Episode 1: 2818年1月 マッド・サイエンティスト
生き物は、体内時計を持っている。
しかし人間のそれは、二十四時間よりも長い。
時計の針を現実に合わせるためには、太陽の光が必要だ。
逆に洞窟の中で暮らす人間は体内時計の針が狂っていく。
外的世界との交流の遮断によって、人間は内的世界へと潜り込んでいく。
内的世界で得られるものは、本来の人間らしさではない。
純然たる狂気である。
ペトラがミラー博士の元を訪れたのは、アシビが地下コロニーとして隠していた超弩級戦艦「村雨」を起動し、旧日本国の復権を求める蜂起を起こしてから数日後のことだった。ライムシティの一角にひっそりと立つレンガ造りの建物の扉の前で、ペトラは呼び鈴を押した。
玄関の扉が半分開き、額から頭頂までの髪を失った中年の博士が顔を出した。痩せて骨ばった体つきは、断食中の仏教徒のようであった。
「例の件だね?」
ミラー博士がそう尋ねると、ペトラは小さく頷き、背後に控えていた数人のアシビの構成員に指示を出した。彼らは路肩に停めたフロート・カーから担架に乗った一人の人物の体を運び出した。
その人物の腕には何本ものチューブが刺さっていた。人工呼吸器のマスクの下で、かすかに呼吸音が聞こえる。しかし右手ではしっかりと愛用の手帳を握っていた。朝倉の魂は、今にも消えそうなろうそくの灯火のようだった。
客間へと通されたペトラは、ミラー博士にソファへ座るように促された。ペトラに続いて腰掛けたミラー博士は、パイプを口に咥えながら話を始めた。
「君が代理人か。被験者のことについては説明を聞いているね?」
「はい。サインした書類もこちらに」
ペトラは鞄から封筒に入れた書類を取り出す。
「あぁ、その辺に置いといてくれ。どうせ中身なんざ見ないんだ。後で騒がれた時に困らないように、という保険でね」
それからミラー博士は「そうそう」と言って付け足した。
「被験者は記憶を無くすとは書いてあるけど、社会生活の記憶はそのままだから安心してくれ」
「というと?」
納得していない様子のペトラに、ミラー博士は机の上の万年筆を握った。
「手術後、被験者はこれが万年筆であることも覚えているし、文字を書くこともできる。だが誰から貰った万年筆なのかは覚えていない。それだけのことさ。生きるために必要なことは、ちゃんと覚えている」
「なるほど。そうですか」
それはペトラにとっては意味のない情報だった。短い間だったが、朝倉とともに過ごした日々はペトラの網膜に鮮明に焼き付いていた。どこかへ遊びに行った楽しい思い出がある訳ではなく、ただともに日常を過ごしていただけだった。
しかし目を覚ました朝倉との最初の会話が「久しぶり」ではなく「初めまして」であることを考えるだけで、ペトラの心は重い鎖で何重にも縛られたように痛むのだった。
そこにドアをノックする者がいた。
「どうぞ」
ミラー博士の声とともにドアが開いた。二人のSPとともに、スーツに身を包んだスキンヘッドの男が現れた。スミルノフ商会会長、ユリウス・スミルノフである。
「やぁ、タイガーはいないのかい?」
無表情のまま、スミルノフはペトラに尋ねた。
「えぇ。忙しくしております」
「しかし面白いことをやったものだ。お世辞ではなく、本当にタイガーを尊敬しているよ。あれは夢物語を現実にする男だ。君も部下として彼を支えてやりなさい」
いつもの物静かな口調だったが、その声にはどこか熱を帯びたものがあった。
「今度会ったら、タイガーによろしく言っておいてくれ。それでは」
足早に過ぎ去るスミルノフが部屋を出ていくのをペトラは見送った。
実は朝倉の治療に困っていたアシビにミラー博士を紹介したのは、スミルノフだった。少し前までは牽制し合う勢力だったはずだが、どうやら事情は変わったらしい。タイガーと彼との間で何かやり取りがあったのだろう。
少なくとも、アシビの蜂起をスミルノフ商会は好意的に受け止めているのは間違いなかった。もっとも武器をアシビとミューズ双方に売りつけることができるから、というのが本音なのかもしれないが。
部屋の中に張った緊張をほぐすように、ミラー博士はパイプの煙をゆっくり吐き出した。ペトラはふと彼の腕時計に目を留めた。文字盤の丸いシルバーの時計で年季が入っているように見えるが、ペトラはそんなことは気にしていなかった。実はその腕時計は、ある時刻で止まっていたのである。
指摘しようかとも思ったが意図的のようにも思えて言い出せず、結局ミラー博士が先に口を開いた。
「私も、あの男とは長い付き合いでね」
「どのくらい前からなのですか?」
「あの男が会社を立ち上げた当時からかな。まだ私もあの男も髪があった頃だ」
反応の仕方が分からず、ペトラは苦笑いで答えた。博士は一旦パイプを咥えて間を空けた。
「手術は午後から始めるよ。なに、すぐに終わるさ。術後しばらくはここで入院になるがね。終わったらまた来ると良い。連絡するよ」
「よろしくお願いします」
ペトラが立ち上がって部屋から出る間際、ミラー博士は「そうそう」と言って呼び止めた。
「君の左脚、そろそろメンテをした方が良いよ。オイルが足りていない」
その言葉にペトラは目を丸くした。
「お気付きだったんですか?」
「当たり前だろ。私を誰だと思っている。かのサザンクロス社第二研究所・元所長、クレイグ・ミラー博士だよ?」
ニタリと笑った博士は、再びパイプを咥えた。パイプの煙で、部屋の中は白い靄がかかったようになっていた。ソファにもたれかかったミラー博士は、まるで高地に住む仙人のように、去っていくペトラに手を振っていた。
その日の午後、第十七学芸課のメンバー達は、オフィスに居た。目的は、無い。仕事をするのでもなければ、何かまた画策をしようというのでもない。ただただ純粋に、彼らは暇だった。
「ヒマだ……」
年長者であるはずのココでさえ机に伏せて時間を持て余している。
「なんでヒマなんだ……」
「教えて差し上げましょうか?」
気だるそうに椅子に腰掛けたジムが、携帯用デバイス「セレーネ」でテトリスをしながら理由を指折り数えていった。
「一つ目。拉致事件の捜査権限が評議会に移ったにも関わらず、独断で潜入してしまったこと。
二つ目。その独自作戦によりにもよってユニオン軍のリリィ・ノイマン少佐の部隊が関与していたこと。
三つ目。しかも作戦は失敗したこと。
四つ目。今回の蜂起を受けてミューズ全域で生放送されたアシビの首領、藤田虎次郎の演説において、彼の後ろでソニアが控えている映像が終始流れてしまったこと」
「ついでに、『ミューズに反旗を翻した組織にミューズ評議会議長の娘が加担しているという噂が爆発的に広がったこと』も追加しておいて」
完全にやる気を削がれた声で、ココは返答した。
ソニアが政治的に利用されるという事態を、彼らも想定していない訳ではなかった。評議会は「拉致されたソニアが強制的に参加させられたのだ」という主張をメディアで展開したが、それを信じる市民は少なかった。
こうした事情を受けて、第十七学芸課のメンバーはオフィスで待機する苦行を味わうことになったのである。もはや自宅待機をさせておくと何をするか分からないと思ったのか、評議会はオフィスの外に監視用の人員まで配置していた。
だがこの状況下で最も苦痛を感じているのは、ココでもジムでもハルでもない。せっかく仲直りした妹と離れ離れになってしまった、イオン・スウィフトである。
彼女は今回の事件の被害者だが、第十七学芸課と少なからず関わりがあるという理由で、一緒に軟禁状態になっていた。慣れない場所で慣れない人とともに長時間を過ごすことによる疲れと、妹がアシビへ行くことを選んだという事実が、イオンの心と身体に重くのしかかっていた。
なぜこんな無謀なことをしたのだろうか? 姉である自分がもう少ししっかりしていれば、もっと早く歩み寄っていれば、こんなことにはならなかったのではないか? 後悔ばかりが絶えず心から湧き出し、頭の中を埋めていくのだった。
そんなイオンの様子に第十七学芸課のメンバーが気付いていない訳ではなかった。だが彼らも大きく心にダメージを受けて気落ちしており、余裕が無かったのである。
それでも重い空気を何とかしようと、ハルが口を開いた。
「そう言えばジム先輩。前にアンドロイドのタグが操作されてる事件があったじゃないですか?」
「あぁ、そんなこともあったな」
「そうやってタグを偽装してる人物を追いかけたら、アシビのメンバーを捕まえられたりできるんじゃないですか?」
「えー? 各コロニー間の人と物の流れは膨大な量なんだよ? 海の水の中から川の水を探し出すようなもんだぜ?」
「それもそうですね」
今にも消えてしまいそうな声で答えるハルに、ココが机に突っ伏したまま声をかけた。
「海の水のほとんどは、元は川の水だよ。二人ともしっかりしなよ」
もはやココの指摘に対する返答も無かった。
だがその会話にならない会話に光が差し込むように、イオンが口を挟んだ。
「それって、アシビが確実にいた場所で探しちゃダメなの? 例えば十九世紀の広東展示地区とか」
十九世紀、広東展示地区。それは昨年のクリスマスに第十七学芸課がイオンと出会った初めての場所であり、藤田虎次郎たちがソニアとイオンを拉致した展示地区である。
ジムはテトリスのアプリを閉じると、手早くセレーネでアポロンへの潜入を始めた。
「確かに場所を限定すれば母数は減るけど、そんなにうまくいくもんかなぁ」
否定的な言葉が口から漏れるものの、ジムは深い青に染まった海の中に手を浸すように、仮想キーボードを忙しなく叩いていた。海中を漂うかすかな手がかりを探すように、指先がタップダンスを踊る。
「ビンゴ」
仮想ディスプレイに一つのIDが映し出された。さっきまでゾンビのようだった面々が、今や船を見つけた漂流者のようにそれを覗き込んでいる。
「これを辿ると……」
ディスプレイに映し出された惑星ミューズの立体地図に、幾つもの点が打ち込まれていく。
「直近一ヶ月。行動範囲は、セイロン島展示地区、ボストン展示地区などなど」
「私たちを拉致した男は移動喫茶をやってて、広東には茶葉を仕入れに来たって言ってたから、きっとセイロンにも行ったんじゃない?」
腕組みをしながら推理するイオンに続いて、自身のセレーネで情報を探していたココも声を上げた。
「あった! ちょうどその頃に、ボストン美術館に怪盗ファイが現れ、英一蝶の『仏涅槃図』が盗難されてる」
「だがちょっと待て。一番最近の履歴は……」
ジムの指差した先には、今日の日付とともにライムシティの文字が記されていた。つまり今このビルがあるコロニーの中に、彼らもいるということである。
ココとジムが視線をハルに向ける。それにつられて、イオンも不思議そうにハルの顔を覗き込んだ。
すでにハルは立ち上がったまま目を閉じていた。
「そっか、イオンさんは初めてだよね?」
「彼は何をしているんですか?」
「天網恢恢疎にして漏らさず。我らが第十七学芸課の秘密兵器。摩訶不思議な義眼を使った透視だよ」
ハルの義眼には、千里眼とは言わないまでも、肉眼で見えるよりも遠くの景色までがはっきりと映し出されていた。恐らくは義眼の性能が高いからだろう。
ハルは片っ端から怪しそうな路上に停まっているフロート・カーを次々に調べていった。
(これも違う。これも、これも違う)
そして十数番目に見つけた車両に、ハルは注目した。
人のあまりいない裏通りに停められた車両。まるで監視しているように車両の近くに立つ男たち。
近くの建物の中に集中すると、その中には使い方の分からない機械が雑然と並んでいる。研究所だろうか。頭頂部の禿げた研究者らしき姿も見える。そしてベッドの上には人工呼吸器を付けた人物が横になっている。
ハルはその顔に見覚えがあった。アシビのアジトに乗り込んだ時に手帳の中身を有難く透視させてもらい、そしてハルが自ら銃で撃った男だ。
「いた」
途端に彼らは色めき立った。人質にするなり、情報を吐かせるなりすれば、ゆくゆくはソニアを説得して連れ戻すことも可能になるはずである。
「でも誰が行くんですか?」
「だよねぇ~」
自嘲気味にココが呟いた。評議会によって軟禁状態にある彼らは、このオフィスから一歩たりとも外へ出ることができないのである。
ふと、そこにドアをノックする人物がいた。その人物は扉を開けると、トレードマークのツインテールを揺らしながら部屋の中へと入ってきた。
「諸君、久しぶり。退屈していると思って差し入れにドーナツを作ってきたんだけど、食べる?」
リリィ・ノイマン少佐の登場に、そこにいた誰もがぽかんとしていた。手作りドーナツを差し入れするという行動も珍しくはある。しかしそれとは遥かに比べ物にならない光景が、そこにはあった。
驚くべきことにリリィがいつもの制服ではなく、清楚な私服を着ていたのである。まるでこれから女友達とランチに行くかのような格好だ。
彼らの視線に恥ずかしさを感じながら、リリィは言い訳をした。
「私は今回の作戦のことでは上から注意されただけで、特にお咎めは無かったんだが、君達は苦労していると聞いて、その、多少は私のせいもあるかなと思って……。それに今日はたまたま休暇を取れたし……」
照れ臭さを押し隠すリリィに、ココは静かに歩み寄ってその手を握った。
「リリィ、良いところに来てくれた!」
「?」
全く事態が飲み込めていないリリィは、首を傾げるしかなかった。
ライムシティの表通りから外れた一角。そこにひっそりと立つレンガの建物の表札にリリィは目を走らせた。そこには「ミラー医科学研究所」の文字が並んでいる。今はもうフロート・カーは停まっていない。
「その建物で合ってます。早く中へ」
リリィが耳に当てたセレーネからはハルの声が聞こえていた。ハルがオフィスから透視で状況をリアルタイムで把握しており、何かあれば情報がリリィに伝えられることになっていた。
「全く。せっかく非番だってのに」
固く拳銃を握りしめて潜入を始めようとしたリリィの耳に、ハルが追加の情報を口にする。
「それと緊急連絡です」
「今度は何?」
「ドーナツ、美味しいですよ」
緊張したリリィの表情が、途端に緩んだ。
「……スコーンの方が得意なんですけど」
「次の差し入れも期待してます」
「だったらサポートよろしく」
「了解」
緩んだ口元を引き締めてから、リリィは研究所へと潜入を開始した。
研究所は通路が入り組んでおり、灯りがほとんど点灯していないこともあって、昼間だというのに薄暗い。
「一旦そこで待機。人が通ります」
セレーネを通してハルから的確に指示されているお陰で、リリィは順調に奥へと進んでいった。目的とする例の男がいる部屋へとあと少しである。しかしそこでアクシデントが発生した。
「しまった。後方の通路から誰か来る」
隠れられそうな場所は無い。
「ちょっと、何それ。ポンコツレーダー」
「こっちもいっぱいいっぱいなんです。とにかくやり過ごして下さい」
「やり過ごせって言われても」
そう言っている間に、後方の角を曲がって、一人の人物が姿を現した。それは使用人の姿をした女性アンドロイドだった。
「あら、お客様ですか?」
咄嗟に拳銃を背中に隠しながら、リリィは愛想笑いを浮かべた。
「え、えぇ、そうなんです。博士に用事があって来たんですが、お手洗いの場所が分からなくって」
「それでしたら、この突き当たりの右側になります。分かりにくい建物ですみません」
「いえいえ。ありがとうございます」
そそくさとお手洗いへと向かったリリィは、中へ入って扉を閉めると、ほっと胸を撫で下ろした。
セレーネからハルの上気した声が聞こえてくる。
「グッジョブです。スコーンが食べられなくなるかと思いましたよ」
「そんなに欲しいなら、嫌になるくらい食べさせてやるから覚悟しなさい」
安全であることをハルが確かめてから、リリィは外へ出て目的の部屋を目指した。
今度は見つかることもなく、無事に部屋の前へと辿り着いた。静かに扉を開けて中に忍び入る。
部屋の角に置かれたベッドに朝倉は眠っていた。そこでリリィはその異様さに気付いた。
朝倉は胸に傷を負って包帯を巻いていた。だが無傷に見える頭部に何やら電極のようなデバイスが装着されている。
そのデバイスから伸びたコードはコンピュータに接続されている。その画面には難解な専門用語が羅列されていたが、その中の一つにリリィの目は釘付けになった。
「人格転写完了」
すぐにリリィはセレーネを通してハルに尋ねる。
「ねぇ、この研究所って何を研究してるの?」
「……俺も知りませんが、先輩たちはこの研究所が何か知っていますか?」
ハルがココ達に尋ねるが、ココは肩をすくめた。
「『ミラー医科学研究所』でしょ? 医療関係の施設という情報しか無かったけど」
その時、何かを思い出したようにジムが口を挟んだ。
「ミラー博士って、まさかクレイグ・ミラーじゃないですよね?」
「え?……所長はクレイグ・ミラーと書いてあるけど、それがどうかしたの?」
「マジっすか!? その人、サザンクロス社の第二研究所で所長まで務めたアンドロイドの第一人者ですよ」
「アンドロイドの? でも医科学研究所って」
「クレイグ・ミラーの専門はハードじゃなくソフトの方です。彼の功績の一つが、ミューズに展示されている偉人の人格復元技術。工学だけでなく認知科学、脳科学、神経科学にも精通しています」
「聞こえましたか、リリィ?」
「聞こえたけど、それならもう一つ質問。生きてる人間の意識をコピーすることって可能なの?」
「生きている人間の意識をコピーする? 聞いたことないですけど、ジム先輩は分かります?」
ジムは即座に首を横に振った。
「今の科学では不可能。もしそんなことができるなら、それは世界にただ一人。クレイグ・ミラー博士だけだ」
「その場合、彼が被ってるカッコイイ帽子がつながってるパソコンに『人格転写完了』と表示されてるのは、どういうこと?」
「『人格転写完了』っと表示されているって……」
そう聞くやいなや、ココが口を開いた。
「恐らくそのアシビの負傷した人物は、治療するためではなく、死ぬ前に人格を別の入れ物に移すために研究所へ来たんだ。とすると、既に目的は達成したということ?」
すぐにハルは意識を研究所へ集中させる。
「しまった! 博士とアンドロイドが一人、フロート・カーで逃げていきます!」
「何だよそれー! 私が潜入した意味ないじゃん!」
だがすぐにジムがハルのセレーネを通してリリィに話しかけた。
「そこにコンピュータがあるんですよね?」
「ん?あるけど?」
「じゃあセレーネのマルチコードを接続してください。そこから先は僕がやりますから」
言われた通り、リリィはセレーネの筐体からマルチコードを伸ばしてコンピュータのアダプタへ差し込んだ。マルチコードは、セレーネの充電や通信に使うことができ、普段はデバイス内部に収納されている。
「つなげたよ」
「了解。スコーンはクロテッドクリームでお願いしますね」
「私の手作りジャムは不要ってことでOK?」
「それは捨てがたい。ジャムは直食いさせて頂きましょう」
軽口を叩いている間にジムは何重にも張られたセキュリティを難なくくぐり抜け、ミラー博士の秘蔵データを発見した。
「悪いことしてるな―、僕」
そう口では言いつつもエンターキーを押すと、秘蔵データがリリィのセレーネを介してコピーされていった。
だがそれも長くは続かなかった。
突如としてエラーメッセージが表示されたのである。
「うへっ、自爆された」
頭を抱えるジムにココが尋ねる。
「自爆?」
「多分、博士がデータを盗られないように、遠隔操作で消去したんですよ。まぁ、一部コピーできただけでもラッキーってとこですかね」
早速コピーできたファイルの一覧をジムは開いた。皆、画面を興味津々で眺めている。
「目ぼしい情報があるかは詳しく見ていかないと分かりませんが……これとか?」
ジムは「プロジェクト打ち上げ」という画像ファイルを開く。そこには研究者達の飲み会での集合写真が収められていた。
「ミラー博士はここにいますね」
酔って頬を紅く染めた長髪時代のミラー博士が、研究者らしき男と肩を組んでいる。
そこにいた他のメンバーは誰も気付かなかったが、ハルはただ一人、その光景を見て驚いていた。
ミラー博士と肩を組むその人物は、間違いなくあのノトロブだったのである。
ライムシティの人気のない公園のベンチに、ペトラが珍しくナーバスな顔をして座っていた。しばらくするとフロート・カーがやってきて、近くに着陸した。
降りてきたのはミラー博士と、フロート・カーを運転していたアンドロイドだった。
「すまんね。侵入者とは物騒な世の中になってきたもんだ」
「それで朝倉は?」
「あぁ。臨床実験は成功したよ。さ、ご挨拶を」
すると博士の隣に立っていたアンドロイドが一歩進み出てきた。
「朝倉涼と申します。以後、お見知りおきを」
やはりかつての記憶は無くしているようだった。
だがペトラはその異常事態に目を丸くして絶句していた。
「前もって伝えてある通り、被験者にかつての記憶は残っていないよ。今更驚かれても困るんだがね」
だがペトラは首を横に振った。
「違います。そうじゃなくって、あの」
ペトラの視線が、目の前のアンドロイドに注がれている。
背が高くスラリとしていて、聡明な瞳をしている。そして何より、髪は長く伸びており、胸にはそれなりに膨らみがあった。使用人の服装が、しっかり似合っている。
「朝倉は女ではなく、男なのですが」
ペトラのその言葉に、ミラー博士はにっこり笑った。
「あれ?『涼』って女の名前だろ?」
「いやいやいや、彼は違いますから。れっきとした男です」
若干気まずそうにしながら、ミラー博士は頭を掻いた。
「とは言っても人格はもう変更できんさ。諦め給え」
「でも……」
「ほら、よーく見てみなさい。可愛いだろ?」
「まぁ、可愛いのは認めますが」
「可愛いは正義だ。異論は認めん」
かくして朝倉は、本人の自覚していないところで、女として生きることになったのであった。
お読み頂きありがとうございます。
第1章に入り、展開が加速していくのを書いていても感じます。
今回は初登場、ミラー博士のお話。
先日更新した「第1章 Extra Episode 1 壊れた時計の直し方」とは対になるお話です。
前回が失われたものを取り戻す物語であれば、今回は持っていたものを失う物語です。
その辺は意識して書いてます。
英一蝶の「仏涅槃図」は、現在東京都美術館で開催されている「ボストン美術館の至宝展」に行った時に見たので、取り入れました。
行ってみて残念だったのは、観に来ている方々が「みんな海外に持って行っちゃったのね」と口々に言っていたこと。
これらのボストン美術館のコレクションは、フェノロサらが収集した日本の美術品が寄贈されたものです。
当時、日本では日本の美術品には価値がないという見方が一般的で、日本の芸術は衰退していました。もしもそのままだったら、美術品の多くは捨てられてしまっていたでしょう。
しかしそこにフェノロサらが日本の芸術に理解を示し、保護し、そしてそれを現代まで良好な状態で保存してきた人々の努力があったからこそ、現代まで残っているのだと私は思います。
せっかく展覧会に来るのであれば、ただそこにある絵を見るだけではなく、その絵が持つ眼には見えない過程にも気付いて欲しいところです。
以上、愚痴は終了。
今回も作中で色々と遊んだような気がします。
サザンクロス社は第1章 Episode 4にも出てきます。元ネタの南十字星は、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」の終点駅。
クレイグ・ミラー博士の名前の元ネタは、プロ野球の助っ人二人から。特に意味はありません。
リリィとジムのスコーンのやり取りは、「未確認で進行形」のオマージュです。本編だけでなくニコ生も必見の価値あり。笑いと感動に飢えている方にオススメです。
我ながら、今回もカオスですね。
ではまた。
葦沢
2017/08/20 初稿