Episode 5: 2818年3月 ロンドンは夜の9時
過去とは、人が時間を代償にして得た事象の積み重ねである。
過去は、ある時は経験となり、人の背中を押すだろう。
またある時は亡霊となり、人を悪夢の底へ突き落とすだろう。
だから人は過去を編集し、理想を求めてしまう。
歴史に事象を食われているとも知らずに。
悪魔がロンドンに降り立った。老若男女あらゆる顔を持つと呼ばれるその悪魔が公に姿を現した時、それが何を意味しているのかを正確に図ることのできる者はいなかった。
冷気の満ちた夜の闇の中で、ガス灯の光が弱々しく人々の顔を照らしている。
不安と緊張に満ちた第十七学芸課の顔。
何かを祝福するように踊り狂っているアンドロイド達の理性を失った虚ろな顔。
しかしダンタリアンの顔は、黒衣のフードの下に隠されていて見えない。
「我が名はダンタリアン。ようこそ、私たちのゲームへ」
毅然とした態度を崩さずに、ココは眉間にシワを寄せた。
「ゲーム?」
「そう、ゲーム。ゲームのルールは初めからある訳ではない。そもそも世界は言語で語ることなどできない」
ダンタリアンは右手を懐に伸ばし、手の平大の小箱を取り出した。その中から出てきたものはカードだった。
「一般的に、トランプと呼ばれるカードゲームは世界中で知られている。しかしカードのスートは必ずしもダイヤ、スペード、ハート、クラブではない。枚数も32枚だったり、36枚だったり、40枚だったりする。必ずしもジャックとクイーンとキングが描かれているとは限らない。
ただし共通していることがある。人はゲームをするということだ。いつの時代も、どこの場所でも。
それはなぜか? ひとえに楽しいからだ」
そしてダンタリアンは、カードの入った小箱をアンドロイドの集団目がけて放り投げた。夜の闇の中をカードがコウモリのように舞う。アンドロイド達は踊りを止め、それをめいめい拾い上げた。
「ではルールを決めよう。深夜零時までにクラブのジャックを持っているアンドロイドからカードを奪うことができたら、君達の勝ちだ。私は君達に投降しよう。
しかしそれができなければ君達の負けだ。残念ながら、私の計画は遂行される」
「計画? 計画って何だ?」
「さ、ではゲーム・スタートだ。私の粋なもてなしを楽しんでくれたまえ」
ダンタリアンが手を叩いた。その乾いた音を耳にしたアンドロイド達の目つきが変わる。それはまるで血に飢えた狼のように、学芸課の人間を睨みつけている。
「そうそう。言い忘れていたが、今ここにいるアンドロイド達は、全員ジャック・ザ・リッパーの人格を転写させてあるから、そのつもりで行動して頂きたい」
「ジャック・ザ・リッパー!?」
絶望でうろたえるココに、ハルが尋ねた。
「誰です、それ?」
「十九世紀末のロンドンに実在したと言われる殺人鬼だよ」
それから一言、誰にも聞こえないくらいの小さな声で付け足した。
「そんな危険人物のアンドロイドがミューズに展示されているなんて思えないのだけど」
その時、ハルの脳裏を既視感が横切った。
(この状況、どこかで……)
ダンタリアンの右手が闇夜にゆっくりと掲げられた。
「ゲーム・スタート!」
ダンタリアンが指を鳴らすと同時に、アンドロイドの大群が第十七学芸課のメンバー目がけて襲いかかってきた。それはまるで嵐で荒れ狂う海の大波のようだった。
その光景を見た瞬間、ハルは既視感の理由を思い出した。それはハルが一番触れたくない記憶だった。
ハルがまだユニオン軍の特殊部隊だった時、テロを繰り返していたダンタリアンのアジトに突入することになった。
無事に潜入したまでは良かったのだが、実はそれはダンタリアンの罠だった。迷路のように入り組んだアジトの中で、特殊部隊員たちは自動隔壁で道を塞がれてしまったのである。
逃げ場を無くした彼らに、ダンタリアンの大勢の手下たちは集中攻撃を浴びせた。それはまさしく銃弾の雨と呼ぶにふさわしいものだった。
今の状況は、まさしくそれに似ていた。多数を持って、少数を蹂躙する。それがダンタリアンのやり方だ。
(詰んだかもしれない)
どう考えても、この状況で学芸課のメンバーを一人で守ることなどできそうになかった。
しかし諦めかけたハルが目を閉じたその時、あの時に見た光景が瞼の裏に蘇った。
あの降り注ぐ銃弾の中、咄嗟に前に出ていった後ろ姿。その隊員は、真っ先に矢面に立って仲間達の盾になろうとしたのである。
ハルは引き留めようとして手を伸ばしながら、その名前を叫んだ。
「待つんだ、アネモネ!」
しかしハルの手が恋人に届くことはなく、彼女の体は薄暗い通路に転がった。
彼女の犠牲によってできた一瞬の間に、ハルは体勢を立て直し、右眼こそ失ったがその場から逃げおおせることができた。
その意味では、アネモネの選択は正しかった。しかしハルはそのことをずっと後悔していた。なぜ自分が率先して犠牲になろうとしなかったのかと、自分を責め続けてきた。
それからというもの、ハルはもはや自分を死んだものと思っていた。生きているという実感の無いまま、死に場所を求めて傭兵として戦地を彷徨った。あの輸送船で、ペトラと出会うまでは。
ミューズに来てからのハルは、いつの間にか死ぬ場所を求めることを忘れていた。そして自分がいるべき場所を見つけたような気がしていた。
同時に、それは儚い幻だろうということも、うっすらと理解していた。
それゆえにハルの心に迷いはなかった。
「皆さん、逃げてください! 俺が食い止めますから!」
護身用の拳銃を片手に握り締めたハルは、駿馬のように駆け出して、百鬼夜行のごとき大群の中へ突っ込んでいく。
「一人じゃ無理だ! 戻れ、ハル!」
ハルの後ろ姿へ向かってジムが叫んだが、ハルは振り向かなかった。
ハルの拳銃が火を吹く。近付いたアンドロイドには回し蹴りを食らわせてなぎ倒し、学芸課のメンバーを追いかけようとするアンドロイドがいれば、それに飛びかかって近距離から脳天へ鉛弾をお見舞いした。
「ジム、逃げるよ!」
イオンの手を引きながらココはジムに向かって叫んだ。
「でもハルが!」
「そんなこと私に言わせるな! 分かれ、バカ!」
ジムがココの顔をよく見ると、ガス灯に照らされた目元が真珠のように光っていた。ジムは躊躇いながらもココに従って、路地裏へと駆けていった。
三人が何とか無事に逃げていくのを見届けながら、ハルは必死に大群を足止めしていた。だが相手は疲れ知らずのアンドロイドである。この状態が長くは持たないことくらい、ハルには分かっていた。
その時ハルは頭の中で、先程の自己犠牲についての会話を思い出していた。
(働き蜂のように外敵と相討ちになってでも仲間を守ることができるのなら、それも一つの生き方なのかもしれない。
犠牲になることで俺は孤独から救われたのだ。
あの時のアネモネもこんな気持ちだったのだろうか)
そしてそろそろハルには限界が来ていた。疲れから反応速度が鈍ってきていた。アンドロイド一体ならまだしも、大群を相手にするのは不可能に近い。
そこで不意に、目の前のアンドロイドの背後から別のアンドロイドが飛びかかってきた。手に持った斧を今にも振り下ろそうとしている。
反応がワンテンポ遅れた。避けられない。
ハルは軌道に入らないように必死に身を捩ったが、斧はハルの右肩から脇腹にかけてを無慈悲に引き裂いた。
「グハッッッ!」
地獄の業火に焼かれるかのような痛みが走る。鮮血が噴き出し、石畳を紅く染めた。
しかしここで倒れる訳にはいかない。叫びたくなるのを堪えながら、距離をとって踏みとどまる。
(一体でも多くのアンドロイドを引きつけなければ)
ふと気付けば右腕の感覚は無くなっていた。朦朧としてきた意識を、なんとか気力で繋ぎ止める。
アンドロイド達は勝利を確信して、ハルを包囲しながらその輪をジリジリと狭めていく。
(ここで死ぬのか、ようやく)
覚悟を決めて目を閉じたその時だった。
「カッコつけてんじゃないよ、社会不適合者が!」
ハルが目を開けると、目の前のアンドロイドが吹き飛んでいくのが見えた。高く蹴り上げられた救世主の左脚は義足だった。
「ペトラか!」
ブロンドのポニーテールを揺らしながら、ペトラは別のアンドロイドも蹴り飛ばした。それからニヤリと悪巧みをするような笑みをハルに向けて、右手に握っているものをハルに見せた。
その一瞬でハルは察した。ハルが頷くや否や、ペトラはそれを地面に叩きつけた。
途端に辺りにはスモークが広がった。まるで夜霧のように街が包み込まれていく。分かるのはガス灯のぼんやりとした灯りと、うごめく多数の影だけだった。
煙が晴れる頃には、二人の姿は消えていた。残されたのは、石畳の上の大きな血溜まりだけだった。
誰もいない夜の路地裏を、血塗れのハルを抱えたペトラが走っていた。傷口からの流血は、服で無理やり縛ったことでだいぶ抑えられていたが、それもいつまでもつかは分からなかった。
「こっちだ、早く」
レンガ造りの塀の裏木戸から、小さな声でジムが手招きをしていた。そこは小さな教会だった。二人を中へ招き入れながらも、ジムはハルの容態が気になるようだった。
「意識は?」
「無い。さっき応急処置をしている時はあったんだけど、君達が隠れている場所を何度も私に教えて、そのまま意識を失ったみたい」
ペトラは礼拝堂の中へ入った。そばの椅子にはココとイオンが疲れきったように座り込んでいた。ペトラはその後ろに佇む人物へ視線を送った。
「涼、お願い」
「任された」
早速、朝倉はハルの治療に取り掛かった。持っていたバッグを開くと輸血パックを取り出し、手早く簡易キットでハルの右腕につなげた。
ココは、すぐに手伝えるように脇で見守りながら、ペトラに尋ねた。
「疑っている訳ではありませんが、あなた方は一体何者なのですか?」
「私は一度、あなたに会ったことがあるけれど」
「?」
「私はペトラ・ヨハンソン。ペトラって呼んで。でも怪盗ファイという名前の方が有名かな」
「えっ、あなたが……!? しかしだとしたら、なぜハルを助けたのですか?」
「私はハルとは知り合いでね。もっとも初めは私が怪盗ファイだとは気付いていなかったみたいだけど。学芸課で働き始めてしばらくしてから、彼は私の正体に気付いた。でも、それは隠してくれていたみたいね」
「そうだったとは知りませんでした。……では、私たちをここへ招き入れてくれた彼女は?」
ココは朝倉を指して尋ねた。
「”彼”は朝倉涼。元はアシビの兵隊さん。ハルに撃たれて死にかけたんだけど、女のアンドロイドに人格を転写したから、こうして生き延びることができた。それがこうして死にかけているハルを助けているんだから、人生分からないもんだね」
「僕にかつての記憶はありませんけどね」
朝倉は傷口の縫合に取りかかっていた。
「何はともあれ、まずは私からお二人に御礼を言わせて下さい。ペトラさんと涼さんがいなければ、私たちは間違いなく死んでいたでしょう。ありがとうございました」
「感謝するには気が早いよ。まだやるべきことは沢山あるんだから」
「そうですね。まずはここが見つかる前に早く脱出しないと」
「その必要なら無いよ」
「えっ?」
ココは気が動転しているせいもあって、ペトラの言葉が何を意味しているのか、よく分からなかった。
「涼がデータを書き換えたんだ。この教会がアンドロイドには何も無い空き地に見えるようにね。向こうから不審に思って調べない限りは見つからないよ」
「そんなことができるんですね」
「それよりも重要なことがある。あのアンドロイド達はウイルスで洗脳されているんだ。ダンタリアンに協力したミラー博士によってね。
でも涼はウイルスに対抗するワクチンを持ってる。これを洗脳されたアンドロイド達に注入すれば、無力化できるはず。
だけど私たちには、アンドロイドを制御するミューズのネットワークにはアクセスできない。あなた達ならできる?」
その言葉に口元をニヤけさせたココは、視線を冴えない三枚目に送った。
「出番だよ」
「人使い荒いなぁ、全く」
口ではそう言いながらも、ジムは既にセレーネを開いてアポロンのネットワークへ侵入を試みていた。
「ワクチンのデータを送りますね」
朝倉は手術に集中しつつ、片手で首元の小さな突起を摘んで、データ通信ケーブルを伸ばした。それを受け取ったジムがセレーネに繋ぐと、ワクチンのデータが送られてきた。
「こいつをバラ撒けってことね。……ふーん、バックドアを潰すのか」
ケーブルを抜いて朝倉に返しながら、ジムはワクチンプログラムのコードをざっと眺めた。それからネットワークを介して、この展示地区に所属しているアンドロイド全てにアクセスを試みた。
「やっぱ遮断されてる」
少し嬉しそうにジムは呟いた。まるで雑誌に載っているパズルでも解いているかのようだった。
「アクセスできないの?」
イオンが心配そうに覗き込む。
「もし自分があのダンタリアンって奴だったとしたら、僕だってそうするだろうね。なんか違和感があるんだけど」
と、その時、教会の扉を蹴破ってアンドロイドが飛び込んできた。場所を探知されてしまったのだ。
ジャック・ザ・リッパーのように血走った眼が、一番近くにいた無防備なイオンを捉える。アンドロイドの手に握られた大型のナイフの刃が、室内の灯りをキラリと反射した。
「きゃあっっっ!!」
パニックに陥ったイオンは、頭を抱えてその場にうずくまった。その背中へとナイフが突き立てられかけた。
だがしかし、次の瞬間にはアンドロイドは全身の力を失って、人形のようにその場に倒れ込んだ。
「た、助かった……」
ほっと胸を撫で下ろしたイオンに向かって、ジムは自慢げに笑みを送った。
「奴らが利用したバックドアの最大の特徴は、バックドアでありながら、それを無効化させる真のバックドアが他に存在しているということだよ」
「分かってたなら、もっと早く止めてよ! 驚いて損した」
「まぁまぁ、そう怒らないでよ」
意外なジムのファインプレーに、ココも興味を持ったようだった。
「なんでそんなこと知ってるの?」
「以前遊びでハッキングしていた時に気付いたんですよ。たまたまですが」
「ふぅん。じゃあさっき言ってた違和感って?」
「問題はそれです。このワクチンだけで動作を止められるということは、アンドロイド達は全ての行動をダンタリアンに制御されていて、あのダヴィンチみたいに自律的に動いているのではないということを意味しています。
でも自律行動型プログラムって、偉人を正確に再現するみたいなこだわりさえ捨ててしまえば、割と簡単に作れるんですよ。
つまりダンタリアンに協力しているミラー博士が自律行動型プログラムを作れないというのが不自然なんです。
アンドロイド達に自ら考えて行動させるようにすれば、制御の労力も省けるし、こうやって通信を切断されても停止しないで済むのに。単純に彼らが見落としてるだけなんですかね」
「ふーむ、どうだろうね」
ココは渋い顔をしながら腕組みをした。
「逆に言えば、これは『私が本気を出したらお前たちには止められないぞ』という意味にも取れるんじゃない?
だってダンタリアン達は、その簡単に作れる自律行動型のプログラムさえあれば、ミューズの全ての展示地区に兵士を大量に保有していることになるんだから」
「なるほど。……じゃあこれは前哨戦なのかもしれませんね」
「どういうこと?」
「ミラー博士の研究所の一件があったじゃないですか。あそこでデータをちょっと頂いたんですけど、その中の資料にはバックドアはあったけど、真のバックドアは載ってなかったんです。
そしてワクチンのコードは、バックドアを使えなくするだけのプログラムでした。
しかもミラー博士は通常の通信は遮断していましたが、真のバックドアには手付かずだった。
何が言いたいかというと、このワクチンの作成者は『ミラー博士が真のバックドアの存在を知らない』ということを知っているんです。まるでミラー博士がバックドアを悪用することを見越して泳がせていた、みたいな。
一方、ミラー博士は恐らく、自律行動型プログラムをあえて使わなかったんです。アンドロイドの洗脳実験に対して、どんな対策をされるか見極めるためのテストですね。自律行動型プログラムを駆逐するようなワクチンがもしあったら困るのかもしれません。
そして目的通りワクチンの情報を入手した。ところがワクチンは、バックドアを潰すだけのプログラムで、自律行動型プログラムへの対策は無かった」
「難しいことを言われても、よく分かんねー」
横で聞いていたイオンが愚痴った。
「分かりやすく言えば、ダンタリアンは本気のパンチをする前に、様子見でジャブをした。それの避け方を見て、本気のパンチを避けられないようにするはずだった。でも相手はそれがジャブと分かっていて、最小限の避け方しかしなかった。だからダンタリアンは、本気のパンチをした時にどう回避されるのかまでは分からない、ということです」
「私たちの知らない二人の戦いに、無関係な私たちが巻き込まれたってこと?」
「そうなるのかな」
「いや、そうとも限らない」
待ったをかけたのはココだった。
「先輩は何か知ってるんですか?」
ココはまだ意識が回復しないハルを見遣った。
「ハルは話したがっていなかったけど、彼は以前ユニオン軍の特殊部隊にいた時に、アネモネという名の恋人をダンタリアンに殺されているんだ」
「えぇっ!? そうだったんですか!?……まさか、あのハルに恋人がいたなんて」
「聞こえてますよ」
横たわっていたハルがゆっくりと目を開けて、皆の方へ顔を向けた。
「ハル! 大丈夫か?」
「体の方はなんとか。ジム先輩に言われた言葉の方がグサッときましたよ」
「すまん、すまん」
「でもなんでペトラがここに?」
「それよりもまず、ハルには一仕事してもらうよ」
「仕事?」
「クラブのジャックを探すんだろ?」
「あぁ、そういうことか」
ダンタリアンが提示したゲームの勝利条件である、クラブのジャックを持っているアンドロイドからカードを奪うこと。すでにアンドロイドは停止しているはずだが、バラバラに散らばった全てのアンドロイドを一つ一つ確認するのは骨の折れる作業である。それに、さらなる妨害があってもおかしくはない。
それならば、ハルの透視能力を使って先にどのアンドロイドが持っているのかを知っておく方が効率的だ。
「探さなくても分かるんじゃないの?」
唐突にそう言い出したのはイオンだった。
「どうして? 何か手がかりでもあるの?」
「まぁ、私の勘なんだけど、確かクラブのジャックの絵柄のモチーフはランスロットでしょ? ランスロットはアーサー王伝説に登場する、王妃との許されざる恋によって円卓の騎士を崩壊させた人物。だから、そういうことなんじゃないかと」
「ん? そういうことって言われても分からないが」
「いや、まぁ、だからさぁ」
言葉を濁すイオンを見て、ココは言いたいことを察したようだった。
「待って、イオンさん。あなたの言いたいことって飛躍しすぎじゃない?」
「あー、もうめんどくさい。ねぇ、ハル。単刀直入に聞くけれど、アネモネが亡くなった後、ダンタリアンのいた組織は崩壊したんじゃない?」
「……その通りだ」
「次。アネモネはダンタリアンに”殺された”の? それとも”自ら犠牲になった”の?」
「……それは後者だ」
「じゃあ決まりね」
しかしジムは納得がいっていないようだった。
「決まりって、何がだよ。要するに、アネモネはダンタリアン側からのスパイだったけれど、ハルとの不義の恋によって組織を裏切った。仲間を助けるために彼女は自ら犠牲となったってこと? 話としてはよくできているけれど、かといってクラブのジャックを持っているのがどのアンドロイドかは分からないだろ?」
ココは目を閉じたまま、諭すような声で言った。
「犠牲になったアンドロイドは、あの生贄になった少女のアンドロイド、ただ一人。その周りを他のアンドロイド達は祭りのように踊っていた。
つまり、あれはただの宗教儀式ではなく、ダンタリアンを裏切った人物が自ら犠牲になったことを皮肉るものだった、という訳さ」
「……初めからハルをバカにするつもりだったってことかよ」
もうジムの口から反論が出ることはなかった。それを見て、ペトラが腰を上げた。
「じゃ、悪魔退治といきますか」
再びあの通りへ戻ってきた。先程までは多くのアンドロイドでぎゅうぎゅう詰めになっていたが、今はガランとしていて道幅が広くなったようだった。
やがて石畳に広がる血飛沫の向こうに、朽ち果てた人形のようなそれが見えてきた。胸の部分はくり抜かれたまま、闇の静けさの中に溶け込んでいた。
「ある」
ジムに支えられながら歩いていたハルが呟いた。もうハルには、そのポケットの中にあるランスロットが”視えた”のだ。
「しかし不思議だな。なぜダンタリアンはハルを狙ってこんなことをしたんだ? アネモネが組織を裏切ったことが、よほど気に入らなかったんだろうか」
独り言のようにジムは呟いた。ハルも同じことを考えていたが、ハルにもその理由は分からなかった。
少女のアンドロイドのところに辿り着いたところで、ジムはココに目配せをした。ハルは傷を負っているし、ジムはハルを支えている。残る学芸課の人間はココしかいなかった。
「どこ?」
ココはしゃがみながら、セレーネのライトを起動させた。しかしアンドロイドを照らすだけで、手を伸ばそうとはしなかった。むしろ少し距離をとっているように見える。やはり少し恐怖感はあるようだった。
「ズボンの右ポケットの中に」
ハルの言葉にしたがって、ココはアンドロイドのズボンのポケットに恐る恐る右手を差し込んだ。しかしその指先に当たるはずの感覚がない。
「もっと奥?」
ココがハルの顔を見遣ると、ハルはポーカーフェイスを気取りながらも笑いをこらえていた。
「騙したな、コイツ」
「ハッハッハッ、すみません。見ていて面白かったので、つい」
「で、本当はどこ?」
「胸ポケットの中です」
「今度も嘘だったら今月の給料は全カットだからね」
ココは愚痴りながら右手をゆっくりと伸ばし、どうにか胸ポケットからクラブのジャックのカードを抜き出した。絵柄を確認しながら、ココは呟く。
「なんだか泥棒みたいで嫌ね」
「そう? やってみると意外と楽しくない?」
ペトラはあっけらかんとしていたが、ココは眉をひそめて否定の意思を示した。
「カードは見つかったかね、君達」
ダンタリアンの声が、遠くから聞こえてきた。その声がした方をみれば、ダンタリアンの影が夜の街に伸びていた。黒衣をまとっており、その表情はフードで隠されている。
「これで私たちの勝ちね」
ココは毅然と言い放ったが、ダンタリアンはそれを一笑に付した。
「君達にしてはよく頑張ったと褒めて進ぜよう。だが詰めが甘かった」
「?」
「よくカードを見てみるといい」
もう一度カードを覗き込むと、描かれたジャックの顔がゆっくりと変形していき、やがてそれは道化師の顔になった。文字もいつの間にかジョーカーに変わっていた。
「ジョーカーをジャックと見間違えるとは実に惜しい。そして、もう零時を過ぎたようだ」
「おいおい、こんなのフェアじゃないだろ」
ジムの怒りの声も、ダンタリアンは意に介していないようだった。
「私は初めに言ったはずだよ。『ゲームのルールは初めからある訳ではない』とね」
ダンタリアンは懐から本物のクラブのジャックを取り出し、ハルに見せつけた。
「元からその気だったというわけか」
「透視のできるという君よ。全てを見通せたとしても、全てが見える訳ではないのだよ。今まさに君には私のことが見えていないのと同じようにな」
「いいだろう。面白い。そのケンカ、買ってやる」
ハルはダンタリアンを透視し始めた。その黒衣の下に隠されたものを、隅から隅まで逃さずに捉えた。
しかし発見したある事実に対して、ハルは実際のところ困惑していた。
恐らくはその事実が、ダンタリアンの言っていたハルには見えていないものなのだろう。しかしどう考えれば良いのか、全く見当がつかなかった。
「機械の体、人工ニューロン、そして生身の脳。義体化して生き延びていたとは風の噂で聞いたことがある。だが、なぜお前の体には無数の銃弾が入っている?」
「疑問で返されるとは思わなんだ。私はむしろ君が納得してくれると思ったがね」
「俺が、納得?」
「これは、君の命を奪うかもしれなかった銃弾だよ」
その言葉に、ハルの瞳孔が大きく開いた。ハルの脳裏には、銃撃を全身で受け止めているアネモネの後ろ姿が鮮明に映し出されていた。
「……!? そんな、まさか……お前はアネモネなのか?」
「久しぶりだね、ハル」
ダンタリアンの声が、さっきまでの死神のような声から、女性のものに変わった。
「なぜだ。なぜアネモネが、こんなことを」
「私がダンタリアンなんだから仕方ないじゃない? たまたまユニオン軍に潜入していた私と出会った自分を呪いなさい」
「あの時、どうして俺を助けた?」
「助けた訳じゃない。死んだふりをすれば楽に別れられるでしょ?」
「なら、なぜサイボーグの身体になってる? なぜ銃弾の跡を身体に残している? なぜ生きていることを俺に明かした?」
「……」
ハルの問いに、アネモネは答えようとしなかった。しばらくの沈黙が流れた。
「最初で最後の忠告よ。私の仲間になりなさい」
「……どうしてそうなる?」
「私の計画は、もうあなた達に止められない段階にまで来た。これ以上私に歯向かうなら、それは無駄死にを意味することになる」
「アネモネの望みは何だ?」
「私はユニオン軍に家族を殺されたんだ。だからユニオンなんていう国家の集合体に従うつもりはない。私の居場所は私が作る。
そのためなら私は何だってする。私の協力者は、私のことを”復活した神の子”なんて茶化して呼ぶけれど、それで協力者が得られるのなら私は象徴になることも厭わない。
私の居場所は、ここにある」
アネモネの固い意思を目の前にしたハルは、天を仰いだ。頭上には夜の闇が広がっていた。その向こうでは星々が瞬いている。
広大な宇宙の前では、自分はちっぽけな存在だった。
ゆっくりと夜の冷えた空気を肺に入れて、そして吐き出した。
「俺がミューズの学芸員になったのは、ダンタリアンがミューズでまだ生きていると聞いたからだ。アネモネの仇を取りたかった。
でも蓋を開けてみれば、ダンタリアンはアネモネだった。アネモネは死んでなかった。だから俺にはダンタリアンを殺す理由が無くなった」
「じゃあ、一緒に来てくれるのね?」
興奮気味のアネモネの言葉に、ハルは首を横に振った。
「ペトラは、フラフラしていてどうしようもない奴だけど、その鋭い感性は尊敬している。死にかけた俺を助けに来てくれた優しさも持っている。
朝倉は、かつて俺に殺されかけたのに、こうして治療をしてくれた命の恩人だ。この恩は、いつか必ず返す。
イオンは、妹思いの姉だが、その妹を取り戻せなかったのは俺の責任だ。次は必ず姉妹で一緒にいてあげられるようにしたい。
ジム先輩は、いじり甲斐のある貴重な先輩だ。
ココ先輩は、学芸課の頭脳として俺たちを引っ張ってくれる頼れる人だ。
このミューズに来ることで、俺は色々な人達に出会い、色々なものを貰った。でもそれを返せたとは思っていない。だから裏切るわけにはいかない。それが俺の正義だ。
この世の中に、絶対的な正義なんて無い。正義は人それぞれにあるからだ。
だからこそ自分の正義が何なのか、分からなくなる。間違った正義をかざして失敗することが怖くてたまらない。
それでも俺は、俺の正義を俺の言葉で語りたい。
誰もが自分の正義をふりかざすことで歴史は紡がれる。その歴史を、人は自分の正義を通して見る。
だったら俺の正義が間違っているかどうかも、他人が判断することだ。
俺には、俺の正義を言葉にすることしかできない。
自分が失敗してないか心配するのは、宇宙の片隅にほんの少しの居場所を作ってからでも遅くはないはずだ」
静かに語るハルの顔を、アネモネは悲しげに見つめていた。
「そう。なら次に会った時は、どちらかが死ぬ時ね」
「あぁ。必ず生きて会おう」
「ハルも死なないでね」
そう言い残して、アネモネは夜霧の中に姿を消した。
街は夜の静けさを取り戻していた。そこを一迅の冷たい風が吹き抜けた。その不穏さは、朝になる前に嵐がやって来ることを予感させた。
お読み頂きありがとうございました。
今回は怒涛の展開となりました。
急転に次ぐ急転。
同時に、着々と伏線を回収しております。
今回は重い展開でしかも長いので、ところどころに軽い感じを入れるように心がけました。
特にココがカードをビクビクしながら取る場面は気に入ってます。どっちかというと常人離れした描写が多いキャラなので。
あと最後の別れのセリフは、初めは「死ぬなよ」「それはこっちのセリフだ」的な感じにしようかと思ったのですが、違和感があったんですよね。
それより、敵対していてもお互いに思いやりはある、みたいな感じにしたかったので、こうしてみました。
ちなみに作中では説明を省いたのですが、朝倉が治療しているのは、アンドロイドだから医療知識が備わっているという設定です。
タイトルの元ネタは「東京は夜の七時」から。なお世代は違う模様。リオの閉会式の東京五輪PRで使われてたので知りました。
それから歴史要素が少ないこともあって、代わりにちょこちょこ宗教要素を差し込んでます。
「世界は言語で語ることなどできない」というフレーズは、仏教の空思想やウィトゲンシュタインを下敷きにしています。
「復活した神の子」は、そのままキリスト教関連ですね。そう言えば、第二章あたりでもキリスト教関連のことがあったような……。
さて、次回は「桜の樹の蕾の下(仮題)」。場面は変わって、小石川と藤堂のお話になります。歴史要素無いなぁ、どうしよう……。
それでは次回もよろしくお願いいたします。
葦沢
2017/11/12 初稿