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遠音  作者: 李孟鑑
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(四)

「ところでつかぬ事を訊くが、そなた、親きょうだいなぞはおらぬのか」


 そのまま笑いを収めて、武者がふと思い出したように言った。


「そのように不自由な身体であるのに、いつ見てもひとりきりで商いをしておるゆえ、少々気になったのだ。この間もそうであった。ここに布陣して日の浅い頃にも、幾度かそなたを見たように思うのだが、その際もひとりであった。商いを手伝うてくれる家の者はおらぬのか」


「いいえ」


 ととよは首を振って、一昨年の冬に母が病で死んで、以来ひとりで暮らしていると話した。


「父親や、良人もおらぬのか」


 武者は重ねて訊いた。とよは独り身だとだけ答えた。父親については、もとよりとよは答える術を持っていなかった。恐らくはとよの生まれる前に死んだのであろう父のことを、とよはその名前すら知らないのだった。母は生きている内に何も語らなかったし、片親しかいない子供は村では珍しくもなかったために、とよもまた父のいないことを何と思うこともなく、尋ねる折はついぞなかった。ただ母の通夜に集まってくれた人々の囁き合う話から、同郷の男ではないことだけが、どことなく察せられた。それが、とよが父という人について知っている全てだった。言葉をにごしたとよの様子に、武者はおおよその事情は飲み込んだようで、それ以上尋ねることはせず、


「難儀であろうの、その目では」


 とつぶやくように言った。いたわる言葉が嬉しく思われて、とよは「慣れました」と微笑みを浮かべて見せた。今度は武者の方が黙っていた。茶をすすり上げる音だけが聞こえ、けれども微笑んで見せた口元に、触れるような視線が静かに当たるのが分かった。


 やがて武者は茶碗を床にとんと戻すと、


「そなた、村はどこだ」


 と言って話題を転じた。とよが村の名を言うと、武者はああ何某の、と名主の名をひとりごち、それが起点となって、二人の間に会話がゆっくりと流れ出した。武者は村や市の様子を尋ねたり、または身辺の雑事や誰かから聞いたらしい寸話などを語った。とよは武者の話に短く相槌を打ったり、はい、や、いいえ、のようなごく簡単な受け答えを返した。そのように、武者ととよの会話は、特別な色や匂いのまるでない、ごく淡く浅いものであった。時々は交わす言葉が淡くなり過ぎて不自然に途絶えることすらあったが、しかしそれは二人の間に気まずさとはならなかった。沈黙は沈黙ではなく、会話のごく控えめな一つの形であるかのようだった。


 茶室は静かだった。寺の前の通りにも多くの物売りが行き来し、筵を広げているはずであったが、茶室は境内の奥まった所に建っているらしく、おもての賑わしさはほとんど届いて来なかった。まれに明かり障子の開いた向こうに売り声や喚声の聞こえることもあるにはあったが、それとて茶室の静けさを乱すどころか、むしろ際立たせる役割りしか果たし得なかった。その静かな中にあって、武者の声もまた静かだった。低く抑えて語る声は、とよに琵琶音を想像させた厚く強い音は遠くに影を潜め、笛の余韻に似た丸みのある中音と、それからあの高い掠れ音のみが澄明に耳に響いた。それが、茶室の温もりと静けさと、時に微風に乗って入り込んで来る木々の穏やかなさざめきとに、美しく相和していた。雑踏の喧騒や、荒々しい雑兵どものひしめくいくさ場で大音声を上げるよりも、このような優しい空気の中で心静かにものを語るのに、武者の声はむしろ合っているようだった。澄んだ細流のような、寂しい風のような、その美しい声音をこうして何に乱されることもなく心ゆくまで聞いていられることの幸せを、とよは心の内に噛みしめた。


「あの、殿様」


 幾度目かに会話が長く途切れた時、とよはためらいがちに口を切った。


「明日もまた、饅頭を買うていただけますか」


 これ程の短い言葉を言ううちにも頬が熱くなって、とよは顔を上げられなかった。顔を伏せたまま急いで言葉をついだ。


「殿様のお手は煩わしませぬ。お許し下さるなら、門前の御家来衆にことづて致しとうございます。召し上がって下さいませぬか」


 思い切ったようなとよの言葉であったが、


「いや、それには及ばぬ」


 しかし武者はそう言って遮った。


「饅頭は今日限りでよい。わしは、明日には全軍率いて出陣せねばならぬゆえな」


「明日……」


「うむ、波の按排にもよるが、ここ数日は穏やかな日が続くそうだ。十中八九、明日が出陣であろう。出陣前の陣屋の混乱は大変なものだ。そなたの折角の心遣いも無駄になってしまうことと思う。それゆえ、わざわざ来るには及ばぬ」


「……承知致しました」


 とよは小さく答えた。これで、武者と自分とを(つな)ぐものは何もなくなるのだと思った。けれどもそれは、もとより分かっていたはずのことに違いなかった。とよはうつむけていた顔をようやく上げた。両手をつき、


「御武運をお祈り致します」


 武者の方へ頭を下げた。武者は


「うむ」


 と短く答えた。どことなく言葉少なげであった。それを潮にとよはいとまを告げた。武者は傍らへ立って来て、ずしりと銭の詰まった皮袋をとよの手に握らせた。とよは両手でおしいただくようにして、皮袋を懐へしまった。それを待って、武者はとよの手を取った。


「門まで送って行こう」


 と言った。


「いえ、そのようなお気遣いは。私ならひとりで戻れますゆえ」


「初めて来た寺で、手引きもなしにどうやって戻るのだ」


 無謀な遠慮を可笑しがりながら、武者はとよの手を取って立たせ、そのまま戸口へ導いて行った。戸を開けるとすぐに足音が馳せ寄って、武者に履きものを用意し、それからとよの足にも草鞋を履かせた。


 茶室を出て庭に下りると、風が肌に触れた。風はおちこちの葉叢(はむら)を低く騒がしながら、土と、落葉と、湿った苔と、松明の灯と、それから庭に植えられた木々の入り混じった、つんと冷たい匂いを身の周りにいちどに運んで来た。風の内に、とよは静まった肌寒さを感じた。歩み出そうとして、武者はその足をつと止めた。


「萩の花が咲いたのだな」


 と、ぽつりと言った。秋日の移ろいを確かめるかのような、しみじみとした口調であった。武者の声に誘われて、とよも初めてその香りに気がついた。風がひとかたまりに運んで来た匂いの中から、萩の香りはみなもの落花のようにふと一点、甘やかに浮かび上がった。


「あ、香りが致します」


 とよも言った。武者はそのまま立ち止まって、花に眺め入っている様子だった。武者の纏った薫き物の香りと、冷たい風の中に立ち昇った花の香りとが、とよの鼻先で馨しく結び合った。清らかな萩の香りと共に、萩を見つめる武者の心持ちがこちらに移って来るような思いがした。やがて、武者は歩を進めた。風が立って萩の匂いを緩やかに砕き、背後へと運び去った。手を引かれて歩むとよの傍には、薫き物の香りだけが残った。


 石だたみを踏んで武者ととよは庭を渡って行った。吹き寄せる風に、歩む周りには静かな葉音が穏やかな波のように絶えず鳴った。頭上をざわめきが驟雨(しゅうう)のように行き過ぎて、足元に乾いた音のからからとこぼれるのは、先の枯れ縮れたもみじ葉でもあろうかと思った。また石だたみを踏む傍らに重たい葉のしっとりと擦れ合うのは、桔梗や竜胆(りんどう)の可憐な草花でもあろうかと思った。どこか離れた所で遣り水の落ちる音がかすかにした。藪の間で秋の虫が一声、凛と鳴いた。聞こえる音と言えばそればかりだった。それ程にこの永興寺の庭は静かだった。門の外に行き交うはずの俗世の雑音は今もって聞こえない。のみならず、陣屋には大勢の兵士が出入りしているであろうに、その声も、打ち物の音も、絶えたようにここには聞こえて来ない。まるで自分と、傍らの武者と、唯二人のみがこの世に取り残されたようだと、そんな思いを静寂はおのずからとよに抱かしめた。


 辺りに満つる葉音の囁きに丸く包まれこの世から遠く隔てられているような心持ちを抱いて、とよは手を引かれつつ石だたみを歩いた。傍らを松の脂の匂いが過ぎた。一群れに植えられた竹叢(たけむら)の、鋭い葉の蕭然(しょうぜん)と鳴く音が過ぎた。足の下には短い石段が過ぎた。遣り水は近づいたり、遠ざかったりした。石段を下りる時、武者はとよを支えるように、握った手に少し力をこめた。


 山門を出ると、人もまばらになった通りは虚ろに寂しかった。門柱の傍らに据えられた篝籠(かがりかご)の中に薪のはぜる音ばかりが鋭くこだました。門前には駕籠が待っていた。とよを村まで送り届けるための駕籠であった。乗るようにとよを促して、武者は握っていた手を離した。いつしか地に下りていた夕暮れの、冷ややかな孤独が掌にしんと沁みた。

 

「達者で」


 短く、武者の声がした。とよは黙ってこうべを深く垂れた。駕籠()きの者が腕を取って駕籠に乗せた。戸がぱたりと閉じ、駕籠はすぐに動き出した。その夜、茅萱の葉叢はそよとも揺れなかった。何も知らぬかのようにそびらを向け、無表情な沈黙ばかりをとよの耳に伝えた。



 厳島にて陶の軍勢が敗走したとの報にとよが接したのは、それから半月近く経ってのことであった。陶軍は島の西岸に接する塔の岡に布陣し、毛利の出城である宮尾城と対峙していた。そこへ、十月一日の早朝、折りからの風雨を衝いて渡島した毛利軍に二方からの奇襲を受けたのである。苛烈と酸鼻を極めた戦いのすえ、陶軍は総勢二万のうち、四千人が命を落とした。八千と言う者もあった。どのみち流れた血があまりに多過ぎて、正しい数は誰も知らなかった。討ち死にした者の中には総大将陶晴賢(すえはるかた)の名もあった。晴賢は一旦は追手を振り切って島の南端に近い大江浦まで逃れた。しかしそこに舟を見つけられず、脱出叶わぬと悟ってそのまま山中に取って返し、自刃して果てたのだと、速耳の商人は周りに人を集め大声で語った。その日とよは、永興寺の練り塀の傍らに長いこと佇んで動かなかった。季節が晩秋に移ろった通りは、人が絶えると風ばかりが残り、薄闇は骨にまで沁み入るようだった。武者の名をとよは訊かなかった。生死を断ずる術などないはずであるのに、とよの心はしかし武者の死を疑わなかった。のみならず、あの風に絶えて行く鐘の音のような、儚く美しかった声音の思い起こされる時、その人の死ぬさだめを、巡り会うそのずっと遠い昔より知っていたような、そんな思いすら身の内に迫った。


 厳島にて陶晴賢を破った毛利元就はすぐさま兵を返し、周防との国境を破った。安芸と境を接する岩国は真っ先に侵攻を受け、ついこの間まで陶軍の本陣であった永興寺には、半月も経たずに毛利の紋が(ひるがえ)った。戦火はやがて岩国を通り過ぎた。そして多くの血を流しつつ、周防の地を西進した。そうしてついに、国主大内義長(よしなが)は長門長府の勝山城まで追いつめられて自刃し、周防大内家はここに滅んだととよが聞いたのは、厳島の合戦からわずかに一年半ののちであった。大内から毛利の世に変わったとて、とよの暮らしは何が変わるでもない。毎日のように菜を煮、饅頭を蒸し、市へ通い、その繰り返しがあるだけである。自分の身の周りにさえ何事も起こらぬならば、それで世は安寧(あんねい)なのだととよは思う。


 こんにちに至るまで、とよは武者の死を悲しいと思ったことはない。心がその死を悲しみ、悼むには、二人の間に結ばれた絆はあまりにも淡いものであった。けれど、茅萱の葉叢の夜風に騒いで静まらぬ夜、柔らかく冷たい糠雨の静やかに地を覆って止まぬ夜、とよは、その名すら聞かぬまま別れたあの武者――陶晴賢の声を夢の中に聞いて、そのままぽっかりと目覚めてしまうことがある。流れに漂うもみじ葉がやがては水底に沈んで朽ちるさだめであるように、心に漂う思い出も、いつかは時の底に沈んで果てるのがさだめである。日々ひとひら、またひとひらと積もる歳月の中に、彼の人の声もまたうずもれ、一筋の淡い遠音となってゆくただそれのみが、とよには寂しい。

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