第九話 高級宿屋
ガラゴロと音をたてながら、水を満載した木壺を乗せたケナゲンを引っ張る。
メルミーが作ったキックボードもどきは二回のマイナーチェンジを経てついに荷車として完成した。
どれほど重い物を乗せようと軋まず歪まずの丈夫なボディ。抵抗なく回る車輪はスムーズな加速を可能とし、高さを調節する事も可能な取っ手により使用者の力を余すことなく運動エネルギーに変換する。樹皮の凸凹さが残る悪路もなんのそので、がっちりと荷物を固定する万力とバードイータスパイダーの糸製ロープで木壺から水一滴零さない。
シックな色合いの黒いボディがイカした奴である。
「春風が気持ちいいな」
どこからか薫ってくる花の香りと一緒に春の空気を吸い込む。
そういえば、世界樹の花ってみた事ないな。雲上ノ層以上に咲くって話だけど。
天橋立を渡って雲上ノ層に到着する。
目指すは特別飼育小屋だ。我が家の分の水はすでに運び終えた後である。
夕日に照らされたツリーハウスに到着し、木陰に入る。人力エレベーターまたの名を釣瓶に固定し、階段を上がって紐を引いて持ち上げた。
「よし、と」
凄い、スローライフ感。蛇口をひねって水が出る環境ではないし、そもそも蛇口ってなんだっけな状態。
ポンプとか作ろうかな。ビューテラームでは実用化されてるけど、あまり広まってないんだよな。
釣瓶で上がってきたケナゲンを引っ張って飼育小屋の空中回廊を回り込んで裏手に到着、そこで水を保管するタンクへ木壺から水を移せば、今日のお仕事終了である。
空になったケナゲンを引っ張って我が家への帰路を歩む。
木壺を降ろしたこともあって、ケナゲンの車輪の回転は実に軽快だ。
そんなこんなで自宅に到着した俺とケナゲンを玄関で待っていたのは、メルミーだった。
「おかえり、アマネ、ケナゲン」
「ただいま。ケナゲンを使う予定とかあるか? ないなら片付けるけど」
「特にないかな。メルミーさんお手製の家具は明日テグゥルースさんがコヨウ車で運んでくれるらしいからね。あ、ケナゲンはメルミーさんが片付けてしんぜよう。ようよう」
ラップでも始まるの?
ケナゲンを渡すと、メルミーはしみじみとケナゲンのナイスボディを見つめる。
「ケナゲン、こんなに痩せて軽くなっちゃったんだね……」
「いや、荷物を降ろしただけだからな?」
なんで俺が連れ回したせいで理不尽なダイエット強いられたみたいな空気になってるの?
と軽口を叩きあっていると、玄関に見知らぬ靴が二組、揃えておいてあるのに気が付いた。男物が一組、女物が一組だ。
「誰か来てるのか?」
まさかプレゼントじゃないだろう。男物の方は俺用だとしても明らかに大きい。
ケナゲンの取っ手を短くしていたメルミーが廊下の奥を指差した。
「ビロース夫妻が来てるんだよ。アマネに話があるんだってさ」
「へぇ、何か用事があったかな」
靴を脱いで、俺は廊下を進み、リビングへ向かう。
とくに面会の予約とかはなかったと思うから、個人的な相談か、遊びに来ただけか。
リビングではリシェイがビロースと若女将を相手に世間話をしていた。テテンはビロースを警戒したのか、姿が見えない。
「ビロース、どうかしたのか?」
「おう、アマネ、帰ったのか。ちょっと相談というか、依頼に来たんだ」
「依頼?」
話を聞いていそうなリシェイに顔を向ける。
リシェイは軽く顎を引いて、口を開いた。
「雲下ノ層のビロースさんの宿屋を従業員に任せて、雲上ノ層に自宅兼高級宿を建てたいそうよ」
「ついに雲上ノ層に二軒目の建物が――って言いたいところだけど、いま宿を建てても人はこないんじゃないのか?」
雲中ノ層や雲下ノ層にはコヨウ車の定期運行があるけど、雲上ノ層までは運行していない。アクセスの悪さはまだ解消されていないのだ。
今の状況で雲上ノ層に宿を建てても利用者がいるかは疑問だ。
しかし、ビロースは首を横に振った。
「それなんだが、宿に置いてある意見箱に投函されている利用者からの要望の中に、せっかく摩天楼のタカクスに来たのに雲上ノ層で寝泊まりできないのが残念だって意見が多くなってな」
「気持ちは分からないでもないけど、観光客が雲上ノ層と雲下ノ層を行き来するだけで時間を使ってしまうのは問題だし、高級宿を建てるのならコヨウ車も雲上ノ層へ行き来させる必要があるだろ」
いっそのこと、宿の利用客専用のタクシー的な形でコヨウ車を走らせてみようか。利用客の数しだいでは赤字にならないだろうし。
「リシェイはどう思う?」
「高級宿を建てるのは良いと思うわ。しばらくは利用者がいないとは思うけど、冬の間の雪に悩まされる事のない宿があると雪かきしている従業員を見て現実に引き戻される事がないから、冬季の利用客を見込めるもの」
雪かきをしている従業員を見て、自宅を心配してしまうお客さんは世界樹の北側からの利用客に多い。大概はご近所に雪かきを頼んであったりするものだけど、それはそれでお礼を兼ねたお土産をどうしようかと考えることになる。
天候の影響を受けない雲上ノ層に宿を作る利点を説明されると、ありな気がしてくる。
考えていると、ビロースの奥さんである若女将が少し恥ずかしそうにしながら口を開く。
「しばらくお客様が来なくても構わないんです。夫婦水入らずの時間が増えるだけですから」
「わかった。じゃあ建てようか」
これ以上惚気られても反応に困る。だからビロースもその情けない顔を止めろ。
はてさて、そんなこんなで建設された雲上ノ層の高級宿は、交通の便を考えて天橋立の近くに入り口を構える事となった。
雲上ノ層で一般的なツリーハウスの形状ではなく、俺の自宅と同じようなモダン建築である。
ビロースからの希望で建てたこの高級宿は宿屋部分とビロース夫婦の自宅の二つに分かれている。
「で、どう思う?」
依頼者でもあるビロースを振り返って訊ねる。
天橋立から続く大通り予定地を挟んで立っている宿屋兼自宅を見て、ビロースは腕を組んでいた。
「玉貨七枚でこれが建ったことに驚きだ。十五枚はかかってそうなんだがな」
「感謝はリシェイにしてくれ。ヨーインズリーから鉄を取り寄せたりして遅くまで頑張ってくれたんだ」
摩天楼化したタカクスからの依頼でもあるため、今後の取引も考えて少し色を付けてくれたコマツ商会にも感謝だ。
「中に案内するよ」
俺はビロースを連れて通りを挟んだ左側の建物、宿屋部分へ向かう。
通りから伸びる長さ二メートルほどの小さなアーチ橋を上る。世界樹では珍しい鉄の欄干が高級感を演出し、高級宿屋にふさわしい入り口となっている。
この小さなアーチ橋は通りに接続している始点と宿屋入り口に接続している終点との高さが異なっている。高低差を生み出すことで宿屋の入り口が通りよりも一メートル弱高くなり、自然と通りを見下ろすことができるようになるのだ。
アーチ橋のおかげで床高さが押し上げられたことで、宿屋そのものも全体的に高くなる。二階建てで客室が二階にあるため、部屋の窓から通りを見下ろしたり、近くにある天橋立を眺めたりできるのだ。
両開きの玄関扉を開いて中へ入ると、半円形の吹き抜けエントランスが出迎えてくれる。
「広々として、くつろぎやすそうだな」
俺に続けて中に入ったビロースがエントランスを見回す。
ビロースはすぐにエントランスの奥にある扉に気付いたようで、指をさしながら確認するように俺を見る。
「あれが食堂への入り口か?」
「そうだ。かなり広く作ってあるから、丸テーブルを置くと良いと思う。希望があれば、メルミー達に作ってもらえるよう掛け合うよ」
「そのあたりは従業員とも相談したい」
「わかった。急ぐことでもないしな」
「出来たばかりで予約は入ってねぇからな」
ビロースが笑いながら肩をすくめる。
この半円形のエントランスは奥に先ほどの食堂、左右には警備員室や休憩スペースが存在する。
俺はビロースを連れて休憩スペースへ移動し、窓の外を指差す。
ビロースが窓から外を覗き、感心したように口笛を吹く。
「視点が高いな。雲上ノ層がもっと発展して人通りが多くなっても、この高さなら喧騒に悩まされずに済みそうだ」
「入り口と通りを結ぶアーチ橋の長さ分、通りから離れてもいるから、音はあまり聞こえないようになってるんだ」
メルミーに協力してもらって実験した結果を見ても、騒音で高級宿の雰囲気が壊れることはないと思う。
「客室は?」
「この休憩所と警備員室の上にそれぞれ一室、食堂の上に四室ある」
「かなり広そうだな」
「まだ家具を入れてないからなおのこと広く見えるだろうけど、とりあえず見てみると良い」
俺は休憩所そばの階段を指差す。
半円形のエントランスの外周を回る階段を上り、二階部分へ向かう。
大きさは全ての部屋で同じだけど、見える景色は結構違う。外の通りを見下ろせる場所や天橋立を眺められるベランダ付きの部屋もあれば、宿の裏手を眺める静かな部屋もある。
ひとまず休憩所の上の部屋に入ると、正面に大窓とベランダが見える。部屋そのものは四角形だけど、入り口の横には衝立代わりの壁があるため、扉の前に立った状態では部屋の大部分が見えないようになっている。
プライバシーって大事だからね。
部屋の中へ足を踏み入れれば、衝立代わりの壁に隠されていた部屋の大部分が見える。
「照明はこの壁のくぼみに入れればいいのか?」
ビロースが不思議そうにのぞき込むのは衝立壁の裏側に開いた長方形の窪みである。
「あぁ、そこにウイングライトの翅を入れれば部屋全体を照らせるし、ベランダから夜景を楽しみたい時にも壁のくぼみを布で覆うだけで済む」
「なるほどな」
電灯と違ってスイッチ一つで消灯するようなものではないから、こういった形で光を遮断する必要があるのだ。
家具を置いてない以上他に見るべきところもないため、さっさと二階から一階へ舞い戻る。
続いて案内するのはビロース夫妻の自宅だ。
一度エントランスから玄関前の小さなアーチ橋を渡って大通りに出て、向かいにある同じ形のアーチ橋を渡るという方法でも移動できるが、面倒くさいので別の入り口を使う事にする。
個室となっている警備員室の奥にある従業員用の階段を上ると、片開きの扉が待っている。その扉を開けば、宿の二階と同じ高さの空中回廊に出た。
「この空中回廊を渡れば、下の大通りを無視してビロースの家と行き来ができるようになってる」
天橋立の側にある建物でもあり、日中は大通りが込み合う可能性もある。そのため、この空中回廊でビロース夫妻の自宅と高級宿屋を繋ぎ、スムーズに行き来できるようにしてあるのだ。
空中回廊の欄干は鉄で作ってある。デザインも凝っており、下の通りを歩く通行人の目を良く引き、宿の存在感を高める狙いだ。
「ここがビロース達の家の玄関だ。まぁ、関係者専用の玄関だけど。はい、鍵」
「おう」
俺が手渡した鍵で二階玄関の扉を開けたビロースがさっそく中に入る。
二階側の玄関であるここにも靴箱が設置してある。
ビロースが頭を掻きながら靴を脱いで中へ上がり、周りを見渡した。
「どうも感覚が狂うが、ここが二階って事でいいんだよな?」
「あぁ、二階であってる。そこの階段から一階に降りられるけど、二階と一階のどちらから回る?」
「二階から回る方が手間が少ないだろ」
「じゃあ二階から回ろう。そこの廊下を曲がれば書斎と寝室がある」
二階玄関から伸びる廊下の奥に下り階段があり、階段とT字を作るように二階の各部屋への廊下が伸びている。
通りを挟んで向かい側の宿に比べると小さいが、それでも住宅としては結構な広さだ。実質四人で住んでいる我が家と同じくらいある。
それと言うのも、玄関が一階と二階の二つにあるため、動線が少し複雑になっている事と、向かいの宿屋と空中回廊で直接つながっているこの建物が貧相に見えないようにするためである。
寝室や書斎も当然広めにとってある。
ビロースが寝室を見回して、適当にベッドの位置を目測して頷く。
「かなり大きなベッドでも入れられるみたいだな」
「雲中ノ層や雲下ノ層の感覚でいると失敗するよ。日中は日差しのおかげでそこそこ暑いけど、夜は湿気が少ないから一気に冷えるんだ」
朝起きたらリシェイやメルミーにしがみ付かれて湯たんぽ代わりにされていたり、テテンに布団を奪われていたりする。
参考にするよ、といいつつビロースは寝室の家具配置を大まかに決めたらしく、廊下を挟んだ向かい側の書斎に入って一通り眺めた後、床を指差した。
「一階に行こう」
ビロースに促されて、俺は階段を使って一階に下りる。
一階にはリビングとキッチン、それから小さい応接室がある。
キッチンとリビング、そこから眺められる庭を一通り見た後、応接室へ。
応接室へ案内すると、ビロースが眉を寄せて困ったような顔をした。
「やっぱりなきゃダメなんだよなぁ」
「古参だからな。特に魔虫狩人関連の意見調整とか、ご意見番みたいなことをしてもらう形になる」
古参の住人は、創始者一族に直接言えないような自治体の不満点などを住民から聞き取り、住民の代表として創始者一族に意見する役割がある。
今はまだ、俺と住民との距離も近いから意見や不満も直接言ってくれるけど、今後百年二百年と経てば新規の住人も増え、俺に意見するのが難しい風潮にもなって来るだろう。何より、俺の手が回らない可能性が高い。
そんなわけで、今後は古参の住人に少しずつ管轄を作り、窓口としての役割を持ってもらう。
「ビロースが嫌なら、この応接室は物置にでもしてくれればいいよ。どの道、百年は使わない部屋だと思うから」
「了解っと。まぁ、この辺はやらざるを得ないだろうし、別に嫌ってわけでもねぇよ」
「そう言ってくれると助かる。魔虫狩人関連で顔が利く古参はビロースくらいだからさ」
「他にも二人いるけどな。まぁ、あいつらはなおさらこの手の仕事は合わねぇだろうけど」
合わないだろうなぁ。自分を鍛えることにしか興味なさそうだし。
「で、一通り見て回ったけど、感想はどう?」
「仕事場と家を完全に分けてくれたのはありがたいな。客が来るようになっても夫婦生活に水を差されることはなさそうだ」
「重要なのは夫婦生活なのか」
「そろそろ子供が欲しいと思っててな。だが、今までみたいに雲下ノ層の宿の管理人室に住んでる状態じゃあ夜泣きとかで客に迷惑がかかっちまうだろ」
「あぁ、確かに。その点、この建物は二つに分かれてるから夜泣きも大丈夫だ」
通りを挟んでいるから、宿の方まで泣き声も届かない。問題は買い物ができる商店街まで遠い事だろうか。
やっぱり、雲上ノ層への誘致策をリシェイと考えるべきかもしれないと思いながら、俺はビロースに権利を譲渡する書類を渡すため雲下ノ層の事務所へ歩き出した。




