第三十七話 臨時講師
目の前でラッツェとミカムちゃんが意見をぶつけ合っている。
「だから、そんな専門用語の理解までは届いてないんだって言ってるでしょうが、実地研修もまだ見学ばっかりなんですよ!」
とミカムちゃんが言えば、
「教科書には書いてあります。このページまでは授業も進んでいると引き継ぎの際に言われてます」
と譲らない姿勢のラッツェ。
なんというか、あの弱腰気味のラッツェが踏み込んだものだ。
けれど、ラッツェが踏み込んでいる事にミカムちゃんは気付いていない。
「授業の進度と、生徒の理解は別物です。教科書で読んでいようと、授業で学んでいようと、理解できるかどうかは別ものなんですよ。学校というのは、生徒が授業内容を理解できるようにする施設であって、理解できない生徒を切り捨てて授業を展開する場所ではないんです。理解できていない生徒がいる以上は、その生徒に理解できる授業を適宜展開する必要があるんですよ。そんな事も分からないんですか!?」
「話の争点は理解できていない生徒の処遇ではなく、対処です。そこをはき違えて人格攻撃に移るのはおかしいでしょう。それとも、こちらの想定していた争点があなたのそれとは異なってましたか? アマネさんの前だって事も踏まえて冷静にお答えください」
え、ここで俺を判定係に担ぎ出すの?
いや、妥当ではあるのか。
俺は苦笑も悟られないようにラッツェとミカムちゃんを見比べる。
この状況の発端は、マルクトの奥さんの妊娠と産休である。
タカクス学校にて遺伝子学と農学を複合的に教えていたマルクトの奥さんが産休を取った事で、代理講師としてラッツェに白羽の矢が立った。
ラッツェは元々サラーティン都市孤児院出身の孤児で、施設にいた頃から農業に従事していた経験がある。
加えて、タコウカの品種改良によりイチコウカを生み出し、その後も農作物の品種改良や遺伝法則についての研究論文を多数纏めている。タカクスはおろか、世界樹全体を見渡してもトップレベルの遺伝子研究者だ。ランム鳥などの鳥類に傾倒しているマルクトとは異なり、ラッツェの専門は農作物、つまりは植物関連である。
世界樹各地域の農家の跡取りとして学びに来ている生徒が多いタカクス学校の教師としては、臨時といえどもかなりのネームバリューを持っている。本人に自覚はなさそうだけど。
実際、ラッツェが臨時講師に立つとの情報を聞きかじって、東の摩天楼ヨーインズリーから受講したいとの申し出もいくつか来ている。
しかしながら、ラッツェも教鞭を取るのは初めてだ。
今までは研究者としていくらか選別された者達を相手に教えていた。理解力が一定以上の水準にある彼らとタカクス学校の生徒は別だと考えた方がいい。
研究者と生徒の違いを理解しているのは、リシェイと同じくヨーインズリーの孤児院出身であると同時に、研究者が良く利用する虚の大図書館の司書でもあったミカムちゃんだ。
そんなわけで、代理講師としての授業方法をラッツェとミカムちゃんが相談していたのだけど、いつの間にかヒートアップして目の前の状態である。
話の根幹である争点について再確認されて、ミカムちゃんが怯む。
掲げる争点の食い違いを指摘されたからではなく、自分の言葉が単なる人格攻撃にすぎないのだと外堀を埋められたうえで指摘されたため、二の句が継げなくなったらしい。
ラッツェは別段勝ち誇るでもなく、話を続ける。
「別に、理解できていない生徒を切り捨てるつもりはありません。切り捨てるつもりがないからこそ、理解できない単語が何故理解できないのか、その根本原因を探った上で対策を立てるんです。授業でやっているのは間違いないんですよね」
「授業ではやっています。……理解できていないのは、単純に机上の空論だからでしょう。頭の中で論理を組み立てても、その論理の根幹をなす根拠を実験で示していないので、頭の中で空回りしているのだと思います」
ミカムちゃんの答えを聞き、マルクトの奥さんが作った授業計画を再度確認したラッツェは瞼を閉じて考え込む。
「……アマネさん、モノがモノだけに、実験をするとしても結果が眼で見て分かるようになるのは来年です。そうなると、僕の授業内容のほとんどがミカムさんの言う机上の空論で終わってしまう。何か、解決法はありませんか?」
「解決法って言われてもな」
遺伝子は親から子へのサイクルを見なければ結果が分からない。解決法として最も単純なのが、親から子へのサイクルが早い物を実験材料にすることだ。
菌類辺りが手っ取り早いといえば手っ取り早いけど、困ったことに俺みたいな素人には区別がつかない。ラッツェも同様だろう。
「実験データを見せるしかないだろう。タコウカの花と種子に関しては研究資料を纏めてたけど、今回の教材になってるリッピークルはどうなんだ?」
「前にも報告しましたけど、追従実験が足りてません。花が咲くまでの期間は短いですが、保存した種の中に交雑種が紛れ込んでいる可能性も高いので教材として使うと混乱を招くかと思います」
「なるほどな。生徒たちに足りてないのは理解力で、その担保となる実験結果も乏しいから説得力がない。つまりは、目で見て分かる結果があれば、生徒は遺伝子の存在についての確証と、遺伝法則についての理解ができる。ここまではラッツェもミカムちゃんも同意見なんだよな?」
確認すると、二人が揃って頷いた。
反応を確認しつつ、俺はラッツェが提出してくれた授業計画を見る。
今は夏。マルクトの奥さんが出産するのが秋で、教師として復帰するのが来年の春になる。目で見て確認できるような教材ではどうしても中途半端に終わってしまう。
ただ、マルクトの奥さんが組み立てていた授業の予定では実験についても触れられている。あの人も生徒の理解不足を承知していたらしく、早めに実験に取り掛かろうと考えていたようだ。
「産休が終わって戻ってきた時にすぐ実験へ移れるよう、ラッツェは生徒たちに実験資料のまとめ方を教えてくれ」
マルクトの奥さんはこの手の実験データの扱いが不慣れだ。マルクトと一緒に資料を纏める事もあるからできないわけではないけど、実験データが妥当かどうかを判断できるほどではない。
データを集めて検証して考察する。この一連の流れだけでも教えておいて、マルクトの奥さんが生徒たちに実験をさせるようになってからの効率を高める。
「ラッツェなら実験の経験も豊富だし、纏め方も分かってるだろ。リッピークルの品種改良実験でのデータを引っ張り出して、生徒たちにまとめさせてみよう。追従実験が足りないって事は、データにばらつきも多いんだろ?」
「そうですね。交雑種がかなりの数で紛れ込んでいたので、遺伝法則を読み解くのは難しいです。花の形状の遺伝法則を読み解くのもかなり苦労しましたし、読み解いた遺伝法則が正しいかの追従実験はまだですね」
「その追従実験はやらずにおいてもいい。卒業研究の課題の一つとして挙げておこう」
「なるほど、その手がありましたね。卒業研究の題材に出来るなら生徒も自ら実験で理解ができますし」
納得した様子のラッツェが受け持つことになっている授業日数を確認し始める。
その間に、俺はミカムちゃんに声を掛けた。
「図書館の蔵書にリッピークルの研究資料を寄贈してあったよね?」
「えぇ、テグゥールースさんが雑貨屋で販売する時に頂いたものが二冊、書棚に入ってます」
「貸し出し頻度は分かる?」
「そんなに多くはなかったはずです。生徒さんの実家は農業をやってる場合が多いですけど、リッピークルは園芸品種なので微妙に需要がないみたいですね」
「それなら、これからラッツェがやる授業の内容を予習できている生徒はいないな。蔵書も少ないし、別途教本が必要か」
ただの教本だとマルクトの奥さんが復帰してきたら無用の長物になりかねないし、穴埋め式の問題集みたいな形にして知識の再確認を目的とした本にしよう。
今後の生徒が自主学習で使えるように編集してしまえば、ラッツェが特別講師の任を降りても需要が継続する。
俺はラッツェを見る。
「もう時間もないし、早めに動いておこう。版画屋に話を通しておくから、出来上がり次第俺に声を掛けてくれ」
「了解です。あと、初回からしばらくの授業はアマネさんも助手としてきてくれるんですよね?」
心配そうに聞いてくるラッツェに頷き返す。
「その予定だ。工事の方も緊急性が問われる物はないし、今年は俺もかなり余裕を持って動ける。まぁ、冬になったら天楼回廊の工事に入るけど、それまでにはラッツェも一人で授業できるだろ?」
「多分、大丈夫です」
自信がなさそうに視線を逸らしながら言われても……。
いざという時にはマルクトに頼もうかとも考えたけれど、あいつは雲上ノ層でやってるヘロホロ鳥家禽化計画で忙しい。
「まぁ、頑張ってくれ。ミカムちゃんも簡単な助手程度はやってくれるんだし」
ミカムちゃんは図書館司書だけど、いろんな授業で助手的な事もやっている。生徒たちの様子を確認して日誌を付けたり、今回のように教師に事情があって授業ができない場合には中継ぎの役目をするためだ。
「――それにしても」
あらかた決まった事で気を抜いた様子のミカムちゃんがため息交じりに呟いて、ソファに背中を預ける。
「出産って大仕事ですね。本人も、周りも」
「めでたい事ではあるけどね」
「赤ん坊のお世話はどうするんでしょうかね。出産したらすぐに教壇に立つみたいなこと言ってましたけど」
「日中は近所のおばあさんに預ける形になるってさ。授業も毎日あるわけじゃないし、マルクトもいるからほとんどは夫婦のどちらかがつく」
鳥魔人のマルクトも子育てには協力的だ。
この世界の人間は出生率の低さからか子供を大事にする風潮があるけど、マルクトも例外ではなかったらしい。
「あのマルクトさんが意外ですよね」
しみじみと、ラッツェが言う。
「案外、子供大好きお父さんになるかもしれないな」
「見てみたいような、そうでもないような……」
ラッツェはそう言って苦笑した。




