秘め事と目論み
気が付いたら、そこは見知らぬ天井だった。
朝から調子は悪かった。
ちょっとだけ、熱があるのもわかっていた。
でも、人員不足なのにそんな事で休んでいる訳にはいかない。
私達の命が掛かっているのだ。
それに、この仕事が終われば、十分とはいかないけれど休みがもらえる。
それもでの辛抱だと、つい頑張ってしまったのだ。
「まだ寝ていろ、熱は下がっていない」
起き上がろうとしたところに、大きな手で制止された。
「だれ?」
いつもの声と幾分違う、枯れた声が出る。
知っているけれど、全然知らない人がいる。
そう思った。
「…だれ?か…、それはオレが言いたい」
彼は、体温計だと思うものを差し出し、銜えるように促してくれる。
私は素直にそれを銜えた。
そうすると、何も答えられなくなる。都合がよかった。
彼は、私がずぶ濡れで倒れていたと教えてくれた。
ずぶ濡れになった原因は分かっているが、正直その他の事は、よく憶えていない。
でもちょっとしたミスが、大きな事故になる事を身をもって知った。
(修正が必要ね…)
ちょっと正常に働かない頭を必死で働かせて、昨日の事を整理する。
アレコレ考えていたら、ピピピッと電子音が聞こえた。どうやら計測し終わったらしい。
彼が、私の口からそれを取り上げる。
「…熱下がってきたな、腹は減ってないか?」
そういえば、今朝から熱の所為か食欲がなくて、食べていないに等しかった。
だからそう言われて、お腹が空いた事に気が付いた。
「ちょっと待っていろ」
私の返事を聞かずに、彼は部屋を出ていってしまった。
ゆっくりと体を起こして、周りを見渡した。
見知らぬ部屋、見知らぬ人。
見知らぬ服、見知らぬ光。
カーテンから溢れる光で、朝だと、そう感じる。
どこも同じなのに、全部が違う。
見慣れているはずなのに、見知らぬモノばかり。
一人でその場所に立った時、飄々とした私でも、不安を憶えた。
でも不安はない。
今は目の前の不安なベールは取り払われて、初めてなのに初めてじゃない、不思議で新鮮な気持ちが溢れていた。
見ず知らずの私を看病してくれる。
何も聞かずにいてくれる。
それは都合がよかったけど、何だかちょっとつまらない。
私が熱を出して、彼のマンションで看病を受たにもかかわらず、熱の方が一向に引かず微熱が続いていた。
『病院に行った方がいい』と言う彼を、有耶無耶に誤魔化して(多分誤魔化されていないと思うけど)それだけは勘弁してもらった。
まだ私達の体の違いがはっきりしていない今は、簡単には行けない。
病院なんて行ってバレでもしたら、誤魔化しきれないと思う。
でも、できる事なら、私達も彼等と同じモノを持ち合わせている事を願いたい。
神、という言葉は、口に出さない。信仰という言葉は、職業柄なのか持ち合わしてはいない。
でも、こんな時は、どうしても願わずにはいられない事を最近知った。
どうやら彼は学生らしい、早々学校を休む訳にもいかないと言っていた。
こんな時、私なら喜んで学校をさぼったな、と思いつつ、学校には行ってもらった。
自分の家に見知らぬ私を一人置いて行くのは、正直いい事じゃないのはよく分かっているつもりだ。
「家には家財意外のめぼしい物はない。何か持っていこうと思ったって、碌な事にはならないぞ」
と、彼は言った。
私は、
「大丈夫、命の恩人に、そんな事はしません」
笑ってそう言った。
私だって、お世話になった人に、恩を仇で返す事はしたくない。恩はちゃんと返すつもりだ。
彼の為に何ができるかわからないけど。
彼が学校に行き一人になると、私は彼の部屋を見てまわった。
部屋数は一人で住んでいるには、多い方だと思った。
一部屋は、私の寝ていた部屋。
もう一部屋は、彼の寝室。
そして、もう一部屋は、書斎のような…書庫、だった。
「凄い数」
壁一面と、図書館のように配置された本棚に、ぎっしりと詰め込まれた本。
部屋がそんなに広い訳じゃないから、本棚との間は人が一人ギリギリ入れるぐらいしかない。
そして、本棚にはいり切らない本は、本棚の上と床に積み重ねられていた。
床に積み重ねられていた本を一つ手に取る。
それは、自分の範疇外の本だった。
私は持っていた本を、元の場所に戻し、今度は本棚の本に目を移す。
内容はまたしても、範疇外、でも先ほどの本の内容とまったく違った。
次々と本を開いてみると、外国の言葉で書かれている本も混じっていた。
一応、本棚で本の分別をしているみたいだ。
そういえば、本はこの部屋でしか見かけなかった。
他の、寝室やリビング、キッチンのダイニングテーブルにも本は置いてなかった。
「意外に几帳面なんだ」
あの顔で、あのごつい体の仏頂面で、ここの本を丁寧に仕分けていると思うと、おかしくなる。
私はひとり笑いながら、その中の一冊を手にとった。
どこまでも同じで、でもどこまでも別。
ベッドの中で本を読んでいて、そう感じた。
読書は好きな方だった。
小さい時から図書館には入り浸っていたし。
学生の時は、遊びも半端じゃなかったけど、勉強も半端じゃなくやっていた、というのは友人の言葉。
「猪突猛進、一つの事しか見えなくなるからね」
と言ったのは、今は亡き友人。
あの時は呆気なかった。
彼女だけじゃない、私の、いや私達の大切な人達は、皆呆気なく逝ってしまった。
カーテンを開けて、窓の外を見る。
梅雨の最中なだけあって、雲が薄くたれ込めていた。
雨が降り出しそうな予感がする。
そして、彼が帰ってくる。
こういう時の私の予感はよく当たる。
「さてと、じゃあやりますか」
私は本を持って、書庫の戻る。
あそこまで整理されているのだ、この本が元の位置に戻されていないと怒るだろう。
そのままキッチンに入り、冷蔵庫を開ける。
その整理整頓された中に驚いて、そして先程の書庫と同じように、彼の顔を思い出しながらにやける。
私は頭の中で、あれこれと考えながら、中身を物色し始めた。
久しぶりに感じる、感情。
楽しいとか、嬉しいとか、待ち遠しいとか、そういった気持ち。
大分感じていなかったそれらが、萎れていたそれらが、水を得て花を咲かせるように、ポンポンと開く、そんな気分だった。
それは彼の所為なのか、居心地がいいと感じているこの部屋の所為なのか、それともそれら全部なのか、時間のない私には、確かめる時間はないと思う。
でも今はそれでいい。
きっとそれだけで、これから先もう少し頑張れるから。
私は、未来の事は考えない、そう心に決めていた。
予感は当たった。
小雨が降り出してその三十分後、彼は帰ってきた。
それまでに、私は何とか手慣れない物を作り終えていた。
「…これは、何だ?」
雨に濡れたからとお風呂何直行した彼は、キッチンに入って、眉間に皺を寄せている。
多分普通の人なら、凄く怖いと思われる表情だけど、この数日で慣れてしまったのか、恐いと思う事はなかった。
「久しぶりに作ったんだけど…あっ、味は大丈夫、ちゃんと味を見ながら作ったから」
本当に久しぶりだったから、まるで、初めて学校で受けた調理実習みたいだった。
「…もしかして、食べる物に、見えない?」
まさかね…ジャガイモも人参も少し歪だけれども、お肉も少しだけ焦げちゃったけど、
「いや、見えなくはないが、…食べられるのか?」
突っ立ったまま、じっとテーブルを凝視している。
「ひどいっ、ちゃんと味見したって言ったじゃないっ」
彼が作ってくれた食事で、自分とのの味覚とのズレがないはずだから、大丈夫だと思う…
「お世話になったし、いつも作っってもらってたし…」
何か自分で作ってみたかった。
誰かの為に。
そして、私の、この一時だけ考えないと決めた、この先の未来の為に…
「そういえば、熱はどうした?」
今思い出したという感じで、私を見ている。
「うん、少しあるけど、大丈夫。もう平気です。有難うございました」
私は、彼に向かって頭を下げた。
彼がいなければ、私はどうなっていたのか…
後々面倒になっていたに違いない。
ついでに言うと、彼がイイ人良かった。
悪い人だったり腹黒い人だったら、ちょっと困った事になっていたかもしれない。
困った事になっても、切り抜ける事はできる。でも大事になる。
だから、私を見つけてくれたのが彼で本当によかった。
「さ、食べよう」
私は彼を座るよう促す。
さて、これからが本番。
図々しいとは思うけれど、彼にホンノ少しだけ、私のわがままを聞いて貰おう。
恐い顔をして優しくてイイ人な彼に、どうやって頼み込もうか、私は満面の笑みで考えていた。