“なんで私ばっかり”を売った夜
仕事でうまくいかない日。
なんで私ばっかり、と心の中でつぶやいてしまう日。
そんな経験はありませんか?
もし、その苦しい経験を
誰かが「買い取ってくれる」としたら――。
これは、ある小さな路地にある
少し不思議なお店のお話です。
私の名前は、灰原 力乃。
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私の夢。
子供の頃から美容に憧れていた。
つらい時期、救ってくれたのはメイクだった。
鏡の前で少しだけ自信が戻るあの瞬間――。
あの魔法を、多くの女性に届けたかった。
だから私は、夢美容 という化粧品メーカーに入社した。
けれど現実は甘くない。
会社は小規模で社員も少ない。
仕事は毎日山積みで、
商品の企画どころか、営業や事務まで全部やらされる。
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今日もまた、必死に動き回った。
やっとの思いで取引先とのアポを取り、
商談のために商品を提案した。
だが返ってきたのは、冷たい一言。
「夢美容?どこそれ?
どこの馬の骨かわからない企業なので、お断りします。」
胸の奥がギュッと縮む。
悔しいけれど、何も言い返せない。
私はそのままうつむいて取引先を後にした。
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そして、また自分を責める。
(なんで、私ばっかり……)
時計を見ると18時を過ぎている。
みんなが家に帰る時間。
でも私にとっては、ここからが“本番”だ。
夜の受注確認、翌日の資料作成、
次の商談の段取り。
あと5分で次の取引先に移動しないといけない。
小走りで資料をまとめながら思う。
(急がなきゃ、急がなきゃ……)
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そう思った矢先だった。
前から楽しそうな笑い声が聞こえた。
振り返ると、五人ほどの女性たちが
仕事終わりの軽やかな表情で歩いていた。
「ははは〜ほんとウケる!」
「聞いてよ〜今日さぁ、上司がね……」
明るい声。
リラックスした笑顔。
仕事終わりの自由な空気。
その瞬間、胸の奥に小さく刺さるものがあった。
(……なんで、私ばっかり。)
その言葉が、ふっと心の中でこぼれた。
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そのとき、視界の隅に何かが入った。
細い路地の奥――
古びた木製の看板が、夕風にゆらゆら揺れている。
『経験、買い取ります』
怪しい。
そう思って通り過ぎようとしたその瞬間、
看板の下に書かれた文字が目に飛び込んできた。
「苦しい経験はありませんか?
“なんで私ばっかり”――その経験、手放してみませんか?」
鼓動がひとつ跳ねた。
(……まるで、私のことを言ってるみたい。)
足が勝手に、路地の奥へ向かっていた。
恐る恐る、店の扉に手を伸ばす。
カランカラン。
小さな鐘の音が、静かに鳴り響いた。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
「経験を買い取る店」がもし本当にあったら、
あなたはどんな経験を手放しますか?
辛い出来事も、見方を変えると
誰かにとって価値のある経験かもしれません。
この物語を通して、
そんな不思議な世界を少しずつ描いていけたらと思っています。
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