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第七話 狂化


焼け落ちた城壁の向こうで、なお燻り続ける火があった。

それは都市イデアの残骸であり、敗戦の名残であり、そして――終わり損ねた戦いの証でもあった。


列は、長く、重く、沈黙していた。


誰もが前を向いている。

だが、その足取りは揃わず、呼吸は乱れ、視線は時折、後ろへと引き戻される。

振り返ることを禁じられているかのように、それでも人は、焼け跡に未練を残す。


荷を捨てる者がいた。

手を引いていたはずの誰かを、いつの間にか見失った者もいた。

泣き声は、やがて声にならず、ただ喉の奥で擦り切れていく。


それでも列は進む。進まねばならない。


先頭では、かろうじて形を保った軍勢が道を切り開いていた。

刃は欠け、鎧は裂け、魔力は底を突きかけている。

それでも彼らは歩みを止めない。止めれば、終わることを知っているからだ。


目的地は、工業都市セクター。

煙と鉄に覆われたあの街に辿り着けさえすれば、まだ立て直せる。

誰かがそう言った。誰もがそれを信じることにした。


――信じるしか、なかった。


風が吹いた。


その風は、灰を運び、焦げた匂いを連れてきた。

イデアの残り火が、遠くなったはずの戦場が、まだ背後にあることを思い出させる。


そして。

誰よりも先に、それに気づいたのは――クロアだった。


視界の端で、列の揺らぎが一定の周期で波打っている。

歩幅の乱れ、荷重の偏り、転倒の連鎖。

前方三百、後方六百に渡る人員密度の低下と遅延。


(……このままでは、崩れる)


思考は冷静に、淡々と結論を導く。

進行速度は規定値を下回り、後衛の防衛線との距離は縮小傾向。

追撃を受けた場合、全体の六割以上が捕捉される確率。


最適解は明確だった。


列を切り分ける。

移動能力の低い者を分離し、機動力のある戦力で先行させる。

損耗を許容し、全体の生存率を最大化する。


合理的で、正しい判断。


だが――


「……ラテア」


その名が、思考の外から浮かび上がった。


視線が、無意識に列の中ほどへと向く。

人波に埋もれたその位置に、彼女がいるはずだった。


無事である確証はない。

しかし、いま優先すべきは全体最適――


(……違う)


一瞬だけ、演算が止まる。


合理性の中に混じる、説明不能の誤差。

排除すべきノイズのはずのそれが、思考の中心に居座る。


(生存確認を優先するべき対象……一名)


定義は曖昧で、基準は不明瞭。

それでもクロアは、その結論を“誤り”として切り捨てきれなかった。


その瞬間だった。――音がした。


遠雷のように低く、しかし確かに大地を震わせる、規則的な轟き。

空が鳴っているのではない。地が、応えている。


追ってきている。


クロアの思考が、再び加速する。

だが先ほどまでとは違う。そこには微かな焦りが混じっていた。


後衛でも、すでに異変は察知されていた。


「……来るぞ」


短く吐き捨てたのは、赤砕騎士団の一人だった。

振り返ることなく、ただ剣の柄に手を掛ける。

その隣で、ローガが静かに息を吐く。


「距離は」


「そう遠くはねえ。……音が軽すぎる」


「軽い?」


「数が絞られてる。追撃用の精鋭だ」


ローガの視線が、隊列の後方――闇の向こうへと向けられる。

見えてはいない。だが、分かる。

来るべきものの性質が。


「……クロア狙いか」


誰かが呟いた。

否定する者はいない。


ローガは一度だけ、前方の長い列を見やる。

疲弊しきった人々、その中に守るべき対象がある。


そして、背後。

迫り来るそれ。

判断は、一瞬だった。


「後衛を分ける」


低く、しかし揺るぎない声。


「ここで止めるぞ。時間を稼ぐ」


誰も異を唱えない。

それが何を意味するか、全員が理解しているからだ。


――切り捨てではない。

だが、戻れはしない。


剣が抜かれる音が、静かに連なった。

その音は、やがて遠雷と重なり、ひとつの予兆となる。

戦いは、まだ終わっていない。



剣が抜かれる音は、やがて風に紛れて消えた。

代わりに満ちていくのは、張り詰めた沈黙だった。


後衛に残った赤砕騎士団の面々は、互いに言葉を交わさない。

必要がないのだ。


ここから先にあるのは、命令でも戦術でもなく――ただ、時間を削る行為だけなのだから。


ローガは一歩、前に出た。

足元の土が乾いている。

血を吸うには、ちょうどいい。


「……来るぞ」


誰に向けたものでもない呟き。

次の瞬間。

空気が、裂けた。


――轟音。


遅れて光が走る。

視界の端で、地面が抉れ、跳ね上がった土砂が宙を舞う。


雷撃。


だが、直撃ではない。

わざと外している。


「……測ってやがる」


誰かが歯噛みする。


試されているのだ。

距離、反応、密度――そして、恐怖の広がり方を。


次の一撃は、近かった。


地を這うように走った閃光が、隊列の端を舐める。

悲鳴が一つ、遅れて上がる。


焼けた匂い。


倒れた兵の身体が、わずかに痙攣し、やがて動かなくなる。


「散開しろ、間隔を取れ!」


ローガの声が飛ぶ。


即座に陣形が崩れる。

密集は死を呼ぶ。

だが、散開すれば各個撃破の危険が増す。


――どちらを選んでも、正解ではない。


その迷いを嘲笑うかのように、第三の雷が落ちた。


今度は、真上から。

閃光が視界を塗り潰し、音が遅れて世界を引き裂く。


「っ……!」


膝をつく者。

耳を押さえる者。

ほんの一瞬、意識が持っていかれる。


その隙を、待っていた。


「――来る!」


視界の奥、黒が走る。

いや、影だ。


森の縁、瓦礫の陰、地形の凹凸を縫うように、複数の影が一斉に距離を詰める。

軽い。速い。無駄がない。


ダークエルフの追撃部隊。


「迎え撃て!」


号令と同時に、衝突。


刃と刃が噛み合い、火花が散る。

しかしその一合で、すでに差は明らかだった。


速い。


重さではない。技でもない。

躊躇なき精兵。


喉を狙う。

関節を断つ。

致命のみを選び取る動き。


赤砕騎士団の一人が、踏み込みを半歩迷った。

その瞬間、懐に潜り込まれる。


「――ぐっ」


短い声。

刃が抜ける音。

血が、遅れて噴き出した。


「下がるな!ラインを保て!」


ローガが吼える。


自身もまた、一体を受け止めていた。

打ち込まれた刃を弾き、返す刃で薙ぐ。


浅い。

だが、それでいい。

止めることが目的だ。


「時間を稼げ! 一秒でも長くだ!」


その言葉に、応じるように。

再び、雷が落ちた。

今度は――旗手もろとも赤砕の団旗が焼き払われる。


「っ……はは、上等だ」


誰かが笑う。


もはや、敵味方の区別すら曖昧になる乱戦に変じつつある戦場。

雷撃は巧みに戦線を巻き込み分断する、そして彼らは止まらない。

雷撃で障害を焼き払いながら、なお前へ出る。


「狂ってやがる……!」


違う。

狂っているのは、むしろ。


「……来るぞ、本命が」


ローガの低い声。

戦場の密度が変わる。

影の群れの動きが、一瞬だけ止まり、道を開ける。

その中心。


空気が、軋む。落ちる。

今までのどの雷とも違う、明確な質量を持った一撃が。

光が、世界を白に塗り潰した。

轟音すら置き去りにして、ただ圧だけが叩きつけられる。

土が抉れ、空間が歪み、衝撃が全身を貫く。


そして。

その中心に――


「……ようやく、顔を出したか」


ローガが、血の混じる唾を吐き捨てた。

雷の残光の中、ゆっくりと歩み出る影。

それは人の形をしていた。

だが、その周囲だけが、嵐のように歪んでいる。


――セルケト。


名を呼ぶ者はいない。

だが、誰もが理解する。


これが、追走の“核”だと。


その視線が、後衛を一瞥する。

そして、わずかに――興味を失ったように逸らされた。


「……違うな」


初めて、声が落ちた。

低く、乾いた声音。


「ここにはいない」


次の瞬間。

雷が、前方へと伸びた。

後衛を無視し、避難民の列、そのさらに先へと――


「――させるかよ!」


ローガが踏み込む。

その背に、残存兵が続く。


止める。ここで。

一歩でも、先へは行かせない。

それが、彼らに残された、唯一の役割だった。



雷が、世界を貫こうとしていた。


一直線に、無慈悲に。

後衛を越え、その先――避難民の列へと届く軌道。


止める術はない。誰もが、そう理解した。


その瞬間。光が割り込んだ。――壁。


それは出現したのではない。

まるで初めからそこに在ったかのように、空間そのものが発光し、幾何学的な紋様を描きながら広がる。


雷撃が、それに触れる。

弾けるはずの衝突は起きなかった。


滑る。


軌道が歪む。

逸らされる。

奔流のようだった雷光が、柔らかく撫でられたかのように進路を変え、遠方の大地を抉り取った。


一拍の静寂。そして。


「――天なる祝福よ、我らが活路を照らし給え!」


声が、降りてきた。

空からではない。

しかし、確かに上空から響いたように感じられる声。


次の瞬間、光が満ちる。


それは眩さではなかった。

暖かさでもない。

もっと直接的な何かが胸に訴えかけて止まない――圧倒的な肯定感。


生きていることを、戦っていることを、存在そのものを肯定される感覚。


傷口が、閉じる。

震えていた膝が、立ち上がる。

折れかけていた剣を握る手に、力が戻る。


「……なんだ、これ……」


誰かが呟く。

答えは、すぐに示された。


光の壁の向こう側。

整然と歩を進める一団があった。


黒い装束。


だが、その黒は闇ではない。

光を拒むのではなく、内側から照らされることで際立つ黒。


それは修道服だった。


その先頭に立つ男が、ゆっくりと歩み出る。

幾何学的な模様で覆われた仮面。

その奥の表情は窺えない。

だが、確かに笑っていると分かる。


左手に抱えた一冊の福音書――スペルバイブル。

その頁が、風もないのにめくられていく。


光は、そこから溢れていた。


「我が信仰に、一切の迷いなし!」


一歩。


踏み出すたびに、足元から紋様が広がる。

円。線。交差。重なり。


それは陣であり、祈りであり、支配だった。

その背後から、拝兵たちが続く。


統一された歩調。

揺るぎない視線。

彼らの瞳にもまた、同じ信仰の光が宿っている。


恐怖は、ない。

いや――不要なのだ。


「……援軍、か」


ローガが低く呟く。

だが、その声には僅かな違和が混じっていた。

救われたはずだ。

実際、命は繋がった。それでも。


「これこそが、創世の奇跡!主神の御威光である!」


男――オースが、両腕を広げる。


その瞬間。

光が、膨張した。


戦場全体を包み込むように、祝福が拡散する。

兵だけではない。

後方の避難民にまで、その波は届いていく。


泣いていた子供が、ふと顔を上げる。

怯えていた女が、静かに立ち上がる。


そして。誰からともなく、言葉が零れた。


「……祝福を」


小さな声。

だが、それは伝播し連鎖する。


「祝福を……」

「祝福を……」


祈りが、伝染する。

意志とは関係なく。

感情とも切り離されて。


ただ“そうあるべきだ”という確信だけが静かに、確実に広がっていく。


「……おい」


ローガが、隣の兵に目をやる。

その兵は、笑っていた。

傷だらけの顔で、血を流しながら、恍惚としたように。


「まだ……戦える……」


そう言って、前へ出ようとする。


「待て、無理に出るな――」


制止の声は、届かない。

兵はすでに、光の中へと踏み出している。

オースの視線が、ふと動いた。


戦場ではない。

そのさらに奥――避難民の列。


その一点を、捉える。


「……ああ」


仮面の奥で、声が震える。

歓喜に近い、何か。


「これこそが……」


スペルバイブルの頁が、一斉にめくれ上がる。

光が、収束する。


「創世の、奇跡……!」


その視線の先にいるのが、誰か。

この場にいる全員が、まだ知らない。

ただ一人を除いて。


「――クロア」


その名を、呼ぶ者はまだいない。

だが。戦場の意味が今、書き換えられようとしていた。



光が満ちる戦場の中心で、雷が唸る。

二つの異質な力が、互いを拒むように空間を歪めていた。


セルケトは歩みを止めない。


その足取りは変わらず静かで、しかし一歩ごとに空気が軋む。

纏う雷光は制御され、収束し、刃のように鋭く凝縮されている。


対するオースは、両腕を広げたまま立っていた。


祝福はすでに展開されている。

彼の周囲、いや戦場そのものが領域と化していた。


視線が交差する。

その一瞬で、互いの性質を理解する。


そして――


「哀れを通り越して滑稽だぞ、空虚な信仰の傀儡、その尖兵よ」


セルケトの声は低く、冷え切っていた。


「死が無意味と信ずるならば、まずは己で死を実践してみせろ」


空気が、張り詰める。だが。オースは、笑った。

仮面の奥で、確かに歓喜に震える気配。


「邪教の徒が、我らの信仰を乱すことなどできはしない」


スペルバイブルの頁が、激しくめくれ上がる。

光が、脈打つ。


「信じればこそ――我らは主神の行いし奇跡の道を辿れるのだから!」


瞬間。雷が落ち、光が弾けた。衝突。

音は、遅れて世界を引き裂いた。


セルケトの雷撃は一点に収束し、槍のように突き穿つ。

対する光は面で受け、幾何学的な紋様が衝撃を分散し、逸らし、再構築する。


だが、完全ではない。

逸らしきれなかった余波が、地を抉り、空間を裂く。


「――!」


オースの足元の紋様が一瞬、乱れる。

そこを逃さない。

雷が、増える。

一本ではない。

数十、数百の細い閃光が、網のように張り巡らされる。


拘束。回避の余地を削ぎ、逃げ場を奪う。


「穿て」


低い一言。

すべての雷が、一点へと収束する。

だが。


「――祝福は、途切れない!」


オースの声が、それを否定した。

光が、爆ぜる。

それは防御ではなかった。

領域の拡張。

戦場全体に広がっていた祝福が、一斉に逆流する。

拝兵たちの身体が、光に包まれる。


「進め、真理を愛する勇士たちよ」


短い命令。

それだけで、十分だった。

拝兵が前へ出る。

雷装兵が応じる。

激突。


剣が交差し、槍が弾け、肉が裂ける。

だが、その様相は明らかに異質だった。

拝兵は、止まらない。

斬られても。

貫かれても。

光が傷を覆い、動きを繋ぎ止める。


否――あまりにも繋ぎ止めすぎている。


「まだ……だ……!」


腹を裂かれた兵が、なお前へ出る。

腕を失った者が、歯で武器を噛み、突進する。

常軌を逸した持続。

それは蛮勇ですらない。


「……壊れている」


ローガが低く呟く。

その視線の先で、拝兵の一人が限界を迎えた。

光が、膨張する。

身体が、耐えきれない。

内側から焼き切れるように、崩れ落ちる。


それでも。

その顔は、笑っていた。


「――祝福を……」


消える直前まで、祈りを口にしながら。


一方で。

雷装兵は、止まらない。

損耗を前提とした動きへの切り替え。

仲間の死さえも活用する高度な連携。

冷徹な機能。


対して、拝兵は明確に意志を失いつつある。


だが、戦場の中心。

そこだけは別だった。


セルケトとオース。

雷と光が、幾度もぶつかり合う。


「無駄だ」


セルケトが踏み込む。

距離が一瞬で詰まる。

至近。雷が刃となる。


「貴様のそれは、力ではない。寄せ集めた他者の残滓だ」


振り下ろされる雷光の一撃。

それを。オースは、正面から受けた。素手で。

光が凝縮し、雷を押し止める。


「それこそが奇跡だと――なぜ理解できない?」


仮面越しに、視線がぶつかる。


「一人では到達できぬ高みを、我らは“共に”越える」


スペルバイブルが、輝く。

その光は、戦場の全てと繋がっている。


「我ら一丸となりて飢餓の荒野を越え、苦悩と哀切の荒れ海を渡り、やがて約束の地平へ、光となりて至らん」

「これこそが――」


声が、高まる。

祝福が、臨界へと近づく。


「創世の御業である!」


瞬間。光が、爆発的に広がった。

戦場が、白に染まる。

雷が、それを切り裂く。

だが、押し切れない。


均衡と拮抗。


そして。

その中心から、わずかに外れた場所で。

もう一つの戦いが、静かに極まろうとしていた。


光に照らされた避難民の列。

その中心にいる、一人の存在へと。

二つの視線が、同時に向けられていた。


――クロア。


雷と光。

そのどちらもが、求める対象。

戦場の意味は、完全に変質していた。



光と雷が拮抗する戦場の片隅で、クロアは立ち尽くす。


演算は、終わらない。


可能性の分岐。

損耗率の予測。

戦線維持時間の算出。


セルケトを排除する――成功率、低。

回避に専念する――捕捉率、増大。

全体撤退の維持――破綻、確定。


解は、収束しない。


(……優先対象)


思考の深層で、再びそれが浮上する。


ラテア。


生存確率の最大化。

そのための最短経路。


ノイズ。

排除すべき例外。


(――違う)


否定。


それは誤差ではない。

いま、この場において最も重い条件。

クロアの視線が、戦場を走る。


雷。光。

そして、その間にある歪み。


セルケト陣営――排除志向、精度高、脅威大。

オース陣営――影響拡大中、制御困難、だが即時脅威は低。


一瞬。長い演算が、ようやく結論へと到達する。


(暫定協調対象――オース)


決定。理由は、明確だった。


「ラテアの安全確保を最優先とする」


それが、いまのクロアの全てだった。


次の瞬間。

クロアは動いた。

光の側へと、一歩。

その挙動は小さく、しかし戦場にとっては決定的だった。

オースの視線が、確かにそれを捉える。


「――ああ」


歓喜が、滲む。


「見よ!」


声が、戦場を貫いた。


「主神の使徒が、我らに味方している!」


スペルバイブルが、激しく脈打つ。

光が、爆発的に増幅される。


「大義は我らにこそ在り!」


拝兵たちの動きが、変わる。

いや――リミッターが外れる。

限界という概念から。


「今こそ――光在れ!」


号令。

それは命令ではない。

啓示だった。


拝兵が、突撃する。

防御を捨てる。

回避を捨てる。

ただ、前へ。


雷装兵の陣形が、初めて乱れる。


斬っても、止まらない。

穿っても、進む。

光が、傷を繋ぎ、意志を上書きする。


「――真理の御許へ!」


誰かが叫ぶ。

その声に応じたのは、兵だけではなかった。

避難民。

列の中から、石が投げられる。

一つ。

二つ。

やがて、それは波になる。


「祝福を!」

「我らに奇跡を!」


恐怖に震えていたはずの者たちが、泣きながら、笑いながら石を投げる。

戦列に加わる。

武器を持たぬまま、ただ、前へ。

戦場が、完全に書き換わる。


「……っ」


ローガが、歯を食いしばる。

これは、勝利ではない。

だが――


「……押せるぞ」


その事実だけは、否定できなかった。

セルケトの視線が、わずかに動く。

戦場全体を、一瞥。

計測に合わせて流れるように評価。

そして。


「……ここまでか」


低く、淡々とした声。

雷が収束する。

拡散していた閃光が一点へと戻り、静まる。


「全隊、後退」


命令は短く、明確だった。

雷装兵たちが一斉に距離を取る。

統率は崩れない。


一瞬で、戦線が引き剥がされる。

追撃しようとする拝兵を、光が押し出す。

だが、届かない。

セルケトは、振り返らない。

ただ一度だけ。

その視線が、光の中心――オースへと向けられる。


「必ずや」


雷が、微かに鳴る。


「冥府の雷が、虚飾の祝福を焼き払うであろう」


次の瞬間。

その姿は、雷と共に消えた。

残されたのは、光。

そして――異様な静寂。


勝利のはずだった。

だが、歓声は、どこか歪んでいる。


笑っている。

泣いている。

祈っている。


すべてが混ざり合い、ぐちゃぐちゃになりながらも同じ方向へと向けられている。


光の中心。

オースは、ゆっくりとクロアへと歩み寄る。


「……素晴らしい」


その声は、震えていた。抑えきれない歓喜に。


「貴方こそが……」


スペルバイブルの頁が、静かに開かれる。

光が、収束する。


「導きの、証明である」


クロアは、動かない。

その選択が何をもたらしたのか。

理解はしている。だが。


(……ラテア)


その名だけが、思考の中心にあった。

戦いは、終わった。

少なくとも――この場では。

しかし何かが、確実に変わってしまった。


それを、誰もまだ言葉にできなかった。

――それが、狂化であったことを。


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