Episode 1: 2817年4月 フリージアの出逢い
罪は人を孤独にする。本人が望もうと、望むまいと。
孤独は快楽だ。なぜならば、失うものがないことに安心できるからだ。本当は失っていないと錯覚しているだけとも知らず。
悲劇に気付くのは、深い海の底に沈んだ後である。もはや孤独な人間の声が誰かに届くはずもない。
奇跡さえ起こらなければ。
深海に漂う潜水艦のように音の無い宇宙空間を突き進む輸送シャトルの中で、彼はかすかな音を聞いた。それは油圧計の針が揺れる音でもなければ、微小なデブリが外壁に衝突した音でもない。紛れも無く、それはあり得るはずのない侵入者の靴音だった。
彼は半覚醒状態の頭を叩き起こすと、自動操縦の具合を確かめてから、胸ポケットに差していたペンを握り締めた。他に武器になりそうなものはなかった。
操縦席の後方の自動扉を抜けて、狭い通路の奥の扉に張り付いた。耳を当てると、荷物しかないはずの貨物庫の中を何者かが歩き回っているようだった。
足音が近付いてきたタイミングを見計らって、自動扉を開ける。相手までの距離は、およそ数メートル。即座に跳びかかり、背中から押し倒して首元へペン先を当てる。
「何者だ?」
「ちょ、ちょっと待った。決して怪しい者ではないんだって」
侵入者の正体は、二十歳になるかどうかという若い女だった。半袖のTシャツにジーパン。まるでどこかに買い物にでも行くかのような服装だが、しかしスーパーマーケットと間違えて警備の厳重な輸送シャトルの貨物庫に潜り込めるはずなどない。
彼はペン先を当てたまま、質問を繰り返した。
「何者だ?」
「私は何者でもない、かな」
「言葉遊びの趣味はない」
ペン先が皮膚に食い込んでいく。
「痛っ……分かったって。私はペトラ・ヨハンソン。旅人だよ」
「どうやって侵入した?」
「本当はミューズ行きの旅客シャトルに乗る予定だったんだけど、ステーションで迷子になっちゃってね。これかと思って乗ってみたら、いつの間にか動き出しちゃうし、どこも扉は開かないし」
「嘘だな」
「疑い深いなぁ。ちょっとくらい信じてくれたって良いじゃない?」
「旅人は銃を持っていない」
ペンを持っていない方の手で、彼はペトラの拳銃を床に押さえつけていた。あと少しでも遅ければ、彼の脇腹に穴が開いていただろう。
「なら言わせてもらうけど、物音を立てないように注意していた侵入者に気付いて、しかも侵入者を咄嗟に組み伏せるほどの腕前の男が、なんで安月給の輸送シャトルのパイロットなんてやってるのさ?……それに」
ペトラは、その澄んだ青い眼で彼の左眼を凝視する。
「義眼でもパイロットの資格って取れるものなのかしら?」
機械仕掛けの義眼は、視力を失った人間が再び視力を得ることを可能にした。しかしそれは光の明暗を見分けるのが精一杯という程度のものであった。義眼の人間が、視力を重視するパイロットの資格を取れるとは考えにくい。
ペトラはニヤリと笑う。
「取引をしましょう」
「……」
「私はあなたが何者であるかを問わない。その代わりに、アナタは私をミューズまで送り届ける。どう?」
「お前を宇宙空間に放り出せば済む話だ」
「わぁ、コワイ!……でもね」
彼女は視線を周囲の壁へ向けた。彼も辺りを見回してみて、その絶望的な状況に気付いた。
壁面の至る所に、「私はペトラ・ヨハンソン 助けて」「SOS ペトラ」といった文言が落書きされているのである。
「流石にシャトルの中にお掃除道具はないでしょう? 偶然乗り込んでしまった客がいた事実を抹消するのは、ちょっと難しいんじゃない?」
「……」
「無事に送り届けてくれれば、落書きについては私も一緒に謝るからさ。どうせミューズに収蔵品を輸送さえすれば、アンタの上司もそんなには怒らないでしょ?」
もはや確信犯であることを隠す気はさらさら無いらしい。
それを見て、彼も隠し事をすることを諦めたようだった。
「なぜ収蔵品を輸送するシャトルだと思った?」
「だって宇宙港の第三ブロックはミューズへの輸送専用でしょう?」
「だとしたら違和感はなかったか?」
「え?……違和感なんて何も」
彼は、訝しがるペトラを組み伏せていた腕を離すと、立ち上がって近くにある木箱の蓋をこじ開けた。中身を一握り掴んで、ペトラの目の前に差し出す。
「これも確かに"歴史の産物"ではあるが」
くすんだ光沢を放つ黒い粉末。途端に鼻をくすぐる死の匂い。
半ば悟ったようにペトラは尋ねた。
「これって火薬でしょ? こんなに運んで何をするつもり?」
「火星のとある基地に突っ込む」
「……テロリスト」
ペトラの目が蔑むものに変わった。
「勘違いするな。俺はテロリストじゃない。傭兵だ」
「どっちにしろ、自爆テロをするんなら変わらないでしょ」
「俺に主義主張はない。あくまでも仕事だ」
「だからって許されるとでも? これだから男は」
「お説教なら勝手にどうぞ。ただしお客様の目的をお忘れになりませぬよう」
その言葉で思い出したのか、ペトラは銃口を彼に向けた。
「もうミューズに行けとは言わない。テロを止めなさい」
「撃ちたいなら撃てばいい。もはや船は自動操縦で火星に一直線。航路を変えられるのは俺だけだ。それに燃料だって最低限しか積んでいない。つまるところ、俺を銃で脅したところで、どうせ死ぬのは変わらない」
彼の言葉に嘘の色はなかった。ペトラもそれを察したようだった。
「この死にたがりが!」
そう捨て台詞を吐いて操縦室へと急ぐペトラの背中を、彼はゆっくりと追った。案の定、ペトラは自動扉の暗号キーを開けられずにいた。
「なんで開かないんだよ!」
「"48236639"」
「……?」
「"48236639"だ。一回聞いたら覚えろ」
半信半疑のままペトラは入力ボタンを押すと、扉は開いた。だが彼女は、なおも理解できない様子だった。
「どうして教えたの?」
彼は操縦席に戻りながら答える。
「喉が渇いた」
「……そう」
探るような目つきのペトラをおいて彼は操縦室へ入ると、左手にある操縦席に座って悠然と飲料ボトルを口にした。その後を追うように入ったペトラは、彼の横にある副操縦席に座った。早速、操作画面をいじって航路変更を試みたが、当然ながらロック画面に阻まれた。
「さっきのパスワードじゃ開かないじゃん!」
「当たり前だ。入室用のパスと操縦用のパスが一緒でどうする」
彼は傍らに置いてあった本を拾うと、栞の挟んであったページを開いた。
「本なんて読むの。意外ね」
「悪かったな」
「穴の開いたボトルに水を注ぐようなものだわ」
「穴の無いボトルから水は出てこないけどな」
彼は平気な顔で読書に没頭していた。
それからしばらくペトラは操縦画面と悪戦苦闘していたが、ついには観念したように大きく息をつくと、背もたれに全体重を預けて暗い天井を仰いだ。
「その本、面白いの?」
「さあ」
少し興味があったのか、ペトラは身を屈めて表紙を覗き込んだ。
「マリリンの詩集?……へぇ、好きなんだ、こういうの」
「……」
彼は初めのページを開いた。そこには一篇の詩が書かれている。
『一輪の花』
嵐に咲いた フリージア
月光はなく 影もなく
開いた花弁が 散っていく
その花の姿を 誰が知る?
濡れた葉っぱを 揺らして歌う
その歌声を 誰が聴く?
「この詩が好きなの?」
「孤独な人間は、孤独のまま死ぬしかない。たとえ本を読んで教養を付けたところで、最後には無駄に終わる」
それを聞いたペトラは、クスリと笑った。
「あらあら」
「意外か? あまり楽天的な人間には見えないと思うが?」
ペトラは首を横に振る。
「そうじゃなくて、解釈が間違ってるって言いたいの。フリージアには、友情とか信頼って花言葉があるんだよ。だから孤独なまま散っていく訳ではないんだ。直接は書いてないんだけど、本当の親友だけは嵐でボロボロになった姿でも見ていてくれているし、歌声を聴いてくれていると信じている、っていうのが本当の意味」
「……それは解釈の仕方だ」
「文才がないのは認めるけど、あえて解釈を間違えるように書いたんだよ。どこかの馬鹿が間違って解釈して、後から真意に気付いてくれるんじゃないかと思ってね。実際、ここに一人馬鹿がいる訳だし」
ペトラの人差し指が、彼を指す。
「?」
「マリリンってのは、私のペンネームさ」
彼も初めは冗談だと思ったが、ペトラがポケットから取り出したメモ帳は、彼女自身が何者であるかを証明するには十分であった。
「ほら、これは昨日、宇宙港の近くで虹を見て書いたやつ。綺麗な虹が出てたでしょ? それから先週は海辺の街にいたから、海の詩をいくつか書いていて」
その手の平に収まるほどのメモ帳に記された詩は、どれも彼の初めて見るものだった。しかし、あの詩集を書いた本人でなければ書けない詩であることは、彼もすぐに確信した。
フリージアは、独りで歌っているのではなかったのだ。
「ま、こんだけ書いたけど、もうこれが世に出ることはないんだよね。もったいないけど」
ペトラがため息を漏らすのを、彼の義眼が見つめていた。
「いや、そうでもないかもしれない」
「?」
彼は操縦画面に手を伸ばした。ペトラが静かに見守る中、各所の設定を適宜変更していく。
途中、ガコンという大きな音とともにシャトルが加速した。
「な、何をしたの?」
「貨物庫を外した。片道の燃料しか積んでいなかったが、これだけ重量が減れば計算上はミューズまで行ける」
「じゃあ……助かるの?」
彼はペトラに手を伸ばした。ペトラは咄嗟に身構える。
「私としては、和解するつもりはないのだけど?」
「取引を持ちかけてきたのはそっちだろう?」
「ふぅん。……じゃあ契約成立ということで」
互いに堅く握手を交わす。
「ま、あなたの心変わりの理由を聞いてみたい気もするのだけど、それは不問にしておきましょう」
そこでペトラは重要なことに気付いた。
「でもこのあとはどうするの? あなたは自爆テロで死ぬはずだった訳だし」
「テロの計画を運送会社は知らない。だが運ぶ予定だった荷物は載せずに火薬を積んでしまったし、そもそも貨物庫はもう無い。どう考えても解雇だ。それにテロ組織も執念深い奴らではないから、追ってくることはないだろう。とりあえずはミューズで適当な仕事を見つけるつもりだ」
それを聞いたペトラは、ニヤリと笑った。何かを企んでいる顔だ。
「私の不法入国を手助けしてくれるなら、当面の生活の面倒を見てあげるけど?」
(他人の弱みにすかさずつけこもうとする、嫌な女だ)
彼は心の中で悪態をついた。しかし旅をして暮らせるほど潤沢な作家収入というのは馬鹿にできないし、かつ未発表の作品を読む機会を得られるというのは悪い話ではなかった。それに今回の件に関しては、少なからず恩義を感じていた。
「仕方ない。それも契約成立ということで」
再び握手を交わす。
「そうだ。あなた、名前は?」
「ハル・ウォードン。元・傭兵だ。よろしく」
お読み頂き、ありがとうございます。
第一話は、ハルとペトラの出会いの物語を書きました。
今回のエピソード自体は、割と昔から構想していました。
そもそもの元ネタはトム・ゴドウィン作の「冷たい方程式」です。
それを基にして2012年頃に「あしざわTwitter小説集」第一章・第十六巻「舞雪は宇宙の彼方へ」を書きました。これは雪が空へと舞い上がる星へ不時着する話でした。
ここから肉付けして短編を書きかけて放置していましたが、2015年10月頃にまとめ直したのが同第二章・第八巻「宇宙氷晶 ―ソラユキ―」です。
これは、操縦士の男と女アンドロイドが乗っている宇宙船が、難破という絶望的な状況を前にしても未来を求めようとする物語でした。この時には博物惑星ミューズのプランも割と固まっていたので、作中にもその名前が出ています。
さらに、似たようなシチュエーションとして、同第二章・第十三巻「冥王星の夢」を書きました。こちらは宇宙空間で自殺を試みようとしていた宅配員が、貴族の娘を救助する話です。
これらの過去作をバックボーンとして着想したのが、本作の第一話です。
新たに描く上で気を付けたのが、二人の関係性の変化です。
この短い文章の中で立場や距離感が複雑についたり離れたりするのを描くのは、割と難しかったです。
でもこの関係性の変化こそが、本作で描きたいものの一つなのです。
今後もそこに注目して読んでみて下さい。
では。
葦沢
2016/08/06 初稿
2016/09/20 第二稿
2016/12/25 第三稿
2017/05/14 第四稿