第二話 健気なあいつ
雲上ノ層の自宅そばに作ったばかりの貯水槽を点検すべく、周りをぐるりと一周してみる。
昨日完成したばかりなので、魔虫甲材が真新しさを主張するように光を反射している。
雲上ノ層における防火水槽としての役割を持つこの貯水槽は、雲下ノ層や雲中ノ層にあるそれと比べると大分容量が少ない。
雲上ノ層にはまだ俺たち四人しか住んでいないというのも理由の一つだけど、雲上ノ層では日差しが強すぎてまともに農業ができないため、貯水槽には農業用水として活用する予定がないのも大きい。
なにより、雲上ノ層では雨が降らないため、雲中ノ層や雲下ノ層からコヨウ車で水を汲んでくる必要がある。あまり容量が多すぎても無用の長物で、水を満たすだけでも一苦労だ。
ならばある程度小型の方がいい。
おおよそ五千リットルの容量を誇るこの貯水槽は全体を硬くて軽い魔虫甲材で作ってあり、東西南北に対して水を抜くための栓がある。有事の際にはこの栓を抜いて水を出し、バケツなどに汲んで火災現場などへ運ぶ形だ。
まだ中に水が入ってないけど、今後はコヨウ車で少しずつ運んで溜めていくことになる。
「これで、雲上ノ層に人を迎え入れる準備は出来たかな」
貯水槽の壁面を軽く叩きつつ、一緒に点検してくれているリシェイに声を掛ける。
リシェイは貯水槽から視線を逸らして、雲上ノ層を見回した。
「貸切状態も新鮮だったけれど、そろそろこの殺風景にも飽きたものね。誰か引っ越してきてくれるといいけど」
みんな、雲中ノ層に家を建てたばっかりなのもあって、雲上ノ層に引っ越してくる様子はない。
やっぱり、職場までの距離が遠くなるというのも理由の一つだろう。
現在、最も人気なのがタカクスの中心に位置する雲中ノ層の枝、次が雲下ノ層第一の枝だ。立地条件の大切さがよく分かる。
公共交通機関である辻コヨウ車の設置が発表されればさらに人気が傾きそうだ。
それに、この貯水槽の水は基本的に防災用で、家庭用の水は別途、雲中ノ層から運んでこなくてはならない。
天橋立の途中に取水場を設ける計画もあるにはあるけど、雲上ノ層の住人が増えてからにしようとリシェイ達との間で結論を出し、計画そのものを伏せている状態だ。
明らかに、雲上ノ層での生活は不便である。天候の影響から解放されるなどのメリットもあるけど、是が非でも移り住みたい環境ではない。
せめて、タカクス内の枝の行き来をもっと簡単にしないと……。
「もっと人が増えれば、水屋を始める人が出てもいいと思うけれどね」
点検を終えて自宅に帰ろうと足を向けた時、リシェイが話題を振ってきた。
リシェイが言う水屋とは、摩天楼や大規模な都市などで水を売り歩く商売だ。
前世でも江戸時代には似たような商売人がいて家々を回っていたらしいけど、世界樹における水屋はコヨウ車で水を運搬する。
取水場や貯水槽でしか水を汲めない世界樹の上では、水場までの距離が遠い家に住む人々相手に水屋が成立し、摩天楼や大規模都市でかなりの需要がある。
「雲下ノ層の第二の枝とか、第四の枝の元キダト村地区とかなら水屋の需要もあるんだろうけど、雲上ノ層はまだ俺たちしか住んでないからな」
「不便を解消するには住人が必要で、住人を増やすには不便を解消する必要があって――ままならないわね」
「ゆっくり誘致していくしかないね」
自宅に到着して玄関を開ける。
正面廊下を突っ切って左に曲がればダイニングだ。
「テテン、もう仕事は終わったのか?」
ダイニングのソファに横になっていたテテンに声を掛ける。
時刻は日が傾き始めたばかり、いわゆるお昼時だ。テテンの仕事を考えるとずいぶん早い。
「……ランム鳥、納品、されない」
「あぁ、キリルギリに小屋ごと潰されたから、今は数を増やしてるんだった」
繁殖させてキリルギリの襲撃前の状態に戻すのが先決と言う事で、すこしばかり出荷制限を掛けている。
すでにタカクスのランム鳥は世界樹北側の重要なタンパク源であり、出荷制限もそこまで厳しい物ではない。しかし、春の今の内から繁殖に取り掛からないと秋頃の冬支度の需要増加を乗り切れない。
よって、燻製にするランム鳥の数を減らしているのだ。
「マトラの燻製は?」
「……下準備、してる」
つまり、今日はフリーって事か。
ならちょうどいい。
「テテン、リシェイと一緒に摩天楼化記念祭の準備をしてくれるか? 俺はメルミーと屋台の準備とかしないといけなくて、手が足らなかったんだ」
「……リシェイお姉さまのためなら」
いきなり体を起こしたテテンはさっそく出かける準備をするといって二階へ向かった。
俺はテテンを見送り、リシェイにソファを勧める。
「テテンの準備が整うまでのんびりしよう」
「そうね」
リシェイと並んでソファに座り、水の入ったコップを傾ける。
「摩天楼化記念祭だけど、アクアスからケインズさんとカラリアさんが来るそうよ。他にも、ヨーインズリーとビューテラームの創始者一族から手紙が来てる。屋台の準備が終わったら事務所に顔を出してくれるかしら?」
「分かった。メルミーと一緒に行くよ。ちなみに、ケインズはなんて書いてた?」
「自分で見た方がきっと面白いと思うわ」
リシェイが悪戯っぽく笑う。その笑顔だけで、手紙の内容には察しがついてしまうけれど、リシェイが楽しそうだから良しとしよう。
「それにしても、摩天楼の創始者一族が来るって言うのは驚きだな。代理人に古参が来るとかならわかるけど」
それなりに重い立場の人たちだから、簡単には動けないと思っていた。
分類上は摩天楼になったとはいっても、タカクスはまだまだ発展の余地を多分に残している。ヨーインズリーやビューテラームと肩を並べられるかというと首を横に振らざるを得ないだろう。
顔を合わせるとしても、大分後だと思っていた。五百年後とか、それくらい。
「摩天楼が世界樹の東西南北に揃ったら、かねてから計画していた事業に参加してほしいそうよ。今回の来訪理由にはそういった思惑もあるみたいね」
「やっぱりか。キリルギリの件もあったからあんまり事業に手を出したくはないんだけど」
ただでさえ、ランム鳥の飼育小屋を壊されたりしてくるしいのに。
なんにせよ、話を聞くだけは聞いておこう。参加するかどうかはその後の交渉次第だ。
「摩天楼の創始者も来るとなると、宿は第三の枝に部屋を用意しておかないといけないか。日程調整とか、今から間に合うかな」
「手紙を貰ってすぐに宿との連絡を取ったから、大丈夫よ」
流石はリシェイさん、仕事が早い。
「いい機会だし、摩天楼の社会的な立場とか、役割や義務も聞いておいた方がいいわね。向こうは先輩にあたるのだし」
「そうは言っても、役割に関しては事情が少し変わって来るんじゃないか? 通貨発行権とかさ」
現在世界樹で出回っている通貨は鉄貨、玉貨、果皮貨の三種類。ヨーインズリーとビューテラームだけが発行権を持っている。
鉄貨は鉄嘴鳥から、玉貨は魔虫のレインボーインセクトから、果皮貨は世界樹の実の皮から作られる。摩天楼に住む一流の中の一流職人がこれらの通貨を偽造できないように彫刻を施し、染色などの処理を行って流通する。
偽造できない事もないけど、大概は割に合わない。
タカクスではそこまでの技術力も資産もないし、世界樹全体を考えれば通貨発行を行うのはヨーインズリーとビューテラームだけで手が足りている。
俺が受けたような建築家、建橋家資格の試験もタカクスでは実施できない。
建橋家が俺しかいないし、何より調査能力がない。建橋家資格試験には受験者の人柄や仕事ぶりを探る事前調査があるけれど、タカクスの人材では調査の実施自体が不可能だ。
「タカクスが出来る事、できない事を正確に見極めておかないといけないな」
さしあたって、祭りまでには色々と確認していくことになる。
細々と祭りについての話をしていると、玄関の扉が開かれる音が聞こえてきた。
同時に聞こえてきた適当な歌声がだんだん近づいてくる。
「ガラゴロ、ガラゴロ、お水を運ぶ、メルミーさんが、ご登場!」
ダイニングに入って来るなり、メルミーがポーズを決める。足元にはキックボードもどきのなれの果ての手押し車と、それに乗せられた木壺があった。メルミーの言葉から察するに、壺の中身は水だろう。
「手押し車としての使い心地は悪くないよ」
メルミーが報告しながら、木壺を指差す。
俺はソファから立ち上がって、木壺をキッチンへ運ぶのを手伝う。
「わざわざ汲んできてくれたのか。仕事が終わってから俺が汲んで帰ってくるつもりだったんだけど」
「使い心地を試してみたかったからね」
メルミーが手押し車を片付けつつ自慢げに語る。キックボードとしては落第だったけど、手押し車としては合格と言う事らしい。
「これも適材適所かしらね」
「え、なに、適当白書?」
「そんなものは発行しないで」
リシェイとメルミーの会話を聞き流しつつ、俺は水の入った木壺をキッチンの隅に置く。
これで今日の夜も風呂に入れる。
普段使い用の壺に水を移し替え、水差しとメルミー用のコップを持ってダイニングに戻ると、用意を整えたテテンがリシェイ達の会話に加わっていた。
メルミーがリシェイとテテンに向かって人差し指を左右に振りながら何やら講釈を垂れている。
「メルミーさんが思うに、健気さって立場が変わっても尽くす姿勢だと思うんだよ」
……適当白書からどういう変遷を経て健気さ云々の話題に転がったのかを、むしろ聞きたい。
俺の疑問など露知らず、メルミーはズビシッと手押し車を指差す。
「乗りものとしては力及ばなかったこの子は今こうして手押し車としてよみがえったんだよ。つまり、これこそが健気!」
「おぉ……!」
テテンが拍手する。メルミーの主張を好意的に受け入れたようだ。
隣ではリシェイが手押し車を眺めている。
「それで?」
合いの手と言うのは少々投げやりな感じがするリシェイの言葉を受けても、メルミーは自信満々で胸を張る。
「それでね、この手押し車に名前を付けようと思うんだよ。ケナゲンと!」
「適当ね」
「適当な名前を付けても精一杯働いてくれる健気さがあるんだよ、ケナゲンには」
「適当なところは否定しないのね……」
「事実だからねー」
ケナゲンの切ない境遇に同情を禁じ得ない話だ。
俺がダイニングに戻った事に気付いたリシェイがソファから立ち上がると、それを合図にしたようにメルミーとテテンも立ちあがった。
「それじゃあ、お昼の仕事に行きましょうか」
リシェイが鞄を片手に玄関に向かう。
リシェイの後をテテン、メルミー、俺の順で追った。
当然ながら、ケナゲンはお留守番である。




