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Episode 7: 2817年12月 地下で生きる者たち

 ジェームズ・クラーク・マクスウェルは、悪魔を空想した。


 マクスウェルの悪魔は、世界のエントロピーを減少させることができる。


 すなわち、永久機関が可能になる。


 しかし残念ながら、永久機関は実在しない。


 悪魔が記憶を消し去る時、減ったエントロピーは元に戻るからだ。


 その意味では、歴史も忘却機関である。


 過去の全てを記憶するための膨大なエネルギーを、歴史は持ち合わせていない。


 そこに人が居たことなんて、歴史は容易に消し去っていく。




 冬の冷たい水が、音もなく竹筒の中へ流れ込んでいく。時の止まった空間。まるで水がどこかへ消えていくかのように、何も動くものは無い。


 しかし一度空虚が満たされれば、竹筒は恭しくお辞儀をして、再び元の姿勢へ直る。竹筒の尻が石を叩いて虚ろな音を立て、葉を落とした冬紅葉の枝を微かに揺らす。まるで自然の奥底に潜む静と動を抜き出した絵画のような空間。


 その日本庭園を障子の向こうに眺めながら、ソニアは座敷に正座していた。い草の香りにはどこか懐かしさが感じられた。しかし後ろに見張りが二人も控えているせいで落ち着かない。


 視線を床の間に移すと、そこには雪の中で虫をついばむ一羽の鮮やかな鶏の描かれた掛け軸がかかっていた。襖で仕切られた空間の中で、ソニアの目の前の座布団だけが空いている。


 やがて聞こえてきた足音は、目立つ音ではないにも関わらず、その場を支配していた静と動の循環を断ち切ってしまった。障子の陰から姿を表した人物。彼こそがアシビの首領、藤田虎次郎である。拉致された直後に会った時はまだ喫茶店のマスターの格好をしていたが、今は和服に着替えていた。これが彼にとっての正装なのだろう。


 藤田は、視線も合わせず無言で座布団へ腰を下ろした。そしてソニアに向き直って背筋をピンと伸ばすと、何をするのかと思えば、そのままししおどしのように頭を下げて額を畳につけた。


「申し訳ない」


 すっかり態度の変わった藤田に、ソニアは面食らってしまった。


「謝罪をされるのなら、初めから拉致などするべきではなかったのではありませんか?」


 藤田は頭を下げたまま、それに答えた。


「全くその通りかもしれん。あなたの姉、イオン嬢を移送中、我々の手違いでイオン嬢が崖から転落した。安否は不明。今、部下を出して捜索しているところだ」


 藤田の態度からして、嘘を言っているとは思えない。だが、その知らせを現実のことだと受け入れることはできなかった。


(嘘だ、絶対に嘘だ)


 ソニアは自分に言い聞かせたが、気付けば両眼からは涙が伝っていた。


 顔を上げて藤田が言った。


「今日はもうお休みになられた方が良い」


 藤田が目配せで合図をする。後ろに座っていた二人の男がソニアに立つよう促した。ソニアは泣き崩れないように堪えるだけで精一杯であった。




 ソニアは案内されるがままに、建物の中を進んだ。和風の内装は途中で現代風に変わったが、それでも居心地の悪さは変わらなかった。見張りの二人も、終始無言のままであった。


 前に立って道案内している人物は、灰色のスーツを纏っていた。30代くらいだろうか。短く刈り揃えた短髪とその鍛え上げられた肉体を見ただけで、武人であろうと推測できる。ソニアはスポーツには詳しくなかったが、彼のその姿は、レスラーというよりむしろ武道家に近いと感じていた。


 もう一人、ソニアの後ろをついてくる男は、対照的に文官のようだった。白いトレンチコートを羽織り、長髪を後ろで束ねている。細いメタルフレームの眼鏡から、柔和な眼差しが覗いている。見た目は若そうに見えるが、年齢が判断しづらい。


 やがて現れたセキュリティ付きの扉をくぐり、さらにその先でエレベーターに乗った。ここから逃げ出すのは容易ではないだろうと、ソニアは悟った。


 エレベーターの操作盤の前に立つ武人の後ろに、ソニアは立った。その左に文官が並ぶ。視線を合わせるのは躊躇われたので、ソニアはただじっと武人の背中を凝視していた。下降する箱はなかなか止まらず、永遠に落ち続けていくかのように思えた。


 その時、ふと文官が呟いた。


「穴が開いてる」


 何事かと文官の顔を見てみると、どうやら彼は武人の背中に視線を向けている。そこを見ると、武人の来ている背広に虫食いの穴が開いていた。


「えっ?」


 上着を脱いで背中を確認した彼は、頭を掻いた。


「あっちゃー。滅多に着ないからなぁ」


「スウィフト嬢は、ずーっとお気になさっていたようですよ」


 くすっと笑いながら、文官がソニアの顔を見遣る。


「えっ、いや、そういう訳では」


「もしかして前を歩いている時から気付かれていましたか? これは失敬」


「いえいえ、全く気付いていませんでしたから」


「では、どうして背中を見ていたのです?」


 それから文官はソニアの耳元でこっそりと囁いた。


「藤堂参与に惚れたのであれば、私の方で手配させて頂きますが?」


「ちっ、違いますって!」


「おいおい、それは俺も困る。だって俺には――」


 その時、藤堂の携帯電話が鳴った。


「おっと。ちょっと失礼」


 彼が電話に出るボタンを押すやいなや、大きな声がエレベーター中に響いた。


「おっとぉぉぉーーーさーーーん!!!」


 彼は慌てながら、小声で電話相手に注意した。


「こら、お父さんはお仕事中なんだぞ。大きな声を出すんじゃない」


 文官が、再び小声で囁く。


「藤堂参与は二児の父親なのです。ああ見えて親バカなのですよ。いつも息子二人の自慢話を聞かされてます」


「聞こえてるぞ、小石川参与」


 電話を終えた藤堂が、少し恥ずかしそうに、小石川に視線を向けている。


 ようやくエレベーターが止まって、扉が開いた。再び藤堂が前に立ち、ソニアを挟んで小石川が後ろについた。


 後ろから小石川が尋ねる。


「いつもの保育園のお迎えですか?」


「あぁ。今日は少し早いらしい」


 思わずソニアも尋ねた。


「お仕事をされているのに、お迎えに行くのですか?」


「えぇ。共働きなので、妻が忙しい時は私が」


「へぇ、そうなのですね」


 ソニアは、そもそも保育園に通ったことがない。小学校の送り迎えすら執事にやってもらっていたから、親が迎えに来てくれるというのは新鮮だった。


 不意に、もし両親が助けに来てくれたら、という他愛もない妄想が浮かび、ソニアは急いでそれを消した。


 やがて廊下の先に一人の男が立っているのが見えてきた。こちらに気付くと、素早く敬礼をした。


「待たせたな、朝倉二尉」


「いえ、こちらも只今部屋の準備が整ったところです」


「それは上々」


 藤堂が振り返り、彼を紹介する。


「スウィフト嬢。こいつは朝倉涼二尉。世話係だ。部屋の前に待機させておくから、何かあればこいつに言ってくれ」


「よろしくお願いします。ソニアです」


「全身全霊をもってお仕え致します」


「じゃあ、俺はこれで失礼するよ。ごゆっくり、スウィフト嬢」


「ぜひ今度、息子さん達のお顔を見せて下さい」


 急ぎ足で去っていく藤堂は、後ろを向いたまま手を挙げてそれに答えた。


 残った小石川が歩み寄ってきて、ソニアに話しかけた。


「では、ご夕食の前に手早く説明を致しましょう。さ、まずはお部屋にお入り下さい」


 部屋の中は、一般的なゲストルームと言って差し支えなかった。左手に小さめの机と椅子、そしてキャビネットが並び、右手にはシングルベッドが置かれている。その奥には丸テーブルと一人がけのソファが二つ。窓はないが、生活する上で何も不便は無いように見えた。


「こんなお部屋でいいのですか?」


「スウィフト嬢は囚人ではありませんよ。行動の自由は制限させて頂きますが、それ以外のことであれば不便のないように努力致します。お困りのことがあれば、朝倉二尉に何なりとお申し付け下さい」


 朝倉は、深々とお辞儀をすると、懐から取り出したメモ帳を見ながらソニアに尋ねた。


「早速ですが、ご夕食に和食を用意する予定です。つきましては、苦手な物があればお伺い致します」


「お構いなく。和食は好きですよ」


「かしこまりました」


 朝倉がペンを走らせる。そこでふとソニアは一つ大事なことを思い出した。


「そうだ。あのー……電気は自由に使ってもいいですか?」


「構いませんが、どうかしましたか?」


「実は……」


 そう言ってソニアはポケットに手を突っ込んだ。中から取り出したのは、すっかり眠りこけたキティだった。どうやらスミルノフ商会に捕まった時にソニアを守ったせいでバッテリーが少なくなり、省電力モードに入ったらしい。


「可愛い猫ちゃんですね。模造生物ですか。えぇ、どうぞご自由に充電してください」


「ありがとうございます」


 壁際のキャビネットの上面にプラグを見つけたソニアは、そこにキティを置いた。するとキティはおもむろに目を開け、長い尻尾の先を充電用端子に変形させた。それをプラグに差し込むと、満足したように再び眠りへ落ちた。


「さて、お話を済ませてしまいましょう」


 奥のソファに腰を下ろした小石川に続いて、ソニアももう一つのソファに座った。朝倉はお辞儀をして、部屋から出ていった。これは二人だけの話ということなのだろう。


 小石川の顔に意味もなく張り付いている微笑みは、まさしく仮面のように彼の本質を巧みに隠しており、何を考えているか分からない。


「スウィフト嬢は、二つお名前をお持ちでしたね? 本来の名前であるソニア・スウィフト。そして学芸員としてのソニア・キャス」


「えぇ。それがどうかしましたか?」


「実は私も、名前が二つあるのです。一つは、アシビの参与としての小石川賢人。そしてもう一つは……」


 彼は笑顔を少しも崩さずに言葉を続けた。


「ミューズ評議員、ケント・バンクス」


「……!?」


 ソニアは彼が何を言っているのか理解できなかった。


「こう言った方がいいでしょうか。幼い頃、イオンも含めた三人で枕投げをしてはスウィフトのおばさんに怒られていた、幼馴染のケントです」


お読み頂きありがとうございます。


冒頭に出てきた掛け軸の絵は、伊藤若冲作の「雪中雄鶏図」です。


一度お目にかかりたいものです。


また今回、藤堂、小石川、朝倉の三名が初登場しました。


彼らについてはまた後で触れましょう。


それにしても登場人物が増えてきましたね。これまでざっと数えて16人くらいでしょうか。


自分で混乱しないためにも資料集みたいなものがあった方がいいかもしれませんね。


キャラクターのモチーフは、神話と小説とアニメと映画と歴史上の人物のごちゃ混ぜになっているので、意外な発見があるかもしれません。


さて、第二章はあと三話で完結です。


その後は、第三章に移る前に、間のお話を埋めるつもりです。最終的には第五章くらいまで予定しています。


少し更新ペースを早められるように頑張ります。


では。


葦沢


2017/06/22 初稿

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