プロローグ
この作品にはいじめの描写があります。苦手な方は注意してください。
―三年前―
朝、登校すると、上靴が靴箱の中から消えていた。仕方なく、靴下のまま教室へ行く。
座ろうとした席の机には、油性マジックで書かれた『死ね』『キモい』『消えろ』などという罵詈雑言があった。
「…」
けたけたと聞こえてくる耳障りな笑い声を無視し、そのまま席に着く。他のクラスメイトは、こちらを全く見ようとしない。
油性のマジックで書かれた落書きを、消しゴムで消していく。落書きの薄い跡が連日次々と重なって、机の色は黒ずんできている。
それが、いつもの朝の光景だった。いじめっ子にとっても他のクラスメイトにとっても、あろうことか自身にとっても、それが日課になってしまっていた。
悲しくないわけではなかった。ただ、反応するといじめっ子を喜ばせるだけだということを、理解していただけだった。
―現在―
神無月結也は、高校一年の後期から違う高校に転入することになった。奇しくもその高校があるのは、彼が中学一年まで暮らしていた町だった。
諸々の手続きはすでに済ませていた。今日から学校だ。余裕をもって登校し、言われていた通り職員室で担任と落ち合い、教室へ向かう。その道すがら、担任が真面目な顔で、結也に話しかけてきた。
「神無月、私のクラスには、少々変わった生徒がいる。だが、大袈裟に驚いたり、茶化したりはしないでほしい。彼女にも、事情があるんだ。」
「…はあ。分かりました。」
前もって釘を刺しておかなければならないほど、奇妙な生徒なのだろうか。結也はむしろ、どんな変人なのだろう、とわくわくしながら教室へ向かった。
事前に担任から話を聞いていたのだろう。担任と結也が教室に入ると、立って喋ったり遊んだりしていた生徒たちが、すっと席に着いた
「今日からこのクラスの一員になる、神無月結也くんだ。中学一年生の時までは、この近くのM中学校に通っていたから、知り合いだというやつもいるかもしれないな。じゃあ、神無月、一言」
担任にそう言われるも、結也はぽかんと、教室の一角を見て固まっていた。
そこにいたのは、ハロウィンによく見る、顔つきカボチャの巨大な張りぼてを被った、女子生徒だった。
「…神無月?」
「…え…っああ、えっと」
あまりの衝撃に、自己紹介の間も、結也は上の空だった。席に着いてからも、ついつい目がいってしまう。
我慢できず、休み時間、話しかけてくれたクラスメイトに訊いてみた。クラスメイトは親切にも、気さくに答えてくれた。
「ああ、ジャックのこと?」
「ジャック?」
張りぼてを被っているのは、どこからどう見ても―といっても、顔は全く見えないが―女子生徒だ。ジャックというのは、あだ名でも珍しい。
「おう、あだ名だよ、ジャック。あいつ、入学式もあれで来てたよ。…何か事情があるんだろうけど。」
「入学式も、って…」
絶句し、ちらりとジャックの方へ目をやると、カボチャの黒い目がこちらを見ていて、結也は慌てて目をそらす。
「ま、普通に喋るし、面白い奴だよ、あいつ。仲良くしてくれな。」
そう言われてしまっては、あからさまに避けるわけにもいかない。
好奇心も手伝い、結也は次の休み時間に、ジャックの席に近づいた。
「ジャック…だっけ。俺、転校生の神無月。よろしくね。」
ぐるりとこちらを向いたカボチャだったが、
「うん、よろしく」
と言った声は普通の女子で、その奇妙なギャップが、さらに不気味だった。
☆
放課後、様々な部活を見学した結也が、帰ろうとした時だった。屋上に、人影が見えた。
大きなオレンジ色の頭で、すぐに分かった。ジャックだ。
―何してんだろ?
屋上、という場所に一抹の不安を感じるが、ジャックが何かをしようとしている気配もない。やや気にかかったが、あの不気味なカボチャ頭に下から叫ぶ気にもなれず、かといってわざわざ屋上まで行く気にもなれなかった結也は、そのまま帰路についた。