日常に入り込んだ困惑
夜、窓を開け放ち、その傍らに横になる。
星を見上げられるこの位置が、彼女に一番近い場所だと思うから。
多分本当は、オレの居場所なんて彼女からは見えないと思う。
オレも勿論、彼女の居場所なんてわかるはずもないから、見える訳もない。
この窓際で眠りに付くのは、オレの自己満足でしかないのだ。
今日は、七月七日。
彼女と逢って、そして彼女が消えて一年経つ。
奇妙な出合いだった。
ムシムシした雨上がりの夜、バイト終わりにコンビニに寄り、夕飯を買い込んで帰路についていた。
バイトの帰り道にしては、足どりは軽かった。
なにしろ、注文していた本がやっと届いたのだ。
ずっと待っていた。
店長から『届いたよ』と言われた時には、思わずにやけそうになったが、『笑うと恐い』と言われるオレが此所で笑うと営業妨害の何者でもない。
本屋のバイトは趣味と実益だから、辞めさせられると、オレとしてはちょっと痛い。
だから、かろうじてそれだけはやめた。
そして、いつもは自炊しているのだが、この時ばかりはその時間が惜しい。
だから、滅多に買わないコンビニの弁当なんかに手を出した。
上空の風が早いのか、先ほどまでの雲は何時の間にか跡形も無くなっている。
月が輝いていて、少し星の邪魔をしていた。
月明かりに照らされた道。
いつもより軽い足どり。
でも、この後に起る出会いと運命は、想定外の出来事だった。
自宅マンションの入り口に立つと、朝にはなかった笹飾りが飾ってあった。
やっと雨が止んだで、ら意気揚々と子供達が飾り付けたしたのが、目に見えるようだ。
このマンションは、家族向けの部屋が多い。
オレのように一人で暮しているのは珍しい方だ。
金銀と色とりどりの笹飾り、少しの風で、笹の擦れる音と共にゆらゆらと折り紙が揺れる。
その中に、笑ってしまうような幼い字で、面白い願いごとを書いている短冊に目がいく。
よくよく見ると、現実的な願いごともあったり、それは無理だろうと思うような突飛な願いごとがあったりで、子供とは何を考えているのか、本当に不思議な生き物だと感心してしまう。
しばらく笹飾りに見とれていたのに気がつき、そんな事をしている場合ではなかったと、マンションの中に入った。
エレベータホールで、ボタンを押す。
表示されている数字を見て違和感を覚える。
それは屋上にエレベーターがいる、という事を示していた。
こんな時間、屋上に用のある人間はいない。
もともと屋上には鍵が掛かっていて、特別な事がない限り、此所の住人は立ち入る事が出来ないからだ。
不思議だとは思ったが、管理人が立ち入ったのだろうと考えて、エレベーターが降りて来るのを待った。
オレが焦っているからなのか、今日のエレベータは、降りてくるのにやたらと時間が掛かっているように感じる。
やっと降りて来たエレベーターが、ゆっくりとそのドアを開く。
乗り込もうとして、気が付く。そこには…
雨が止んで幾分時間が立っているのに、ずぶ濡れになった女が倒れていた。
しばらく固まっていた。
そしてはと、このままではいけないと思い、とりあえず彼女に近寄り、様子を伺う為に顔を覗いた。
彼女もオレに気が付いたのだろう、うっすらと目を開けてこちらを見た。
「おい、あんた大丈夫か?」
このマンションで、彼女の顔を見た事がなかった。
ここに住み始めて長い方だと思うが、住人のある程度は知っている。
彼女のは初めてみた顔だ。
その彼女の顔が赤い。もしやと思い、額に手を当てると、この暑い最中でも熱があるのが分かった。
「ちょっと待ってろ、いま病院に…」
「まって…病院はやめて…」
オレが立ち上がろうとすると、それを彼女が阻止する。
「なっ…」
何故?と彼女を見ると、彼女は力なく倒れているだけだった。
どうやら、気絶したらしい。
おれは、困った。途方にくれた。
病院は駄目だという。
(じゃあどうしろと?)
このまま放っとく事は、絶対に出来ない。
「しょうがない」
時間もなさそうだし、オレはその間の状態でそっと乗り込み、エレベーターのドアを閉めてから自分階を押した。
夜というもあり、エレベーターにも乗り込む人も、廊下にも誰も人はいなかった。
オレは難無く彼女を担ぎ、何とか家の玄関を開けて、少し考えて、フローリングの床に横たえた。
「少し、我慢しろ」
ずぶ濡れの彼女をそのままベットに運ぶ訳にはいかない、オレは聞こえてはいないであろう彼女に声を掛けて、タオルと着替えを探しに行った。
元々叔母が住んでいたマンションだ。
時々ふらりと寄っていく彼女は、ここに自分の最小限の生活用品を置いている。
オレはそれを借りる事にした。
それらを持ち、彼女のいる部屋に入り、着替えさせなくてはと思った時、気が付いた。
「オレが…着替えさせるのか?」
親しい女なんて、近所にいない。
元家主の叔母は、遠い山の中に隠居の身。
「オレしかいないじゃん…」
時間がない、パッパとやれば、いいんだ…そう考えながら、彼女のボタンに手を掛けた。
意を決して、彼女の服を何とか脱がせて、体に付いた水分を拭き取り、何とか着替えさせる。
でもどうしても、白い肌に目がいってしまう。
男だからあれこれと、妄想も働いてしまう。
仕方がないとは思うが、病人にと、と思うと自己嫌悪に陥る。
何とか終わらせて、ベットまで運ぶ。
先ほどは必死で感じなかったが、彼女は驚く程軽かった。
女性とはこんなもんなのか、と変に感心してしまった。
別に女性に触った事がない訳でもないが、何故だかそう思った。
顔が赤い、熱は高そうだ。
とりあえず、熱を下げないとと思い、冷凍庫の奥底に仕舞いこんでいたはずの保冷枕を探し出し、何処かにあったはずの薬箱から、解熱剤と体温計を取り出した。
それらを持って、寝室に戻る。
ゆっくりと近寄り、様子を見と、息苦しそうだが、よく寝ていた。
そっと頭を持ち、頭の下にしいてやる。
そうすると、冷たさが気持ちがいいのか、少しだけ楽になったように息を吐いている。
薬はとりあえず、サイドテーブルに置いた。
なぜ、彼女を家に連れてくるなんて事をしてしまったのだろう。
病院はやめてと言われた時点で、何かヤバい事に巻き込まれているんじゃないのかと、とっさには思った。
たしかに、あの状況のまま救急車でも呼んでいれば大事になり、下手すると警察まで出て来かねない。
面倒に巻き込まれるのは目に見えている。
でも、きっとここに連れてくるほうが、もっと面倒な事に巻き込まれる可能性が大きい。
が、…何故だかここに連れてきて、ベッドに寝かせてしまった。
一通りの事をしてまた部屋を出ると、自分の服が濡れている事に気が付いた。
彼女を抱きかかえた時、くっ付いていたから自分も濡れたのだ。
このままではと思い、風呂場に向かうと、玄関先に荷物を置いたままだという事を思い出した。
なんだかんだと混乱しているな、と思いつつ、頭を掻きながら、風呂場に向かった。
それから、予定通りにコンビニ弁当を食べて、買ってきた本を広げるまではしたが、頭の中に入って来なかった。
知らない人間がいるからなのか、そちらの方に気がいって本に集中出来ない。
そんなもやもやした気分とそわそわした気持ちを持て余しながら、夜を過ごした。
のんびり更新になりますので、よろしくお願いします。