プロローグ
「よし高楠、最後に名刺もってそこに立て」
酔っぱらいの絡み方を十全に発揮しながら、先輩が居酒屋の横のコンクリ壁を指差してくる。
何をするつもりだろうと思いながら、俺は自分の名刺を取り出した。三ヶ谷都市開発株式会社、高楠天音と二つの文字列を確認する。
「名刺を胸の前に掲げろ。写メ撮ってやるから」
「囚人みたいじゃないですか?」
とか言いつつ、先輩の言われた通りに名刺を胸の前に持ってくる俺も相当に酔っぱらている自覚がある。
先輩は笑いながら俺の言葉を否定した。
「何言ってんだよ。お前がその名刺を渡した相手と初めて合意を取り付けた記念写真くらい撮ってもばちは当たらねぇだろ」
記念写真まで取るような事だろうか。完全に酔っぱらいのテンションだ。
だが、先輩の言葉には俺たちに奢ってくれた上司も頷くところがあるようで止めるようなことはしなかった。
俺も、先輩が今日の俺の大手柄を喜んでくれていることは分かるので、先輩が構えたスマホの前でピースとかしてみる。
嬉々としてスマホを構えた先輩が口を開く。
「それに、会社の囚人って事で丁度いい。高楠天音模範囚って感じでよ」
台無しだ。
上司もこれには思うところがあったらしく、苦笑しながら口を挟んでくる。
「囚人って、お前な」
「それじゃあ、運命の奴隷って事で」
ああいえばこういう、を地で行く先輩には何言っても無駄な気がした。
カッコよさげに聞こえる分、幾分かマシか。
俺に向けてスマホで写真を撮っている先輩の横で、上司が俺を見る。
直前まで三人で飲んでいたから当然だが、上司の顔も酒が入っているとすぐにわかるほどに赤い。明日は二日酔い確実だろう。
しかし、上司はふっと仕事用の顔を見せた。
「高楠君、今日はよくやった。改めて言うが、正真正銘の大手柄だ」
仕事用のきりっとした顔で言われると途端に照れくさくなってしまい、俺はつい視線を逸らした。先輩からカメラ目線を要求される。
香寺というこの市における駅周辺の開発事業計画の話が持ち上がったのは一昨年の暮の事。
俺が所属する三ヶ谷都市開発株式会社が市と提携して進めてきたこの開発事業に、俺は実務経験を積むために派遣されてきていた。
上司が褒めてくれたのは今日俺が取り付けた駅近くのビルの取り壊しと再開発の合意だ。
「あのビルの権利者を口説き落としたのは本当に大手柄だったよ」
「先輩が経営状況を調べていてくれたので、俺はただ話し合っただけみたいなものなんですけど」
「その話し合いがすんなりいかない事がいかに多いか、君も入社してから何度となく経験しているだろう。二週間程度は見積もっていたが、まさか半日で合意を取り付けるとは思わなかった。本当によくやってくれたよ」
これで大分計画に余裕ができた、と上司は笑う。
「明後日は市役所で進捗状況を報告する会議だ。君にも少し話をしてもらうから、遅れないように注意しなさい」
「はい、気を付けます」
ここで市の会議に遅れたりしたら印象最悪だ。気を付けなければ。
写真を撮り終えた先輩がスマホをポケットに突っ込むと、ちょうど良くタクシーがやってきた。
「写メは後で送るから」
面白おかしく編集されてそうな気配がひしひしとする笑顔で先輩が約束してタクシーに乗り込んだ。
「高楠君は乗って行かないのか?」
「逆方向ですし、今日はもうホテルに泊まろうかなと」
「そうか。気を付けて帰りなさい」
「――帰る途中でトラックに轢かれて異世界転生とかすんなよー」
タクシーの中からラノベ中毒の先輩がおかしな注意を促してくる。
一人にすると危なそうな先輩を家まで送って行くと言って上司が乗り込むと、タクシーは夜の通りへ消えて行った。
タクシーを見送ってから、俺は居酒屋を後にして歩き出す。
明日が休みという事もあってしこたま飲んだせいで、いまから満員電車に揺られようものなら大惨事を招くだろう。
今日のところはホテルに泊まってやり過ごすのが吉だ。
開発計画で取り壊されるとはいえ、まだ駅近くのホテルは営業しているんだし。
「開発が済んだらまた駅近くで一泊するのもいいかもしれないな」
ビフォーアフター的な感じで楽しめそうだ。開発計画に携わっているからなおさらそう感じる。
酔いも手伝って口元が緩んでしまいそうになった。
先輩にも感謝しなくてはならない。
今回のビルの権利者を説得できたのは先輩が作ってくれた資料のおかげだし、入社三年目とはいえまだまだひよっこの俺に権利者と話す機会を作ってくれたのも先輩だ。
まだまだおんぶにだっこの仕事ぶりだけど、半日で合意を取り付けたことには先輩も驚いていた。
先輩が今日に限って柄にもなく飲み過ぎてしまっていたのも、俺が半日で合意を取り付けたことを我が事のように喜んでいたからで、普段ならタクシーで運ばれるのは俺の方だ。
優しい先輩だけど甘いわけではないし、仕事の教え方も口頭説明だけじゃなく考える時間や今日のように実戦訓練的なことまでしてくれる。先輩だって仕事があるだろうに、嫌そうな顔は全く見せないどころか今日みたいに成長を喜んでくれる。
恵まれてることを実感しながら、ホテルのある通りに足を踏み入れた。
「やっぱり人がいないな」
だから開発事業が計画されたわけだけど。
閑散とした通りを見て、足を止める。歩いて行ける距離に居酒屋や駅があるのに人が居ないのは、この道そのものが使いにくいからだ。
並行して走っている隣の道は車の行き来が多いにも拘らず歩道がないから歩行者も自転車も危なくて近寄れない。
そんな通りと接続されたこのホテルの面する通りは一方通行になっており、車も入りたがらない。
交通のデッドスペースとでも言おうか、このホテルの面する通りは誰にとっても入りにくい立地となっている。
香寺駅周辺はこの手のデッドスペースがそこかしこにあるため人の動きが阻害され、人の流れを改善するために開発計画が策定された。
――と、明後日の会議はこんな感じで始まるんだろうな。
脳内で会議をシミュレートしながら、ホテルに向かって歩く。
街灯が少ないのも気になると思っていると、自販機を見つけた。人の居ない通りに佇む自販機の物悲しさといったらない。
「そう言えば喉が渇いたなっと」
独り言が多いのは俺もまた酒に酔っているからだろう。
というか、喉が渇いているのも酒を飲んだからだな。
俺は自販機に硬貨を投入し、水とお茶のどちらを買おうか少し迷った後で同時押しを敢行する。
ガコンとペットボトルが落ちる音がした。
取り入れ口に手を入れる。街灯が少ないせいで目の前にペットボトルを持って来ないとどっちが出てきたのか分からなかった。
「お茶か」
汝、爽やかなる時も健やかなる時も美しき時もお茶を飲む事を誓いますか、というコマーシャルで有名なお茶である。
キャップを捻ってやるとキュッと音がして開封される。
一口飲むと、思っていた以上に喉が渇いている事に気が付いた。
自販機に背中を預け、勢いに任せて半分近く飲む。
「あぁ、落ち着く」
仕事で褒められて、先輩や上司に酒を奢ってもらって、帰りにこうしてひとり落ち着いてお茶を飲む。なんだか少しだけ幸せな気分だ。冬の身を切るような冷たい夜風も、酒で火照った体に気持ちが良い。
明後日からは色々と忙しくなるだろうけど、それも含めていい気分――
「っ飲み過ぎたかな?」
一瞬眩暈がして、額を押さえる。
ハイペースで飲んでいた先輩につられないよう、抑えて飲んでいたはずだけど。
早めにホテルにチェックインした方がよさそうだ。
そう思って自販機から背中を離した瞬間、足から力が抜けた。
迫るコンクリートの地面に慌てて手を突く。手元から離れたペットボトルが地面で一度小さくバウンドし、中身を道路に零す。
転がるペットボトルの行く先に視線を向けると、自販機の取り入れ口が視界に入った。
中にお茶のペットボトルが取り出されずに残っていた。
まさか、と思い取り入れ口の中に手を伸ばす。
指先に触れた取り入れ口の中のお茶は熱いくらいだった。
季節は真冬、放置されたペットボトルのお茶なんてすぐに冷たくなるはずにもかかわらず、何故こんなに温かいのか。
そんなもの、ついさっき自販機から出てきたからに決まっている。
視界が端から黒で塗り潰されていく。
一昔前、自販機の取り入れ口に毒を混入した缶やペットボトルが放置されていた事件が流行っていた事を思い出す。
まさかと思うが、そんな古典的な無差別事件に巻き込まれたのだろうか。
転がった飲みかけのペットボトルがこちらに底を向ける。
「はは、やられた……」
底にセロハンテープが張られている。底に小さな穴を開けて毒を混入後、テープで穴を塞いだのだろう。
閉ざされていく視界の中で、先輩や上司、今日話し合ったビルの権利者の顔が浮かんでは消えていく。
まだこの仕事は始まったばかりなのに。
もっとこの仕事を続けたいのに。
いくら心の中で叫んでも、俺の意識は無情にも黒で塗り潰されていった。