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Episode 2: 2818年2月 Old Maid

 日常とは穏やかに流れる雲のようなものだ。


 ずっとそこにあるように見えても、いずれは形を変え、そして消える。


 日常を守りたいのなら、新たに日常を作り続けなければならない。


 日常を壊すのは、雲の写真を眺めて悦に浸っている怠惰という悪魔である。




 世界では信じられない現象が起きることがある。意味のない落書きと呼ばれた奇書が解読されることもあれば、解読されたという事実が忘却されて奇書だけが残り、再び意味のない落書きに戻ることもある。


 学芸員都市シトロンシティの東部、集合住宅の密集する地区に立つマンションの一室においても、信じられない現象が起きていた。


 コロニーに朝を告げる人工太陽が昇る頃、一人の女がベッドから起き出した。おぼつかない足取りで洗顔と歯磨きを済ませると、手早く着替えてキッチンに立った。油をひいたフライパンを火にかけると、卵を割ってその中身をフライパンの上へ落とす。たちまち油の弾ける音が上がり、透明な白身が濁っていくのを見届けながら蓋を閉める。それから食パンを一枚トースターにセット。新鮮なキャベツを千切りにして皿に盛り付け、そこにミニトマトを添える。コップにオレンジジュースを注ぎ終わったところで、焼きあがったトーストがジャンブする。そうしたらフライパンの蓋を開けて、目玉焼きをフライ返しで皿に乗せる。


「涼ー! 朝ごはんの時間だよー!」


 その声で自室から出てきた普段着の朝倉が、リビングの椅子に腰掛ける。ペトラは充電器をプラグに差し込んで、片側に伸びる端子を”彼女”に手渡す。それを朝倉は自らのプラグに差し込み、”朝食”を摂り始めた。


 向かいに座ったペトラは、トースターから取り出したトーストにジャムを薄く塗って頬張った。


「ペトラはいつも美味しそうに食べますよね」


「別に。普通よ、普通」


 照れ隠しにオレンジジュースを口に含むペトラを眺めながら、充電中の朝倉は微笑んでいた。


 どうしてあの寝坊上等のペトラがこんなにも早起きをして自ら朝食を作るようになったのか。その理由はアンドロイドになってしまった朝倉に、せめて人間らしい生活を送らせたいと決意したからだった。


 ライムシティでのリリィ侵入事件の後、アンドロイド化された朝倉は、しばらくミラー博士の隠れ家で入院していた。経過は良好で、無事に退院した朝倉だったが、タイガーは復帰を急がせなかった。蜂起したアシビを巡る情勢は緊迫しており、コロニー間を移動する人や物は厳重な監視の目をくぐらなければならない。即座に合流する必要性も無かったことから、朝倉とペトラには「静養せよ」との命令が下された。そこで二人は、学芸員都市の一つであるシトロンシティに身を隠すことになった。


 偶然から朝倉と共同生活をすることになったペトラだったが、それは片思いの相手との夢のような生活とはかけ離れたものだった。何しろ彼は記憶を無くしているばかりか、体は女アンドロイドになっている。ペトラは、もはや別人と割り切って接するように努めていた。


 それよりも問題だったのは、アンドロイドの体の人間との違いだった。例えば、食事は充電するだけで済んでしまう。もはや食欲という概念が無いのである。もはや食べることのできない朝倉の目の前で食事をするのはむごい気もするが、朝倉にとっては他人が歩いているのを見ているのと同じだった。


 ペトラを驚かせたのはそれだけではない。


 共同生活から数日が経ったある日のことである。朝と呼ぶには遅い時間に起き出してきたペトラは、朝倉の作ってくれた朝食を食べながら――まだこの時は朝倉がペトラの朝食を作っていた――昨晩に見た夢の話を始めた。


「夜に夢を見たんだ。女子トイレにいたら涼が入ってきて、でも体が男のままなの。それでビックリして男子トイレに無理やり押し込んだら、そこで目が覚めたんだ」


「面白い夢ですね。僕も夢を見てみたいです」


「アンドロイドは夢を見ないの? 電気羊の夢とか」


「いえ、そもそも睡眠の必要が無いのです。だから夢も見ません」


「えっ!? じゃあ今までずっと夜中は起きてたの?」


「そうですね。窓辺に座って夜の静けさに耳を傾けながら、物思いに耽っています。あとはどんな朝ごはんを作ってあげよかな、とか」


 それを聞いて愕然としたペトラは、翌日から朝倉をより人間らしく生活させることにしたのである。夜には眠らなくとも必ずベッドに入ることを約束させ、朝食も「自分で食べるものだから」と自分で作るようになった。そして朝食の時間には朝倉も充電をすることで、せめて朝食を食べている雰囲気を味わえるようにした。


 それが人間らしい生活になっているかはペトラも自信が無かったが、彼女の記憶が無い以上、人間らしい生活の記憶を作ってやることは大切なことだと感じていた。




 奇妙な生活にも慣れてきたこの日、朝食を食べていた二人の部屋のドアベルを鳴らす人物がいた。


「この時間にお客さんなんて珍しい」


 ペトラが警戒しながらインターフォンの映像を見ると、中年の紳士と小さな少年が外に立っていた。オールバックの髪の紳士は黒のスーツに身を包み、これから出勤するところという雰囲気だった。一方、少年は紳士と手を繋ぎながら、じっとしていられずにそわそわしている。


 インターフォン越しにペトラは応対した。


「どなた様でしょうか?」


「すみません、隣の隣に住んでいるゴードン・ナイトと申します。今日、急に保育園がお休みになってしまったのですが、私は外せない仕事がありまして、あいにく妻もだいぶ昔に出て行ったきりなものですから、どうか今日一日、この子の面倒を見て頂く訳にはいきませんでしょうか?」


「あらあら。それは大変ですね。分かりました、よろしければお預かりしますよ」


「ありがとうございます。助かります」


 ペトラは玄関の電子ロックを開けて少年を招き入れた。少年は新しい遊び場でも見つけたみたいに無邪気に笑っていたが、父親は恐縮しきりだった。


「いいか、デイビッド。いい子にしてるんだぞ」


「はーい」


「きっといい子にしてますよ。さ、早くお仕事へ向かわれて下さい」


「この御礼は、いずれ必ず。それでは失礼致します」


 足早に去っていく紳士の後ろ姿を見送ってから、ペトラは玄関を閉めた。それから少年の手を取ろうとしたが、それを少年は振り払って部屋の中へと勝手に走っていった。


「わーっ、もう一人お姉ちゃんがいるー!」


 椅子に座りながら充電コードを外していた朝倉に、デイビッドは抱きついた。


「あらあら、こんにちは。お名前は?」


「僕、デイビッド。お姉ちゃんは?」


「僕はレンピカ。よろしくね」


 逃亡生活をしている以上、本名を名乗る訳にもいかず、朝倉は偽名を使っていた。


「変な名前。まあ女の子っぽいけどね」


「ちょっと、そろそろレンピカから離れてあげなさい。動けないでしょ?」


「……誰?」


「誰って、さっきあなたを部屋の中に入れてあげたでしょ?」


「名前聞いてないしー」


 少年は足をバタバタさせて、抵抗の意思を示した。


「あなたねぇ……私はエリザ。ほら、教えたでしょ。早く離れなさいな」


「別にいーじゃん。動かなければ」


「どうやら僕になついちゃったみたいだね」


 まるで猫を扱うようにに、朝倉はデイビッドの頭を撫でてやった。


 自分には見向きもされないことに少し嫉妬したペトラは、一計を案じた。


「よーし。じゃあお姉さんとトランプしましょう?」


「えー、ダサい。ゲームがいい」


「コイツっ!」


「まあまあ、僕はトランプやりたいなぁ」


「じゃあ僕もやるー」


 朝倉に言われると、デイビッドはすんなり受け入れて、空いた椅子に座った。


「何やんの?」


「ババ抜きはどう? ルール知ってるでしょ?」


「ププッ。ババァ抜きとか」


 デイビッドはペトラを横目で見遣りながら口元を緩ませた。


「なんか言ったかな、少年?」


 ペトラは目から威圧感を放ちながら、デイビッドに優しく問いかけた。


「は、早くやろうよ、”お姉ちゃん”」


「よろしい」


 溜飲りゅういんを下げたペトラは、手早くトランプを切ってカードを配った。


 ペトラが自分の手札を確認すると、その一瞬の表情を見ていたデイビッドがニヤリと笑った。


「どうしたのかな? 何か言いたいようだけど」


「僕からでいいよねー」


 デイビッドはペトラの言葉をあえて無視して、ペトラの手札から一枚引いた。


「わーい、一枚捨てられるぞー」


「チッ」


 ニヤニヤしているデイビッドを、ペトラは悔しそうな目で眺めることしかできなかった。言うまでもないことだが、ジョーカーはペトラの手札にあったのである。仮面でもなければ、ペトラが演技をするのは難しいだろう。


 ペトラはムスッとしながら朝倉の手札を引く。


「遊びなんだから、そんなにムキにならなくてもいいでしょ、エリザ」


「いいよね、自分はジョーカーを引かないから。ほら、レンピカの番。好きなのを自由に取れるのも今のうちよ」


 すると不意にデイビッドが口を開いた。


「ねぇ、『自由』ってなーに?」


「『自由』? そんなことも知らないの? それはね、何事にも縛られないってことさ」


「でも、レンピカお姉ちゃんは僕のカードから選ばなきゃいけないっていうルールに縛られてるから、自由ではないんじゃないの?」


「まあ、それはそうだけど」


「それに本当に自由なら、もうジョーカーを引いたって負けじゃないし、トランプじゃなくてチェスの駒を手札にしてもいいんだよね? ババ抜きっていうゲームすら成り立たないんじゃない?」


「ヘリクツばっかり覚えちゃって。ませてるねぇ」


「でもさ、それが本当の『自由』なんじゃないの? 違うのなら教えてよ」


「ま、どうでもいいでしょ。ほら、早く引きなさいよ、レンピカ」


 口ではそう言いながらも、ペトラは自由という言葉の示す意味について思考を巡らせていた。


 ペトラは自分のことを自由な人間だと思っていた。自由を愛するからこそ、気ままに旅をして詩を書いてきた。そして自由な歴史を束縛するアポロンが生まれると、それを消し去るためにミューズへとやってきた。何事にも縛られずに生きてきたという自負が、ペトラにはあった。


 だが少年の言葉を聞いて、それが本当に自由と呼んでいいものかという疑問が湧いてきたのだった。


 真に自由な人間であれば、創作の形式を詩にこだわる必要性は全く無かった。小説でも、絵でも、音楽でもいいはずだった。無意識のうちに、自分は詩を書く人間なのだという固定観念があった。


 それにアポロンに対する抵抗運動として、アシビと組んで怪盗ファイを演じた。しかしアシビの本来の目的は旧日本の復活であり、全く目的が同じという訳ではない。支援してもらう交換条件として、彼らの欲する旧日本の遺物を盗むこともあった。自由のための反逆のはずが、いつの間にか別の権力を支持する結果になっていた。


 これまでの生き方も、結局は誰かが作ったルールがあって、それに従って生きてきただけなのかもしれない。そう考えると、ペトラは自分の存在意義の希薄さが怖くなるのだった。


 その時、ペトラの所持している通信端末に着信があった。アシビが仲間内で利用している専用端末で、「ホタルビ」と呼ばれている。


「ちょっと失礼」


 会話を聞かれないよう、ペトラは自分の個室へ入ると、閉じたドアにそのまま寄りかかった。


「もしもし。トウドウ?」


「久しぶりだな。調子はどうだ?」


「ガキにババァ呼ばわりされたわ」


「ハッハッハッ! 元気そうで何より。朝倉は?」


「相変わらずね。初めから女だったんじゃないかってくらい馴染んでる」


「まだ筆マメなのか?」


「そう言えば、まだ手帳にメモしてるのは見たことないわね。アンドロイドになったから、記憶力はだいぶ改善されたんじゃない?」


「確かにそうかもな」


「で、何の用事?」


「あぁ、十六夜作戦のことなんだが」


 十六夜作戦とは、蜂起したアシビが手頃な展示地区コロニーを一つ占拠するというものだった。現在、母艦である村雨は、ミューズ防衛軍とにらみ合いを続けたまま膠着こうちゃく状態になっている。これを逆に利用して、村雨に注意が向いている間に、夜間に小型の飛行艦艇を使って少数の部隊を移動させ、離れた場所にあるコロニーに奇襲をかけるのである。


 実はペトラと朝倉は、その作戦に参加させてもらえないかと水面下で打診していた。今の生活に不自由は無い。しかしアシビが蜂起したこのタイミングは、アポロンを消し去るという目的を果たす好機だとペトラは考えていた。そこで密かに藤堂に依頼していたのである。


「あれな、ポシャったから」


「そうなんだ……って、えええっ!? なんで? トラも乗り気だったんじゃないの?」


「それがスウィフト嬢の進言があってから、風向きがクルッと変わっちまってなぁ」


「進言?」


「会議の席で、争いで血を流すのではなく、外交的努力で問題を解決するべきだって啖呵を切ったんだ。そのために自分がここにいるのだとまくし立てて、タイガーにどっちをとるかと迫った」


「タイガーが争いではなく平和的解決を望んだというの……」


「実のところ、俺もスウィフト嬢の案に賛成の立場だ」


「えっ?」


「俺達は人殺しがしたいわけじゃない。国を取り戻したいだけだ。目的が達成できるならば、手段は問わない。そして俺達が望むのは、平和な国、日本だ。その平和を作るために、多くの血が流れるのは本意ではない」


 正直、ペトラは信じられなかった。タイガーも、武官である藤堂さえも戦いを避けた。飛行戦艦・村雨なんてものまで造って、国の復活をかけた戦いのために周到に準備してきたのに、こんなところで翻意ほんいできるものだろうか。


 ペトラは、人質となったソニアと会った時のことを思い出していた。柔和で差別をしない性格。会ってすぐに打ち解けることができた。しかし思い返してみると、相手の心の中に静かに染み込んでくるような怖さも感じられた。今になって、あれがソニア本人も自覚していない天性の武器であるということに、ペトラは気付いた。


 とすると、タイガーや他の人達もソニアにほだされた、と考えるのが正しいと、ペトラは結論づけた。


「そもそもスウィフト嬢は人質でしょう? ミューズの人間に方針変えさせられちゃダメじゃない」


「いや、今はもう参謀総長のポストが与えられている。アシビの人間だよ」


 藤堂のその言葉に、ペトラはアシビとの修復し難い溝ができたことを理解した。


「そう。まあ、いいわ。ひとまず作戦が中止したということは了解しました」


「すまんな。朝倉にもよろしく伝えておいてくれ。それじゃ」


 通話を切ったペトラは、薄暗い部屋の中をおもむろに見回し、その空虚を埋めるように深い溜息をついた。


 結局、自由な世界なんて間違った理想だったのだろうか。


 人工知能に歴史を強制された世界が、正しいのだろうか。


 辻風に揺らぐ蝋燭の灯火のように、ペトラの情熱は消えようとしていた。諦めという断頭台の刃が次の獲物を目の前にして涎を垂らしているのが、ペトラには分かっていた。だからこそ、消えそうな炎をどうしようもできないことが悔しかった。

お読み頂きありがとうございました。


多忙のため更新が遅くなり、申し訳ありませんでした。


連休の間に急いで書いてたら長くなってしまったので、分割して次回更新分に分けました。


ズルいですが、まだ忙しい日が続くので何卒お許しを。


葦沢


2017/09/19 初稿

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