赤い糸
紺の制服に薄手のコートを重ねて学校を出た。世間は春だと浮き足立っているけれど、まだまだ肌寒い。
午後四時、粗方の生徒は部活に行ったか帰宅したかで、最寄りの駅まですっと伸びた通学路に、うちの生徒は見当たらなかった。どころか、画一的な住宅に縁取られたその道はすっからかんで、人っ子一人いなかった。ただいつものごとく、ずっと遠くの空に白いクジラが舞っているのみ。悠々と、ゆらゆらり。なぜだか奴が妙に眩しくて、手で庇を作って校門のすぐそばに立ち止まる。
奴は私にしか見えないらしい。正しく言うならば、他の人にはあくまでクジラ型の雲であるそれが、私にはもっと繊細に、緻密に、あたかも本物であるかのように見えるのだ。いや、実際、『生もの』なのかもしれない。時に優しく、時に激しく、水滴のかたまりと言うにはあまりにリアル。
「こんにちは」
無言で見つめているのも失礼かと思って、挨拶なんてしてみる。いいんだ、誰も見ていないんだから。もしかして、私は寂しかったのかもしれない。それとも或いは。
「いいお天気ですね」
今度は、挨拶だけでは駄目な気がしてきて、無難な天気の話を持ち出してみた。もちろん奴が返事などするはずもなく、けれど私の口は止まらなかった。昨今の経済はどうのだとか、最近万引きが増えてだとか、他愛もない世間話をだらだらクジラ相手に語った。奴はのんびり体をうねらせて、人の話を聞いているんだかいないんだか。
その内ニュースの受け売りや馬鹿みたいな噂話では満足できなくなって、「ちょっと聞いてくれないかな」。ぬるい唾を飲みこんだ。家族のこと、友達のこと、学校のこと。誰かに相談すれば「思春期によくある悩み」なんてまとめられてしまいそうな、一般的な生活のこと。胸の奥の方、たんすの隅の隅で丸くなっていたそういうものが、出口を見つけて私の唇から垂れる。誰も聞いてくれずに溜まった熱量は、一心にクジラへと注がれた。
「嫌なわけじゃないんだけどね」
「なんかもやもやして」
誰もが一度はどこかで耳にしたことのあるような、普通すぎてうざったい台詞が後から後から煙みたいに出てくる。クジラの態度は相変わらずで、まるで私一人の芝居だった。一少女の告白は、終いには懇願と憤怒にすり替わり、独りよがりで自分勝手な吐露に。刻々と、自分の言葉の意味を失っていく。訳が分からなくなる。
「どうにかしてよ」
「もう死にたい」
「なんとかしてよ」
幾度も繰り返す私。舌が回らなくなって、息が苦しい。周りの音なんて耳から吹っ飛んでしまう。世界に二人だけの錯覚。
やがて、手首に淡い痛みを覚えた。涙の粒を抱えた瞳で見ると、一の字に切れた左手首から健康的な赤が滲み、甲を這っている。血を見たのはずいぶん久しぶりだからすっかり動転してしまって、どうしてとか、いつからとは考えなかった。ぽけっと眺めている間に、紅の蛇はのたうちアスファルトに滴り落ちた。
途端、降り始める弱い雨。これが春雨というやつか。滑らかな指が何本も、私の肩を撫でる。静かに柔らかくあらゆるものを濡らしていく彼女は、地べたにも落下して蛇と戯れた。朱と清澄は交わって、互いに侵食し合いながら尾を引き、流れていく。
足下が深紅に熱されるほど、私の頭は冷却され覚めていった。フラッシュバックする自己満足なストレス発散の数々。私から解き放たれた不満のパンチは、全てクジラの腹に吸い込まれていった。全部、奴が受け止めてくれたのだ。心が軽く穏やかになっているのが分かる。答えなんて、必要なかったんだ。
ごめんと、音もなく呟く。体の中にぽこんと何かが生まれた感覚が伝わる。寛容な奴へと芽生えた、深い愛情。恋愛感情ではない。何かもっと別の、敬愛にも似た、愛。
ぽろんと雫が溢れたのを引き金に、両目から温かな液体が顔を出し、頬を包む。私は傘をさすことも忘れて、泣いていた。ごめんとありがとうが脳内で錯交する。思いはひたすらにクジラへ。
しばらく経って夕闇がすぐそこまで押し迫った頃、涙はもはやか細い一筋を残すばかりとなり、泣き顔を覆い隠してくれていた春雨も去った。向こうには、特に変わった様子もない奴の姿。
ふと幾つもの水たまりを抱いた道路に目をやると、手首からはるかクジラの所まで、赤い糸がおぼろげに引かれていた。
閲覧ありがとうございました。
誤字脱字や不満等ありましたら、コメントにてお知らせくださいませ。