雪国のかえりみち
ヒュウゥゥゥ……、という音がむなしく俺の心を通り過ぎる。北風の擬音として余りに陳腐だが、案外その通りなので少し意外だ。最近は午後の五時にもなると辺りは暗くなり、街灯の光が頼りとなる。太陽の恩恵がなくなるその分、地表の寒さは増すわけだ。お陰で俺は今、身を切るような痛みを味わっている訳である。実際切れそうなのは、耳なのだが。マフラーからはみ出した部分だけ家に帰った途端、某Saint Nicholasがソリを曳く、歌にまで歌われている有名なネネツ人の心の友の、夜道を照らすランプのように真っ赤っかなのが判明するとかまじで勘弁願いたい。喩えが季節はずれだけど。季節はあってるけど、もう終わったし。ていうか無かった。始まる前に終了されていたんだよ、あれは。などと、いつも通りの愚痴を心の中で反芻しながら帰り道を急いでいた、その時だった。
はらり、何かが俺の鼻の頭に舞い落ちる。
じんわりとそれが自分の熱で溶かされていくのを感じながら、同じく真っ赤っかな鼻と綺麗な白との見事な色の対比の思いを馳せつつ上を見上げる。すると、そこには舞い降りてくる無数の白い軍隊が。……すごく、幻想的だ。などと感動する前に「さっきまで降ってなかったくせに、学校から帰るタイミングで降るんじゃねーよ」とか全く幻想的ですらない感想を抱いてしまう自分が悲しい。嗚呼、雪を純粋に楽しめていた、あの頃に帰りたい。そんな幻想は、この右手でとっくの昔にぶち殺されましたとさ。
とは言えこの俺が、上空から襲い来つつある純な白の暴力に為す術も無く屈するかと言えば、そんなはずもなく。バサァッという効果音(サウンドエフェクトとも言う)と共に我が身を守るべく俺が頭上に翳したのは―――一本の、傘。
雪国出身足るもの、此の程度の備えは当然だー! などと自分の用意周到さに惚れ惚れしながら意気揚々と勇んで一歩を踏み出した先には、おおきなおおきな水溜まり。……一文で四字熟語を二つも使うからこうなるのだ、と後悔してももう遅い。シャーベット状に踏み固められた雪をその内に秘めしうぉーたーは、想像以上の冷たさを誇っていた。最早ふろーずんの域だ。長靴にモードチェンジしそびれたスノトレには早くもうぉーたーどもが侵入し、足の指たちを苛んでいる。特に小指が痺れるようで普通にキツい。
―――この時、俺は重大な判断ミスをしていた。誰も頼んでいないのに、その場で天を仰いで阿波踊りを披露している現状では気付く由もなかったが、この時俺は傘を見捨てでも、出来うる限りのスピードでこの場を離脱すべきだったのだ。雪が降る、ということの意味を、忘れていた訳では無いはずなのに。
のんきに足の心配をしながらゆっくり歩む俺の耳に、
シュウウウ……と地の底から沸き上がるような音が、
それは直ちに、辺りの地面全体に広がり、
俺の周りを静かに取り囲んで、
ヤツらは、完全にその姿を俺の前に現した。
俺の胸ポケットの携帯が、午後六時を迎えた事実を告げて、仄かに瞬いた。
まず一番近くにあるヤツが勢い良く吹き上がり、俺の足めがけて容赦なく極寒の鞭を振り下ろす―――しかし、
「ふッ!」
単調なヤツの軌道を完全に読み切り、俺の足は斬撃を避けきる。だが、甘かった。背後からの狙撃までは見えず、攻撃を喰らってしまう。ズボンには真一文字に濡れた痕がついた。……地味に冷たい。
こいつらこそが、俺の冬という季節における真の好敵手であり宿命の天敵、消雪パイプ、だ。
四つないし三つの穴から繰り出される水流は、全てが揃っているなら大人しいものだ。ちょぼちょぼと道路の融雪という通常業務を堅実に果たしてくれる。しかし、一つでも塞がれた残りの仲間の怒りは、凄まじい。特に独り身のヤツの攻撃力は人智を超えた恐ろしさを発揮する。ぼっちで寂しいのか。
今度こそ、と覚悟を決め、一歩を踏み出す。三メートル前方には、一際高く噴出しているヤツがある。しかしその攻撃だって完璧じゃない。一個としてのヤツには必ず攻略方法がある。それは、―――避けること。
考えてもみてほしい。円上を四等分するように空けられた穴から液体は、それぞれ九〇度の角度に出撃する。となれば、九〇度の壁の内側はガラ空き、いわば安全地帯になるのである!
ヤツを今一度見やると、一つは膝の高さまで到達しているかのようにも見える。……踏み入れる場所さえ間違えなければ無傷で生還できるはずだ。自信と共にズンズンと彼の地まで足を進める。さあ、決戦の時。
出来うる限り、宿敵に接近する。そこから慎重に足を垂直に持ち上げ、下ろす。大丈夫、足は壁の中にある。さらに揃えるようにもう一歩。……無事、攻撃をかい潜り両の足が健在そのもので眼下に存在するのを見て、俺は何とも言えぬ高揚感に包まれる。達成感とも全能感ともまた違うこの喜び。勝利の喜びを胸に安全地帯から抜け出すと、そんな気分に水を差す無粋な感触を感じて、顔からさぁと血の気が引く。ぬかったか、俺の計画は完璧であったはずなのに! 今起こったことをありのままに話すと、わざわざ避けたのに、壁から足を抜く時自分から引っかかりにいったらしい。……ふっ、敵ながら天晴れだ。もはや小指とか、存在ごと消滅している。
時々刻々と行動パターンを変え、その軌道は予測不可能。跨ぎ越えた、と思った瞬間後ろから狙撃される。自分の視界の外からだって、斬撃は一寸の恩赦もなく浴びせられる。さらには車道からも援護射撃が飛来して―――、
単騎にて最強、群を為せば敵は無し。まさに無敵の戦闘集団、それが此の雪国の誇る、対歩行者専用追尾型戦略的纖滅兵器―――消雪パイプである。
すでにこの十歩の内に膝までびしょ濡れだ。このまま、為す術もなく敗れるのか……。
待て、クールになれよ、俺。確かに避け続けることは不可能だ。けど、正攻法だけが突破口だとも限らないぜ?
直ちに俺は行動に移す。つまり、噴出口を踏むッ! ヤツがじたばたと蠢く感触を感じながら、俺は唇の端を吊り上げる。もう攻撃に怯えることも無い。これで俺様の完全勝利だ!!
自分の作戦成功に意気揚々と次なる一歩を踏み出した俺は、
ぶしゅー、とそいつに後ろから狙撃されましたとさ。
これで話が終わるかって? そんな訳がない。何故なら俺が家に辿り着かないからだ。時間としてはもう家に着いてもいい頃合いなはずなのだ。しかし、全行程の半分すら届いていないと言うのは、此は如何に。さっすが雪国。冬本番の本気は伊達じゃない。
対歩行者兵器との攻防を経て、俺は今信号待ち中だ。異常に拘束力の強い赤ランプにだけは捕まらないように、との祈りも分厚い雪雲に遮られ、ストライプまであと一歩のところで緑のおじさんが消えた。五十メートル先で点滅する翡翠を見て、童心に帰ってリアルBボタンのスキルを発動したくなった俺は、決して何も間違っていない。地雷原からもろに斬撃を浴びながら自己ベストを更新し、うっすらと白くなった地面へ盛大に額から挨拶をかました武勇伝は割愛だ。摩擦係数が零に近い靴裏のせいにでもしておこうか。
……それにしても、長い。明らかに交通量が絶滅寸前だというのに、この長さ設定は、ない。車の通らない瞬間の方がむしろ多く、このまましましまの上を駆け抜けてしまおうか、とも思うが、それも出来ない。何故なら、対岸に小学生がいるから。まだ勧善懲悪を信じている無垢な瞳に、交通ルールを堂々と破るお兄さんの姿なんて見られたくないのを見栄っ張りとか言わないで欲しい。車なんてどこにもいない道路の向こう側で、未だに直立不動な赤いおじさんを虚しく睨む。
ひび割れた鳥のさえずりと共に、おじさんが下に移動した。すかさず俺は前に飛び出す。焦るな、しかし早足で。車道中央にも罠が仕掛けられていたが、難なくクリア。大きく迂回するスペースがない歩道では難しいが、横断歩道なら問題ない。さらにペースを早めて小学生とすれ違い、迷わず対岸を目指す。
何故、あの時振り返ったのか、疑問に思う。丁度おじさんが点滅したからか、さえずりが止んだからなのか。
俺と同じく対岸に辿り着いていた少年は、あ、と確かに言っていた。彼の視線は道路中央。目を凝らせば、何かが転がっているのが見える。取りに戻ろうにも、何時おじさんが直立不動に戻るか判らないといったところなのだろうか。
早めに学校を出たのに家に着くのが遅くなる、とか、寒いから早く帰りたいのも全て本心のはずだった。けれど彼の目を見て俺は、何故か前に飛び出していた。折角渡り切ったこの横断歩道を、引き返して。寒さで頭が朦朧としていたからだろうか。いや違った。歩行者纖滅兵器との戦いの中で勇者的な行動がとりたい衝動に駆られたからだ。
そんな残念な理由でも、さっきまで寒さで強ばっていたとは思えないほど、手足は俺を前へ前へと運ぶ。男の子の落とし物が見えた。それを拾って対岸まで突っ切ろうとしたところで、
おじさんに赤い後光が差して、
今まで姿も見せなかった車が、ゆっくりとこちらに迫ってきて、
相変わらず対歩行者専用追尾型戦略的纖滅兵器の一撃が、俺の顔を直撃し、
混乱した俺は、地面の上の包みに覆い被さって、
結果。無事でした。
衝撃に備えて歯を食いしばっちゃったの、無駄だったね。そして俺から三メートルは離れてきっちり止まってる車。本当にご迷惑をお掛けしました!
車のヘッドライトに照らされて。絶望を表現する四つん這いのポーズで固まったままの俺に、好敵手は静かに水を浴びせかけてくるのでした。
ぼく? ほら、これ。俺が命がけで守った君の落とし物だよ。うん? お兄さん、かっこよかったって? そりゃどうも。でも何で目が笑ってるのかなぁ明らかに馬鹿にされてる畜生が。で、それはなぁに? そっか、バレンタインチョコか。うん、毎年多すぎるから、前々からちょっとずつ貰おうって作戦なのね。ごめん、お兄さんもう前が見えない。
体全身が濡れ鼠。足下からしつこく冷水を吹き上げ、俺を狙撃しようとするヤツをぐりりと踏みつける。
こうして、雪国の宵は更けていく。消雪パイプ共との死闘を繰り広げながら、俺は家を目指してまた一歩、踏みしめた。