真実は、目を閉じた先に見えてくるものよ。


 目を閉じなさい、ハル」


「……分かってるさ。ただできないだけで」


 そう言うと、ハルは近くにいたアンドロイドへ豹のように飛びかかった。手にしたナイフでアンドロイドの首を掻っ切る。


 すぐに四方から覆い被さってくるアンドロイドをハルは巧みに避けながら、足の関節をナイフで引き裂いた。


 さらに天井から伸びた鎖に飛び移ると、アンドロイドの頭上へダイブしてその頭をねじ曲げた。


 銃声が飛び交うが、どれもハルの体をかすめすらしない。


 左右から二体同時に襲われたが、ハルは両方の首元へナイフを突き刺して、それをスクラップに変えた。


 再び鎖に飛び移ると、次々に鎖を渡って、離れた場所へと位置を変えた。そして再び包囲網ができる前にアンドロイドを一体ずつ倒していく。


 その姿はまるで、忘我の鬼神、ベルセルクのようであった。


 するとアンドロイド達は別の戦略を取り始めた。ハルとは距離を取り、銃器を持ったアンドロイドがハルを蜂の巣にしようと一斉射撃を試みた。


”しまった”


 反応が遅れたハルの脳裏には、最悪の可能性が浮かんだ。


 その時、またあの声がハルの頭の中に響いた。


”ダメ!!諦めないで!!”


 まるで耳元で叫ばれているかのようだったが、その声の主はやはりどこにもいない。


 すると次の瞬間、ハルの背後に気配があった。


「撃てーーーっ!!」


 無数の銃声が鳴り響き、気付けばアンドロイド達は散り散りになっていた。


「助けに来たぞ、ハル!!」


 ハルが振り向くと、そこには満面の笑みを浮かべたジムが立っていた。


 そしてその後ろには、武装した見慣れぬ一団がいた。彼らは、アンドロイドの残党たちへと突進していった。


「僕が連れてきたんだ。役に立つと思ったからね」


 状況を飲み込めていないハルに、ジムが説明をする。


「あれがジャンヌダルクとアレクサンダー大王。あの銃を持ってるがシモヘイヘで、その前にいるのがジャック・ザ・リッパー。あれが海賊・黒髭一味で、その隣にいるのが赤毛のエイリーク。あと、あれが関羽と張飛でしょ。それからアフリカ・ズールー族の長、シャカ・ズールー。んであれがシュメール王、ギルガメッシュ。それから――」


 そう、彼らはこのミューズに展示された偉人アンドロイド達だった。これだけ武力に長けた偉人が一同に介したことなど、人類の歴史上初めてのことだろう。


「しかしどうやったんです? 偉人アンドロイドを展示地区の外に出せるなんて聞いたことがありませんが?」


「ま、そこはちょちょいとね。非常事態なんだから、細かいことは言っちゃダメだよ。実際、ハルが助かったんだし」


 だがよく見れば、アンドロイドだけではない。人間も混じって参加している。


「ジム先輩、彼らは?」


「あぁ、彼らはアシビのメンバーだよ。仲間の連絡を受けて、ミューズの支援をするために派遣されてきたんだってさ」


「しかしまだ停戦は決まっていないはずでは?」


「私が指示したんです」


 ハルがその声を聞くのは久しぶりだった。


「ソニア先輩……」


「久しぶり、ハル。元気にしてた?」


 しばらく見ないうちに、ソニアは垢抜けた顔つきをしていた。


「なんだかボロボロね。ハルらしいけれど」


「いえ、先輩もなんだか雰囲気が違いますよ」


「そうそう、大人っぽくなったというか」


「ジム、それは私が子供っぽかったと言いたいのかな?」


「いやいや、そういう訳では」


 するとそこにちょうど、ココ達がやってきた。


「ハル! ジム! それにソニアまで! どうなってんの、これ!」


「戦いは、我々の勝利のようです」


 アンドロイド達は、あらかた偉人とアシビによって片付けられてしまったようだった。


「そう、良かった……」


 その後ろからやってきたイオンは、妹の姿を見つけるなり抱きついた。


「ソニア! どうしたの、こんなところで」


「お姉ちゃんこそ! あっちこっち傷だらけじゃない」


「やっと会えた……ソニアに会えた! もうソニアを離さないからね」


 イオンの瞳からは大粒の涙が溢れていた。


「ちょっとお姉ちゃん、こんなところで泣かないでよ、もう」


 そう言いながらソニア自身の目もすっかり潤んでいた。


「それはそうと、ダンタリアンの人格転写はどうなったの?」


 ココの問いにハルが即座に答えた。


「ダンタリアンの人格転写は残念ながら完了していました。とりあえず今は増援もいないようなので、早く対処しないと」


「ああ、それなら心配しなくていいんだよ」


「どうしてです?」


「あのマシンは、もうミューズを制御する機能を失っているんだ。だからあの中に人格が転写されたところで何もできやしないんだ」


 その言葉に、ハルは耳を疑った。


「え? でもダンタリアンの指示でアンドロイドは動いていたようですが?」


「そんなはずはないよ。アポロンの機能はアデルに移されているのだから」


 近くにいたペトラが答えた。


「アデル?」


「ハルも一度会っているはずだよ。ほら、ダヴィンチのアトリエにいた修道女だ。今は彼女がミューズの全てを制御している」


「あのアンドロイドがアポロンだったなんて……」


 と同時に、ハルはあの修道女について不思議な経験をしていたことを思い出していた。


 ダヴィンチの事件の後、消されたはずの事件の時の記憶を持っていたこと。


 そして広東では、麻薬密輸業者の倉庫の中にアデルの幻が見えたこと。


 それだけではない。


 さっきからハルの頭の中に不意に響く謎の声が、あのアデルの声に似ていることにハルは気付いた。


「これは私の推理なんだけどね」


 ココはそう断ってから、これがアデルとダンタリアンによって仕組まれた罠ではないか、ということをハルに伝えた。


「……つまり、アデルはハルをダンタリアンの前に誘導するかわりに、ダンタリアンに友達になってもらう。ダンタリアンは、アデルの友達になる代わりに、ハルを倒す機会を得る。それが彼らの目的だったんだ。きっとアンドロイドも、アデルから一時的にダンタリアンに指揮系統が移されたんじゃないかな」


「……そうか」


 ハルは何かに気付いたようにそう呟いた。


「何はともあれ、早くダンタリアンの人格を消去すべきではありませんか? アンドロイドの制御ができるなら、十分に脅威になり得ます。それにアデルの動向も気になりますし」


「確かにね」


 ココはハルの顔を少し観察してから、ハルの意思を悟ったようにジムを呼び止めた。


「ねぇ、ハルにダンタリアンの人格削除をやってもらうから、やり方を教えてあげて頂戴」


「人格削除ですか……。ここのシステムがどうなってるのかよく知りませんが、いいですよ、やってみましょう」


 ハルとジムは、床に転がったアンドロイドの群れの横を通り抜けて、ダンタリアンの宿るアポロンマシンへ近付いた。


 ジムはアポロンマシンの周りを調べて、すぐにマシン管理用に開けられた入り口を見つけた。人が通れるほどの大きさで、ネジ止めされた蓋で封印されている。ジムはネジを手慣れた様子で取り外し、蓋を開けた。するとそこに真っ暗な穴が姿を表した。


「狭いな」


「俺が入りますよ。体を動かすのは得意ですから。セレーネで映像を送るので、指示してください」


「んじゃ、よろしく」


 ハルは、まるで小動物のように穴の中にするりと入り込んだ。内部には赤い色の照明が所々に施されており、移動に問題は無かった。ハルは目についたケーブルやスロットには片っ端からセレーネのカメラを向けた。


 ジムはその映像を見ながら、時折セレーネをアポロンマシンに直接繋いで内部のデータを確認しつつ、ハルに進行方向を指示した。内部は入り組んでおり、梯子を上った先で枝分かれしており、隈なく探索するのは骨の折れる作業だった。


 そして奥の装置にまでやってきたところで目的の部品を見つけた。


「そこにあるメモリカードを全部抜けばいいはずだ」


「この中に転写された人格が保存されているんですか?」


「いや、正確に言えば違うかな。人格データは特殊で、常に電源を必要とするし、データの書き換えが常時行われるから、本来なら内部メモリに入れておくべきなんだ。でも今回は、転送速度を早めるために外部メモリに人格データを入れたらしい。既存の技術よりも桁違いに容量が大きいから、恐らく記憶データも入ってるんじゃないかな。それはともかく、外部メモリに人格データを入れた場合、取り外せば電力供給が無くなる。つまりその時点で人格データは壊れてしまうんだ」


「なるほど。では作業に取りかかります」


 ハルは一旦セレーネの通信を切断してから、何枚も並んだメモリカードへ慎重に手を伸ばした。ゆっくりとそれを引き抜くと、カードは簡単に外れた。


「これがアネモネの望みだったんだな」


 ハルは小さな声で呟いた。


 すると、近くにあった小さな液晶パネルが光り出した。そこにゆっくりと文字が流れる。


”ヒトゴロシ”


「うるせぇ。殺される奴が冗談言うなよ」


”(・ω<)”


 思わずハルの口元が緩んだ。


「おかしいと思ってたんだ。ロンドン展示地区で少女のアンドロイドが人身御供になったのは、このことを俺に遠回しに伝えるためだったんだな」


”ナンノコトカナー?”


「誤魔化したって無駄だ。アンドロイドの動きが鈍かったし、追い詰められた瞬間に援軍が来たのも全て計算済みだったんだろう?」


”タイヘン ヨク デキマシタ”


「……バカな奴」


”ゴメンネ ワタシ ズット アヤマリタカッタ。 ハルヲ ウラギッタコト。 デモ ワタシハ ツミヲ カサネスギタ”


「昔から背負い込み過ぎなんだよ、アネモネは」


”ナンダカ ソロソロ ネムクナッテキチャッタ”


 そうこうしているうちに、ハルはもう半分ほどのメモリカードを抜いていた。


「そうか……。ゆっくり休むんだぞ」


”ナンダカ フワフワ スル フワフワ フワフワ”


 ハルの眼は、いつの間にか潤んでいた。涙がこぼれ落ちるのを、必死で堪らえようとしていた。


「そうか、フワフワするのか」


”フワフワ ハルクン モ イッショニ フワフワ シヨウネ イツカ マタ イッショニ”


 ハルは溢れる涙を袖で拭ったが、それでもすぐに視界がボヤケてしまうくらい、涙を堪え切れなかった。


 だが突然、雷が落ちたかのような激痛がハルの全身に走った。


「グワアアァァァァッッ!!!」


「おい、どうしたハル? 何があった? おい! 返事をしろ!」


 しかしハルは、ジムの声に返事すらもできなかった。意識が飛びそうになるのを、ハルはギリギリのところで維持していた。飲み込んだ爆弾が腹の中で爆発しているみたいで、全身が張り裂けてしまうのではないかとハルは思った。


 悶え苦しみながらも、ハルは液晶パネルに視線を向けた。


”ハルクン ダイジョウブ?”


 アネモネも何が起きているか分かっていないようだった。


(一体何が起きているんだ?)


 混乱しているのは、外の人間も同じだった。


「ジム! ハルに何かあったの?」


 近くに駆け寄ってきたココに、ジムは首を振る。


「分かりません。いきなりハルが叫び声を上げたんです。今からハルの所へ行ってみます」


 その時、どこからともなく男の声が聞こえてきた。


「約束が違うじゃないか、ダンタリアン」


 ノトロブはマシンルームの入り口に立っていた。その後ろにはアデルの姿も見える。


「君はハル・ウォードンを血祭りに上げると言っていたじゃないか。私らは君に死なれては困るんだよ」


「あなたは……誰?」


 ダンタリアンの返答に、ノトロブはさらに機嫌を悪くしたようだった。ノトロブは自らのセレーネに目を遣る。そこにはダンタリアンの人格データの現在の状況が表示されていた。


「記憶に欠落が見られる。データがかなりやられてるじゃないか。これは大きな損失だよ。分かっているかい、アデル? お前が”ダンタリアンが殺される”という未来を私に正しく伝えていれば、こういうことにはならなかったのだ。せっかくのお父さんからのプレゼントなのだから、大事にしなさい」


「……はい」


 アデルの顔をよく見てみれば、頬の人工皮膚が剥がれて金属が露出していた。恐らくノトロブに殴られた痕だろう。


 アデルはそれでも死んだような目をして、ハルのいるアポロンマシンへ向けて手の平を向けていた。


「それにしても、あの青年はまだ精神がイカれてないのかね? 義眼から脳に直接痛覚を与えているというのにしぶとい奴だな。アデル、手加減は無用だ。さっさと青年の脳神経をズタズタにしてしまいなさい」


 その声をハルは聞いていたが、もはや激痛に耐えるのに精一杯で、義眼を取り外すこともできなかった。


 その時、ハルの視線がアネモネの液晶パネルに向いた。


”メヲ トジルンダヨ”


 目を閉じる。だが瞼を閉じたところで痛みに変わりはない。


 そうだ、こういうことじゃない。


 目を閉じた先に真実があるのだ。


 透視なんかできたところで、そのものの本質が分かるわけではない。


 見ることに頼ってはダメだ。


 外見に騙されてはダメだ。


 そこには何がある?


 見るのでも、聞くのでも、嗅ぐのでも、触れるのでも、感じるのでもない。


 そこにあるものは空っぽの存在だ。


 フリージアの花は、そこに咲いているのではない。


 種から芽吹き、葉を広げ、背を伸ばし、雨に打たれ、陽射しを浴びて、ようやく花を咲かせて、すぐに花びらを散らして、種を残す。


 その全てがフリージアの花だ。


 そこに見えていないものも全て含めて。


 歴史も同じだ。


 歴史の教科書だけが全てではない。


 歴史家の眼に映ったものだけが全てではない。


 その時代に生きていたヒトビトが泣き、笑い、会話し、殴り合った、その全てが歴史だ。


 見えていないものが、俺には見えるだろうか。


 全身を怒り狂った竜のように駆け巡っているこの激痛も、その本質は俺にはまだ見えていないのだろう。


 この痛みは何だ?


 全ての感覚を取り払った先に、この痛みの本質がある。


 俺に見ることはできるだろうか。


 ……あぁ、そうか。


 ハルはその痛みを風のように包み込み、抱き締めた。


「助けて!!」


 その声は、ハルの耳元で確かに聞こえていた。声の主は、ハルの腕の中にあった。もうハルは痛みを感じていなかった。


「ハル! 助けて!」


 ハルはアデルの頭を、春の朝に吹くそよ風のように優しく撫でてやる。


「もう大丈夫だよ。よく頑張ったね。あとは俺に任せなさい」


「……ありがとう……ありがとう、ハル!」


 そしてハルは意識を取り戻した。


 すぐにメモリカードを引き抜く作業に取り掛かる。


”ハル タイヘン ヨク デキマシタ”


「アネモネのお陰だ。ありがとう」


”ハル アイシ”


 そこでアネモネの液晶パネルは電源がプツリと落ちた。液晶パネルの光がゆっくりと消えていくのを、ハルは消えかけの蝋燭の火を眺めるように見送った。


 一方、アデルは、アポロンマシンの中のハルに向けていた手を下ろしていた。


「どうした! もう一度だ、アデル! 早く」


 ノトロブは、自らのセレーネに顔を近づけてアネモネの人格データが消えていくのを凝視すると、焦りも隠さずアデルの両肩を掴んで強引に揺すった。


 しかしアデルの眼は、もうノトロブの目を見ようとはしなかった。アデルは、まるで天女の衣からほつれた絹糸のような、ただ一筋の涙を流して叫ぶ。


「やるのです、ハル!!……そして私を助けて!!」


 その時、アネモネのメモリーカードの最後の一枚が、ハルの手によって優しく抜き取られた。

お読み頂きありがとうございました。


今回は、かなりハードな展開でした。


書いているこっちの体力もガシガシ削られてます……。


それぞれのキャラの行動になるべく齟齬がないようにと思って、それぞれの立場になって読み返したりするので、結構書きながらダメージを受けてしまいます。


まあ、でも今回は大変だった分、達成感が大きいです。


「見えないものを見る」というのが本作で一番書きたかった部分なので、それが伝わったらいいかなと思います。


今回の小ネタ。


メモリカードを抜いていくのは「2001年宇宙の旅」のHAL9000のオマージュです。ハルの名前もここから。


アネモネの液晶パネルでの会話は、「UN-GO」の風守のオマージュです。


これはどこかでもう言ったかもしれませんが、ハルは北欧神話の風の神オーディンが元ネタ。やけに素早い描写があるのはこのせいです。


オーディンはミーミルの泉を飲み、知識を得る代わりに片目を失いました。ハルの義眼の設定はここから。


そしてアネモネの語源は、ギリシャ語で「風」を意味する”anemos”から。


こんな感じで、実は「風」ネタてんこもりだったのです。


あとは泣いても笑っても二話で完結です。もしかしたら二話分同時に更新するかもしれません。


次回は「愛しき君へ(仮題)」。アデルのお話+αです。


気張っていきます。


それでは。


葦沢


2018/02/18 初稿

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